22_抗えない本能
あの取り返しのつかない過ちの夜から数日が過ぎました。
わたしは再び分厚いカーテンを閉ざし、暗い主寝室に引きこもる生活に戻っていました。
ベッドの隅で薄い布にくるまり、壁に掛けられたレインハルト様と子どもたちの肖像画を見つめては、とめどなく涙を流す毎日です。
愛する夫を裏切ってしまったという深い罪悪感と、凄絶な自己嫌悪が、鋭い刃となってわたしの心をズタズタに切り裂いていました。
肖像画の中で微笑む子どもたちの無邪気な瞳を見るたびに、自分がどれほど汚らわしい母親に成り下がってしまったのかを突きつけられ、呼吸すら苦しくなります。
あんな過ちは二度と繰り返してはならない。
どれほど渇きに苦しもうとも、死の淵を彷徨おうとも、公爵夫人としての貞節だけは守り抜かなければならないと、己の心に固く誓っていました。
けれど、それ以上に恐ろしいのは、わたしの『身体』の残酷な反応でした。
あの一夜、ライゼン様から強大な魔力と精気を吸い上げてしまったことで、わたしの身体に眠る淫魔としての本能は、完全にその甘い味を覚えてしまったのです。
干上がっていた血管に熱い血が巡り、死の淵から引き戻されたあの圧倒的な快感が、毒のように脳髄にこびりついて離れません。
一週間が経ち、再び体の奥がシクシクと飢えを訴えて疼き始めると、理性では強く戒めているのに、身体だけが他者の熱を求めて勝手に甘く熱を帯び始めてしまうのです。
そんなわたしの異常な状態など知る由もないライゼン様は、あの日以来、ますます頻繁にわたしの部屋を訪れるようになりました。
「奥様。お食事をお持ちしました。少しだけでも召し上がってください」
分厚い扉越しに聞こえる彼の声は、主君の妻に向けるものとは到底思えない、まるで愛しい恋人を労るような甘く熱を帯びたものでした。
その声を聞いただけで、ひどく飢えたわたしの身体がビクンと小さく跳ね上がります。
わたしは扉の前に立ち、冷たい真鍮のノブを握りしめたまま、小さく震える声で拒絶の言葉を紡ぎました。
「……お気遣いは無用です。食事は後でアンナに運ばせますから、あなたは下がってちょうだい」
「奥様。あなたがご自分を激しく責めて、お食事も喉を通らないことは分かっています。どうか、私に顔を見せてください」
彼のひどく優しく、そして執着に満ちた声が、飢えに苦しむわたしの理性を容赦なく削り取っていきます。
扉を一枚隔てたすぐ向こう側に、極上の精気と魔力を持った若く強靭な男性がいる。
その事実だけで、喉の奥がカラカラに乾き、クラリと視界が頼りなく揺れてしまいます。
わたしは爪が手のひらに深く食い込むほど両手を強く握りしめ、必死に本能を抑え込もうとしました。
「開けません。……これ以上、わたしに関わらないでください」
「シャルロット夫人……」
彼が吐息混じりにわたしの名前を呼ぶたびに、胸が締め付けられるような恐怖と、それとは裏腹の甘い疼きが押し寄せてきます。
これ以上彼を近づけてはならない、完全に線を引かなければならない。
わたしは扉越しに冷たくきっぱりと言い放ちました。
「誤解なさらないで。あの夜のことは、あなたを想ってのことではありません」
彼を拒絶するのは、彼のためを思っての自己犠牲などではなく、ただわたしがこれ以上罪を重ねないためです。
そして何よりレインハルト様以外の男性に、この呪われた淫魔の身体の秘密を知られるわけにはいかないのです。
「わたしはレインハルト様の妻です。あの方以外を愛することなど、絶対にありません」
その言葉は、彼に対する明確な決別と拒絶の意志でした。
しかし扉の向こうのライゼン様は、わたしのその必死の言葉を、全く別の意味に曲解して受け取ってしまったようでした。
「……分かっています。あなたは、公爵夫人としての貞節を守ろうと、必死に本心を隠しておられるのですね」
彼の悲痛な、それでいてどこか優越感に浸ったような甘い声色に、わたしは息を呑みました。
彼はわたしが『本当は彼を求めているのに、夫への義理立てのために無理をして遠ざけている』のだと、完全に誤解しているのです。
「あなたは優しすぎる。ご自分の気持ちを押し殺してまで、自分を省みないあの冷酷な夫への義理を果たそうとしなくていいのです。……私は、いつまでもここで待っていますよ」
静かな足音が廊下の奥へと遠ざかっていくのを聞きながら、わたしはその場に力なくへたり込みました。
違う、そうじゃないのです。
けれど、本当の理由なんて、口が裂けても言えるはずがありません。
わたしが夫の愛と魔力なしでは生きていけない恐ろしい化け物だから、命惜しさにあなたにすがりついてしまっただけだなんて。
「レインハルト様……っ……ごめんなさい……、ごめんなさい…………」
わたしは冷たい床にうずくまり、声を殺して泣き咽びました。
夫の帰還だけが、この恐ろしい泥沼からわたしを救い出してくれる唯一の希望でした。
しかし、非情にも時間は流れ、誰の救いも訪れないまま夜の闇が再び公爵邸を包み込みます。
夜が深まるにつれ、わたしの身体を蝕む『飢え』は、いよいよ理性を完全に焼き切るほどの苦痛と熱へと変わっていきました。
全身から脂汗が吹き出し、荒い呼吸が寝室の静寂を切り裂きます。
下腹部から込み上げてくる焼け付くような熱と渇望が、理性の糸を一本、また一本と無残に断ち切っていくのが分かりました。
「はぁっ……あ、ぁ……っ、苦しい……っ」
ベッドの上でもがき苦しみながら、わたしはシーツをきつく握りしめて身悶えしました。
全身の血管が他者の精気を求めて悲鳴を上げ、視界が真っ赤に染まっていきます。
部屋の中に、再びあの甘く退廃的な誘惑の香りが、抑えきれずにぶわりと充満し始めました。
生きるために他者の命を求める、抗いようのない淫魔の残酷な本能。
その時、コン、と静かに扉を叩く音が響きました。
「……奥様。起きていらっしゃいますか」
呼ばれてもいないのに、ライゼン様が再び扉の前にやって来たのです。
彼もまた、扉の隙間から漏れ出したわたしの放つ香りに当てられ、理性を失いかけているのでしょう。
いけない、と分かっているのに。
今扉を開ければ、もう二度と抜け出せない絶望の底に沈むことになると、頭でははっきりと理解しているのに。
「あなたが苦しんでいるのが分かります。……私を、頼ってください」
扉越しに聞こえるその熱を帯びた声は、飢えた獣の前に差し出された、甘く滴る極上の肉の匂いと同じでした。
レインハルト様、ごめんなさい。
ごめんなさい、わたしはなんて弱い、最低の妻なのでしょう。
とめどなく絶望の涙を流しながらも、わたしの意思とは裏腹に、身体はふらふらとベッドから立ち上がっていました。
吸い寄せられるように扉へと近づき、震える手が冷たい真鍮のノブに触れます。
そして、カチャリと。
わたしは自らの手で、その禁断の扉をゆっくりと開け放ってしまったのです。




