27_灰の中の封蝋 アンナside
奥様の血を吐くような悲痛な懇願を背に受けながら、侍女である私、アンナ・ポーターは足早に別館の廊下を歩いていた。
この数か月間、シャルロット奥様のお身体は目に見えて衰弱しきっている。
シュルツ医師は心労だと診断したけれど、長年お側でお仕えしてきた私には、それが単なる心の病ではないような気もしてしまう。
先だってのヴァレンティーヌ卿の件もあり、奥様は何か恐ろしい、得体の知れないなにかに怯えているようにみえるのだ。
そして、おそらくその苦しみから奥様を救い出せるのは、この世でただ一人、前線に赴かれているヴァルテンベルク当代公爵であらせられるレインハルト様だけ。
それなのに、旦那様からの便りは一向に届かない。
いくら戦況が厳しいとはいえ、奥様をあれほどまでに溺愛し、執着しておられた旦那様が、これほど長期間にわたって音信不通になるなど到底考えられないことだった。
私は奥様に言いつかった通り、渡り廊下を抜けて本館へと向かい、公爵家の取りまとめを担う老執事の元へ急いだ。
「執事長。本当に、旦那様からの手紙は届いていないのですか? 奥様はご自分の手紙が届いていないのではないか、見捨てられたのではないかと、酷く思い詰めていらっしゃいます」
執務室に駆け込み、息を切らしながら問い詰める私を見て、机に向かっていた老執事は驚いたように目を丸くした。
「何を言っているんだ、アンナ。旦那様からの書状なら、すでに別館へお渡ししているぞ」
「え……?」
「つい一週間ほど前も三通目となるお便りが早馬で届いただろう? 護衛のライゼン殿が自ら『奥様へお渡しする』と仰って、持っていかれたはずだが……。まさか、奥様の手元には届いていないのか?」
「三通目……ですって……?」
その言葉を聞いた瞬間、私の全身からサァッと血の気が引いていくのが分かった。
旦那様からの届いていない封書は最初のものを除き少なくとも二通。
それがすべて、奥様の手に渡っていない。
それどころか、あの方は「手紙が届かない」と絶望し、涙を流し続けていらっしゃる。
(一体、どういうことなのか)
背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒を感じながら、私は老執事に短く礼を言い、弾かれたように別館へと引き返した。
別館の廊下を足早に進むと、ちょうど奥様の寝室の前から離れ、サロンで子どもたちの遊び相手をするライゼン様の姿があった。
その整った顔立ちには、いつもの温厚な護衛騎士としての表情が張り付いている。
しかし今の私には、その姿がひどく得体の知れない、恐ろしいものに見えた。
「ライゼン様。少し、よろしいでしょうか」
私は廊下にライゼン様を呼び出し、努めて冷静な声を装って問いかけた。
「どうされましたか、アンナ殿。奥様のお加減が急変でも?」
「いえ、そうではありません。……先ほど本館の執事長から伺ったのですが、ライゼン様が旦那様からの手紙を預かってくださったとか。合計で二通、なぜ奥様の元へお届けくださらなかったのですか?」
私の単刀直入な追及に、ライゼン様は一瞬だけ呼吸を呑み込む。
しかし、彼の表情には微塵の動揺も浮かばない。
「ああ、そのことですか。奥様は連日お加減が優れず、ひどくお疲れのご様子でしたからね。私が直接お部屋へ伺うよりも女性の方がよいかと思い別館の使用人の誰かに託しましたよ。奥様にお渡しするようにと」
涼しい顔で紡がれたその言葉に私はギリッと奥歯を噛み締めた。
別館には奥様のお世話や掃除のために、常時多くの女性使用人が出入りしている。
「誰かに託した」と言われてしまえば、今すぐ全員を集めて問い詰めない限り、彼の言葉の真偽を即座に確かめることはできない。
しかし、私には予感めいた確信があった。
この男は、嘘をついている。
日に日に主寝室に出入りする回数が増え、奥様を見つめる瞳には、一介の護衛が向けるべきではない熱を孕んでいる。
しかも旦那様からの手紙という、奥様にとって生命線とも言える最も重要な品を、名も知らぬ使用人に預けて放置するなど、優秀な彼がするはずのない失態。
「……そうですか。後ほど、使用人全員に確認を取らせていただきます」
「ええ、そうしてください」
すれ違いざまに立ち去ろうとする彼の背中に向かって、私はたまらず声を張り上げた。
「――ライゼン様!」
彼がゆっくりと振り返る。
「護衛としての熱心なお働きには感謝しております。ですが……最近、奥様との距離が近すぎるように思いますが」
それは侍女という立場を越えた、明確な警告だった。
ヴァレンティーヌ卿が倒れられたあの日から、奥様と彼の間には、第三者には立ち入れない異様な空気が漂い始めている。
私の棘のある言葉を受け、ライゼン様はふわりと穏やかに微笑んだ。
「私はただ、閣下から命じられた通り、奥様をお守りしているだけですよ。アンナ殿も、あまり思い詰めないように」
言葉こそ丁寧だったが、私を見下ろすその翠の瞳にはかつての誠実な光は完全に失われていた。
焦点が合っているようで合っていない、どこか昏く濁った瞳。
そこには理性を失うまいと必死に堪えているような、あるいはすでに狂気の底に足を踏み入れているような、一切の余裕がない男の情念が渦巻いていた。
彼が廊下の奥へと消えていくのを見届けた後、私は震える息を吐き出した。
手紙は、間違いなく彼が隠し持っているか、あるいは……。
最悪の想像が頭をよぎり、使用人たちにゴミ集積場の袋を確認するよう申し付けた後、私自身も別館の部屋を一つ一つ確認して回ることにした。
棚の中や本棚の隙間に隠されているならまだ良い方だ……そう思いながら。
そして奥様が自室に引きこもられてから、ほとんど使われなくなった小サロンの扉を開けた瞬間、私の鼻腔を微かな異臭がくすぐった。
まだ季節がら使用していなかった暖炉の中から、独特の饐えた匂いが漂っている気がしたのだ。
私は吸い寄せられるように暖炉へと近づき、火かき棒を手に取って灰の中を慎重に探った。
真っ白に焼けた灰の塊の中から、カチリと、硬いものが棒の先に当たる。
「これは……」
灰の中から転がり出てきたのは、半分以上が溶け、どろどろに変形した赤い蝋の塊。
すすけて黒ずんでいるが、辛うじて残った印影の部分には見間違うはずのない精緻な彫刻が施されていた。
ヴァルテンベルク公爵家の当主のみが使用する特別な意匠。
「ああ……まさか、これは……」
私は火かき棒を取り落とし、口元を両手で覆って絶句した。
これが奥様へ宛てた旦那様の手紙の封蝋である確証はない。
……けれど。
心臓が早鐘を打ち鳴らす。
(もしやライゼン様は旦那様からの手紙を奥様に渡さなかっただけではなく、意図的に、そして完全に隠滅するために、この暖炉で焼き捨てていた……?)
奥様がどれほど涙を流して便りを待っているかを知りながら、希望の光を自らの手で灰に変え、彼女を深い絶望の底に孤立させようとしている。
彼の目的は明らかだった。
この美しく静かな別館はいつの間にか、一人の男の歪んだ情欲と狂気によって、恐ろしい蜘蛛の巣へと変貌してしまっていたのだ。
灰の中で黒く焦げた封蝋を見つめながら、私はガチガチと鳴る歯の根を止めることができなかった。
奥様に知らせなければ。
少なくとも、お返事はあれから二通はいただいていることだけでも。
忠誠心と恐怖に震えながら、私は小サロンを飛び出した。




