23_クラリスの慧眼
あの夜、自らの弱さと飢えに負け、再び禁断の扉を開け放ってしまってからというもの。
わたしは底なしの泥沼へと完全に足を踏み入れてしまいました。
夜の闇が訪れ毎夜ライゼン様が扉を開け放ち、しかしそれに抗う気力も残されてはいませんでした。
わたしは理性と罪悪感に苛まれながらも、ライゼン様が差し出す命の糧を拒むことができなかったのです。
彼が与えてくれる命の雫は、レインハルト様の深く甘い魔力には到底及ばない、一時しのぎの偽物に過ぎません。
それでも、死の恐怖と渇きに抗うことなどできるはずもなく、わたしは毎夜、涙を流しながら彼の首に腕を絡ませ、その精気を貪り続けていました。
ライゼン様は、わたしが自分の寂しさを埋めるために彼を求めているのだという致命的な誤解を抱いたまま、ますますわたしへの歪んだ執着を深めています。
この恐ろしい不義の関係が誰かの目に触れれば、わたしはすべてを失ってしまうでしょう。
そんな絶望と恐怖に震える日々の中、別館のサロンに思いがけない来客がありました。
王国騎士団部隊長リオネルの姉君であり、今は降嫁されたクラリス・レジャーノン夫人です。
彼女は弟であるリオネルがこの公爵邸で謎の昏倒を遂げた事件について、表向きは見舞いと社交を兼ねて訪ねてきたのでした。
わたしは青白い顔を厚めの化粧でなんとか誤魔化し、震える手をショールの下に隠して、彼女を小サロンへと迎え入れました。
「突然の訪問をお許しくださいませ、シャルロット夫人」
「とんでもないことですわ。……リオネル様のお加減は、その後いかがですか?」
わたしが罪悪感で心臓を握り潰されそうになりながら尋ねると、クラリス夫人は静かに紅茶のカップをソーサーに置きました。
カチャリ、と陶器の触れ合う高い音が、張り詰めた室内に響きます。
「ええ。幸いにも翌日には目を覚まし、今ではすっかり回復して騎士団の職務に復帰しております。……ただ、少し様子がおかしいのです」
「様子が……?」
「はい。憔悴しきった顔で『あいつに合わせる顔がない』と、らしくもないことを口走っておりましたわ」
クラリス夫人のその言葉に、わたしは全身の血の気が引くのを感じました。
リオネルは、あの密室で起こった過ちの口づけと、わたしから放たれたであろう異常な誘惑の香りのことを覚えているのでしょうか。
わたしへの申し訳なさに苛まれ、自責しているのだとしたら、それは見当違いなのです。
その想像だけで喉の奥がカラカラに乾いていきます。
「シャルロット夫人。あの日、弟が倒れる前に……なにか変わったことはありませんでしたか?」
クラリス夫人の静かで、しかし射抜くような視線がわたしを捉えます。
わたしは膝の上で両手をきつく握りしめ、必死に平静を装って微笑みました。
「い、いえ……。ただお茶をいただいて昔話などをしていただけで、突然ふらりと……。わたしも驚いてしまって、本当に申し訳ありませんでしたわ」
「あなたが謝ることではありませんのよ。弟がご迷惑をおかけしたのですから」
クラリス夫人はそう言って小さく微笑みましたが、その瞳の奥には女同士の鋭い直感のようなものが光っていました。
彼女は決してわたしを直接責め立てるようなことはしません。
ただ、静かなサロンに響く落ち着いた声で、ぽつりと独り言のように紡いだのです。
「……戦時下で夫が不在というのは、妻にとって本当に心細いものですわね」
「ええ……本当に」
「でも、気をつけてくださいませ。弱っている時に差し出された手ほど、後でほどけなくなるものですわ」
「え……っ」
その言葉は、まるで鋭い氷の刃のように、わたしの胸の最も柔らかく痛い部分を正確にえぐり出しました。
彼女はリオネルからわたしを守ろうとして言っているのか。
それとも、この公爵邸に漂う不穏な空気、すなわちライゼン様とわたしの関係の危うさを察知して釘を刺しているのか。
どちらにせよ、今のわたしにとってそれは逃げ場のない残酷な真実でした。
わたしは何も返すことができず、ただ引き攣った笑みを浮かべて俯くことしかできませんでした。
クラリス夫人はそれ以上は深く追及することなく、優雅な所作で席を立ち、帰路につきました。
彼女を見送った後、わたしは自分の部屋に戻り、崩れ落ちるようにベッドへとうずくまりました。
(怖い、怖い、……怖い)
秘密が露見してしまうかもしれない恐怖と、自分がしでかしてしまった罪の重さに、息が詰まりそうになる。
(レインハルト様……早く、早く帰ってきて……っ)
心の底から愛する夫の名前を呼び、ボロボロと涙をこぼしました。
彼が帰ってきて、この恐ろしい淫魔の渇きを満たしてくれさえすれば、わたしはもう二度と他の誰かの命を奪うような化け物にならずに済むのです。
ライゼン様という甘い毒から逃れ、再びレインハルト様の妻として、この黄金の檻の中で守られて生きていくことができる。
そう信じることしか、今のわたしにはできませんでした。
しかし、レインハルト様へ送った手紙の返事は、まだ一通も届いていません。
最短で届くはずの期間はとっくに過ぎているというのに、前線からの便りはぷつりと途絶えたままでした。
手紙が届かない現実は、わたしが世界から見捨てられたような錯覚さえ引き起こします。
それでも、わたしはすがるような思いで机に向かい、震える手で羽ペンを握りました。
便箋に落ちる涙を拭いもせず、ただひたすらに「愛しています」「早く会いたい」という言葉だけを書き連ねていきます。
わたしが不義を働いている最低の妻であることなど、一文字も書けるはずがありませんでした。
最後に、レインハルト様が好きだと言ってくれた香水を数滴落とし、彼がわたしを思い出してくれるようにと祈りを込めます。
「アンナ……。これを、本館の執事に回してちょうだい」
わたしは赤い封蝋を押した手紙を、部屋に入ってきた侍女のアンナに手渡しました。
「かしこまりました、奥様。……お顔色が優れませんね。すぐにお休みになられたほうが……」
「大丈夫よ。ただ、少し疲れただけだから。どうかお願いね」
アンナの心配そうな視線から逃れるように、わたしはベッドへと潜り込みました。
この手紙がレインハルト様の元へ届き、彼がわたしを救いに帰ってきてくれる日を、ただひたすらに祈りながら。
この時、わたしが待ち望んでいた救いの糸が、他ならぬライゼン様の手によってすでに断ち切られ、のちに炎の中にくべられることなど、想像すらしていなかったのです。




