29_侵された聖域
光が収まった後の主寝室は息が詰まるほどの凄絶な沈黙に支配されていました。
転移門の莫大な魔力残滓が、パチパチと空気を焦がす音だけが不気味に響いています。
黄金の光を背負って現れたその人は、紛れもなくわたしの愛する夫、レインハルト様でした。
その軍服は戦場の土と誰のものとも知れない黒ずんだ血で汚れ、肩でわずかに息をしています。
しかし、わたしを捉えたその黄金の瞳は、これまでに見たことがないほど冷たく、絶対零度の氷のように凍りついていました。
無理もありません。
彼の視線の先には、肌を露わにした薄い寝衣姿の妻が、他の男にベッドへと押し倒されているという、言い逃れようのない最悪の不貞の現場があったのですから。
心臓が早鐘のように打ち鳴り、全身の血の気が一瞬にして引き剥がされていくのを感じました。
恐怖で喉が痙攣し、ひゅっ、と短い息を呑む音しか出すことができません。
わたしはあまりの絶望と罪悪感に、身動き一つとることができなくなっていました。
「……」
レインハルト様は、一言も発しませんでした。
激しく怒鳴り散らすわけでも、狂乱して強大な攻撃魔法を放つわけでもありません。
ただ静かに、恐ろしいほど静かに、寝室の床を歩いてこちらへと近づいてきます。
コツ、コツ、と軍靴が床を叩く音が、死神の足音のように響きました。
その顔には、ふわりとした、ひどく優しげな笑みが浮かんでいました。
口元は確かに笑っているのに、見開かれた黄金の瞳の奥は少しも笑っておらず、どろどろと煮え滾るような嫉妬と殺意で焼け爛れているのがはっきりと分かります。
その異様なアンバランスさが、どんな怒声よりも恐ろしく、わたしの魂を根底から震え上がらせました。
わたしの上に覆い被さっていたライゼン様も、主君の突然の帰還と圧倒的な魔力の圧に、顔面を蒼白にして身を強張らせました。
彼は弾かれたようにわたしから離れ、ベッドの脇へと降り立ちます。
しかし、彼は逃げ出したり、土下座をして命乞いをしたりはしませんでした。
それどころか、半裸のわたしを背中に庇うようにして、レインハルト様の前に立ちはだかったのです。
「閣下。……突然のご帰還、驚きました」
ライゼン様の声は微かに震えていましたが、その翠の瞳には、狂気に当てられた男特有の歪な決意が宿っていました。
彼は、自分が死罪に問われる大逆を犯した現場を押さえられたというのに、堂々と胸を張って主君を睨み返したのです。
「言い訳はいたしません。……私は、奥様を愛しています」
その言葉が響いた瞬間、寝室の空気がピキリと音を立てて凍りつきました。
わたしはベッドの上でガチガチと歯の根を鳴らし、シーツを掻き毟りながら首を横に振りました。
(やめて、お願いだからもう何も言わないで)
わたしの声なき懇願など届くはずもなく、ライゼン様は自らの破滅を決定づける致命的な言葉を口にしてしまいました。
「奥様も、こんな私を求めてくださった。……孤独に泣く彼女を放置し、苦しませていたのは他でもないあなたです!」
――ブツンッ。
何かが、決定的に千切れる音がしました。
それは、レインハルト様の中で辛うじて保たれていた理性の糸が、修復不可能なまでに断ち切られた音でした。
「へぇ」
レインハルト様の口から漏れたのは、ひどく甘く、そして背筋が凍るほど冷酷な響きでした。
「君がシャルを。……シャルが君を、求めた、ねぇ」
ライゼン様は殺気に反応し、即座に結界魔法を展開しました。
それはわたしと彼を包み込むような形で、かえってレインハルト様の怒りに火を注いだようでした。
最愛の夫はその黄金の瞳を殺意を込めて光らせ、指先に魔力を込めます。
「はあ……。……僕の手のひらの上で踊ってくれさえすれば、それで良かったのに……」
レインハルト様の魔法が炸裂し、結界がガラスが割れるような音を立てて霧散すると、ライゼン様はそのまま壁に飛ばされるように激突しました。
――ダアァァァンッッ!!
「ぐあッ……!? ……はぁ、はぁ、はぁ……クッ……」
「単なる餌の立場でありながら、主君の妻に恋情を抱き、あまつさえ僕から彼女を奪おうとするとはね」
死神のように冷たい足音を鳴らしながら、レインハルト様は倒れ伏すライゼン様にゆっくりと近付きました。
「身の程知らずとはこのことだ。……そうは思わないかい、ライゼン?」
「わ、私は……! 奥様を心の底から、魂の奥から愛してしまったのです……!! 奥様も私の愛に応えてくれました」
圧倒的な力量差を自覚しながらも、若く、誘惑の香りに脳髄まで毒された彼はもう、正常な判断などできなくなっているようでした。
「――いやぁっ!! もうやめて!! ライゼン様、違うのです……っ!!」
わたしは耳を塞ぎ、髪を掻きむしりながら、悲痛な叫び声を上げることしかできなかった。
「フフッ、面白いね。……だが、そろそろ不快だよ、ライゼン。誠実で忠実な部下だった君らしくもない。その濁った眼の色は僕を見ていてるようで余計に勘に触る」
「――閣下……ッ!!」




