26_待つ女、奪う男
夫が戦場へと旅立ってから、季節は確実に移ろい始めていました。
庭園の木々は色づき、吹き抜ける風にはどこか冷たい湿り気が混じっています。
けれども、わたしにとって時間はあの日から完全に止まったままでした。
この閉ざされた別館で、ただレインハルト様の帰還を待ちわびるだけの日々。
そんなある日のこと、遠く辺境伯の地へ嫁いだ友人、ナタリア様から手紙が届きました。
ナタリア様もまた、同じく戦地に赴く夫を持つ身として、わたしの孤独を案じてくださったのでしょう。
『戦時の夫を持つ女は、待つことも務めですわ。シャルロット様も、どうか強く、美しくお過ごしになって』
そんな励ましの言葉が綴られた便箋を読み終えると、わたしは胸が張り裂けるような切なさに襲われました。
待つことも務め。
その言葉は、鏡の中に映るわたしの姿を鋭く突き刺します。
夫を信じ、強く、美しく待つ妻。
それは、今のわたしが最も憧れ、そして誰よりも遠くにいる理想像でした。
わたしは強くなんてなれなかった……。
夫の愛と魔力がなければ理性を保てず、化け物のように他者の精気を貪ってしまう、弱くて汚らわしい存在。
手紙を読み終えたわたしの手からは、力がすうっと抜け落ちました。
身体を蝕む『飢え』はライゼン様から与えられる精気と魔力で生きながらえていました。
このまま誰にも知られず、この黄金の檻の中で干からびて死んでしまったほうが、いっそ楽なのではないか。
そんな投げやりな考えが頭をよぎるたび、わたしは自分の頬を叩いてその思考を打ち消すのです。
けれど衰弱しきったわたしの身体は、もはやわたしの意思ではどうにもできないほど脆くなっていました。
「奥様、またお顔色が……」
そばに控えていたライゼン様が、わたしの変化を敏感に察知して駆け寄ってこられました。
彼の翠の瞳にはいつもと変わらぬ、けれどどこか隠しきれない情熱を孕んだ心配の色が宿っています。
わたしは彼を見つめることができず、ただ視線を床に落としました。
彼と一線を越えてしまったあの日以来、彼に見つめられるだけで、わたしの身体は夫を求めるのとは別の、恐ろしい熱を帯びてしまうのです。
「……大丈夫です。ただ、少し眩暈がしただけですから」
「無理をなさらないでください。……これほどまでにやつれてしまわれて。あなたは、あの方のことばかり考えておられる」
ライゼン様の声には、隠しきれない嫉妬と切なさが混じっていました。
彼はわたしの傍らに跪くと、そっとわたしの手に自分の手を重ねてきました。
――温かい。
その魔力を纏う温もりに、わたしの弱り切った心は今回もまた抗うことができませんでした。
彼の手はレインハルト様のように強大な魔力を宿してはいませんが、今のわたしを現世に繋ぎ止めてくれる唯一の錨なのです。
「お願いです、ライゼン様……。わたしをそんなふうに見ないで……」
わたしの言葉はもはや拒絶にはなっていませんでした。
彼を拒むことは、死の淵に立たされたわたしが、唯一の救いを手放すことに等しいからです。
彼はわたしの顎をそっと掬い上げ、逆らうことを許さないほど優しく、しかし確固たる意志を込めて、その熱い唇をわたしの唇へと重ねてきました。
「んっ……」
唇が重なった瞬間、わたしの全身に電流のような衝撃が駆け抜けました。
何度も身体を重ねている今、彼から精気を吸い上げなければ今すぐ死ぬ、というほど切迫してはいないはずでした。
けれど、唇を通して流れ込んでくる彼の熱い吐息と、本能が待ち焦がれていた生命の奔流に、わたしの身体は裏切りの声を上げて歓喜しました。
彼もまた、口づけを深めるごとにわたしから漏れ出る甘い誘惑の香りと、魂まで吸い上げられるような言いようのない快感に、瞳を恍惚とさせています。
それはただの肉体的な繋がりを超えた、本来ならば夫にしか許されない魂の深淵まで溶け合ってしまうかのような禁断の昂揚でした。
わたしの理性が「いけない」と警鐘を鳴らすよりも早く、身体は彼の熱を求めてさらに深く彼を貪ります。
唇を離し、息も絶え絶えに熱い吐息を交わすわたしたちの間には、言葉など必要ありませんでした。
ライゼン様はわたしの背中に大きな腕を回すと、そのまま逃がさないように優しく、しかし抗えない力でわたしをベッドへと押し倒しました。
「ライゼン様……っ」
大きな身体に覆い被さられ、シーツの中に沈み込む感覚に、理性が最後の一線を越えようと揺らぎます。
彼の熱い手が私の薄い寝衣の合わせ目をゆっくりと指先でなぞりました。
その触れ方に、わたしの中の淫魔の血が、喜びの悲鳴を上げそうになります。
(――いけない。こんな昼間から……、誰かに気付かれてしまったら、わたしたちは……っ)
冷たい恐怖と、それ以上に抗いがたい情欲がわたしの心の中で激しく渦巻きました。
わたしは震える手で、彼の硬く引き締まった胸板にそっと手を添え、精一杯の力で押し返そうとしました。
「っ……いけません、やめて……」
わたしの手は弱々しく、彼を遠ざけるどころかその胸の鼓動を直に感じてしまい、ますます心拍数が跳ね上がります。
彼はわたしの拒絶を、またしても甘い焦れ込みだと誤解したように、愛おしげに微笑みました。
その瞳の奥に宿る、逃げ場のない情欲。
わたしは彼の熱い視線から逃れるように顔を背け、涙の滲む瞳で扉の方を見つめました。
「お願い……アンナを、呼んできて。今すぐ、アンナを……ッ!」
わたしは必死の思いで顔を背け、彼の手を振り払いました。
ライゼン様は驚いたように目を見開きましたが、やがて諦めたように溜息をつくと、ゆっくりと立ち上がりました。
「……わかりました。アンナ殿を呼びましょう」
彼が部屋を出ていくと、入れ替わりに侍女のアンナが不安そうな表情で駆け込んできました。
わたしは彼女の肩にすがりつき、今日こそはと祈るような気持ちで声を絞り出しました。
「アンナ……。今日も、レインハルト様から便りはなかったのですね?」
アンナは言葉に詰まったように唇を噛み、申し訳なさそうに視線を彷徨わせました。
その反応だけで、すべてを理解してしまいます。
今日も夫からの返事はないのだと。
「……ごめんなさい、奥様。執事に確認いたしましたが、本日も前線からの書状は届いておりません」
「……そう。ご苦労様」
わたしは力なくベッドに倒れ込みました。
もう二か月以上も、彼からの言葉を待っているのです。
愛する夫は、わたしの手紙を受け取っていないのでしょうか。
それとも、戦況が激しすぎてペンを取る余裕すらないのでしょうか。
そんな絶望が、わたしの身体の熱をすべて奪い去っていきました。
震える指先でベッドサイドのキャビネットを掴み、わたしはアンナに向かって掠れた声で告げました。
「アンナ、後で執事に……もう一度だけ、確認してきてちょうだい。本当に、本当に届いていないのか。何か、わたしの手紙を預け損ねていることはないのか……って」
「奥様、あまりご自分を追い詰めないで……」
「……あの方の手紙がないと、わたし、本当に壊れてしまいそうなの」
アンナは涙を拭いながら深く頷き、部屋を出ていきました。
わたしは一人、静まり返った寝室の中で、再び閉じていく意識の中でレインハルト様の名を呼び続けました。
部屋の外ではライゼン様がまだ扉の前で、わたしをじっと待っている気配がします。
わたしは毛布を頭から被り、聞こえてくるはずのない夫の優しい声だけを、ただひたすらに追い求めていました。
この孤独な公爵邸で、わたしはどれほどの間、夫からの愛を信じ続けることができるのでしょうか。
あるいは、わたしが求めているのは夫からの手紙ではなく、彼が直接この扉を突き破って現れ、すべてを洗い流してくれる救いなのかもしれません。
そんな叶わぬ夢を見ながら、わたしは深まる闇の中で、ひとり静かに息を潜めました。




