28_主の帰還
深い泥沼に足を踏み入れてしまったかのように、わたしの毎日は重く、ただ絶望だけが積み重なっていくようでした。
レインハルト様からの手紙は、あの日以来一通も届いていません。
もしかしたら、わたしのことなんて忘れられてしまったのかもしれない。
あるいは、戦地で万が一のことが起きてしまったのではないか。
そんな不安と悲しみが、精気切れによる身体の苦しみに拍車をかけ、わたしの心身を容赦なく削り取っていきました。
そんなわたしの異常な様子に、家族の中でいち早く違和感を覚えたのは長男であるリオンでした。
「母上。お加減はいかがですか?」
その日の午後、リオンがわたしの寝室を訪ねてきました。
まだ幼いながらもレインハルト様譲りの聡明さと強大な魔力の片鱗を見せる彼は、最近ベッドから起き上がれなくなったわたしを深く案じてくれていたのです。
わたしは必死に顔色の悪さを化粧で隠し、シーツの上から微笑みかけました。
「ええ、ありがとう、リオン。……少し疲れが出ているだけだから、心配しないで」
リオンはわたしのベッドの傍らに立ち、少し悲しそうな黄金の瞳でわたしを見つめました。
「父上がいらっしゃらないから、母上は寂しいのですよね。僕がもっと大きければ、母上をお守りできるのに」
「そんなことないわ。あなたがこうして会いに来てくれるだけで、お母様はとても嬉しいのよ」
わたしが彼の手を握ろうとした、その時でした。
コンコン、と控えめなノックの音がして、ライゼン様が部屋に入ってきました。
彼の手には温かいハーブティーの乗った銀盆が握られています。
「失礼いたします。奥様、お薬の時間ですのでお茶をお持ちしました」
いつもと変わらぬ、温厚で穏やかな声。
しかし彼が足を踏み入れた瞬間、寝室の空気が微かに張り詰めたのをわたしは感じ取りました。
リオンがゆっくりと振り返ってライゼン様を見据えたのです。
幼い子どものものとは思えない、静かで射抜くような眼差しでした。
「ライゼン殿。母上の薬や食事の世話は、アンナたち侍女の仕事ではないのですか?」
リオンの真っ直ぐな問いかけに、ライゼン様は歩みを止めず、柔らかな微笑みを浮かべたままで答えました。
「ええ、リオン様。ですが、奥様は現在ひどくお身体が弱っていらっしゃいます。万が一急に倒れられたりした際、女性の細腕ではお支えしきれないこともございますから。閣下より奥様の護衛を任された身として、できる限りお側で控えさせていただいている次第です」
大人としての余裕と、理路整然とした正当な言い分。
しかしリオンは納得した様子は見せず、少しだけ眉を寄せました。
「母上は、お疲れなのです。護衛の任であれば、扉の外で控えているだけで十分ではありませんか。……最近のあなたは、少し母上の私室に立ち入りすぎているように見えます」
その言葉に、わたしの心臓がドクリと大きな音を立てて跳ね上がりました。
リオンはまだ、わたしとライゼン様が夜ごとにどんな恐ろしい過ちを犯しているのか、その全貌を理解しているわけではありません。
けれど、聡明な彼には伝わってしまっていたのです。
ライゼン様から滲み出る、わたしに対する護衛の域を越えた『思慕』と、この部屋に漂う何か不健全でおかしな空気が。
リオンの疑念に満ちた黄金の瞳に見つめられ、わたしは罪悪感で息が詰まりそうになりました。
――息子にだけは、こんな汚らわしい母親の姿を知られたくない。
「リオン……ライゼン様は、お仕事をしてくださっているだけよ。お薬を飲んだら休むから、あなたはもう、サリエスたちのところへ戻ってちょうだい」
わたしは震える声で、必死に取り繕ってリオンを遠ざけようとしました。
リオンはわたしとライゼン様を交互に見つめた後、静かに頷きました。
「……分かりました。母上、ゆっくりお休みください」
リオンが部屋を出ていく後ろ姿を見送りながら、わたしの目からはポロポロと涙がこぼれ落ちました。
優しい子どもたちを騙し、愛する夫を裏切り、わたしは一体どこまで堕ちていくのでしょう。
ライゼン様は泣き崩れるわたしのそばに跪き、まるで慰めるようにわたしの頬に手を添えました。
リオンに向けられていた大人の余裕は消え失せ、彼の翠の瞳には、ひどく熱を帯びた暗い情念が渦巻いていました。
彼もまた、内心ではレインハルト様の血を引くリオンを警戒しているのでしょう。
この秘密がいつまで隠し通せるのか、誰も分からない危うい均衡の上に、わたしたちは立っていたのです。
***
その夜のことでした。
子どもたちが寝静まり、別館が深い静寂に包まれる頃。
扉の外で誰かとライゼン様の言い争うような声がかすかに聞こえてきました。
「?……なにかしら」
わたしは気だるげな身体を無理やり起こし、ゆっくりと扉に近付き、耳をそばだてます。
「……分かりました。であれば、明日朝にまた来ます」
「ええ。奥様はもうお休みですから、そうなさった方が良いかと」
(アンナ……?)
足早に遠ざかる足音を聞きながら、わたしはゆっくりとドアノブに手をかけました。
少し開かれた扉のその先から、ライゼン様の翠の瞳と視線が交差する。
「奥様」
「アンナだったの? 急用だったのかしら、こんな時間に……」
「シャルロット様。お休みになられていたのでは? さあ、夜冷えしますのでお戻りください」
ライゼン様はわたしの問いには答えず、有無を言わさない力でわたしの背に腕を回し部屋に押し込みます。
その手は熱く、またじわりと押し殺していた渇望が這い上がってくる。
分厚いカーテンが閉ざされた暗い主寝室に、わたしから漏れ出した甘く退廃的な誘惑の香りが充満していたのでしょう。
「シャルロット様……今日も、こんなにかぐわしい花の匂いをさせて……」
彼は熱に浮かされたような声でわたしの名前を呼び、ベッドに腰を下ろしたわたしの身体を強く抱きしめました。
暗闇の中で、彼の獣のようなギラギラとした瞳が光ります。
わたしは「いけない」と頭の片隅で警鐘を鳴らしながらも、身体は生きるために彼の熱を求め、無防備にもその口づけを受け入れてしまう。
「んん……っ、ライゼン、様……っ」
「私が満たしてあげます。もう、何も考えなくていい……」
彼がわたしの肩に大きな手を回し、そのままベッドへと押し倒した、その瞬間でした。
――バチィッ!!
突然、静まり返っていた広い寝室の空気が、耳を劈くような高周波の音を立てて激しく軋んだのです。
「な、なんだッ!?」
ライゼン様が驚いてわたしから身を離し、振り返ります。
わたしもベッドの上で身を縮め、その異変に目を丸くしました。
分厚い遮光カーテンが引かれ、闇に包まれていた寝室の一角の空間が、ぐにゃりと不自然に歪み始める。
次の瞬間、床に複雑で巨大な幾何学模様――魔法陣が浮かび上がり、まばゆいばかりの黄金色の光を放ち始めました。
その光は、王都の夜を切り裂く雷のように強烈で、凄まじい魔力の波動が部屋中を吹き荒れます。
家具がガタガタと震え、置かれていた花瓶が床に落ちて砕け散りました。
空間をこじ開けるようにして出現した光の柱の中で、何者かの長身のシルエットがゆっくりと形を成していきます。
「まさか……転移門……!?」
ライゼン様が愕然とした声を上げました。
遠く離れた戦場から強引に空間を繋ぎ、公爵邸の私室へ直接転移してくるなど、どれほど規格外の魔力を持った者であっても不可能なはずの神業。
しかし、その光の中から現れた軍服姿の男性の姿を見た瞬間、わたしの心臓は恐怖と歓喜で凍りつきました。
黄金の光を背に受け、冷たい夜気を纏って立っていたのは。
わたしが狂おしいほどに待ち焦がれていた絶対的な主君であり、そして今まさに、最悪の不貞の現場を見せつけてしまった夫。
レインハルト様、その人だったのです。




