21_禁断の一線 ライゼンside
どれほどの時間が過ぎ去ったのか。
激しい嵐が通り過ぎたあとのような、重く深い余韻と静寂が、薄暗い部屋を包み込んでいた。
乱れきったシーツの上で、シャルロット夫人は私の腕の中にすっぽりと収まり、微かな寝息を立てていた。
あんなにも苦しそうに荒かった呼吸はすっかり落ち着き、死人のように白く透き通っていた頬には、ほんのりと健康的な美しい桜色が差している。
その満たされた無防備な寝顔を、私はひどく愛おしく飽きることなく見つめ続けていた。
私の瞳にはもはやヴァルテンベルク閣下への忠誠心や、婚約者への罪悪感など、微塵も残っていない。
あるのは、この世で最も尊く美しい女性をついに自分が完全に手に入れたという、歪みきった達成感と底知れぬ独占欲だけだった。
ただ、私の身体にはこれまで感じたことのない奇妙な変化が起きていた。
彼女と肌を重ね、深く結びつくと同時に、自身の体内に蓄えられていたはずの膨大な魔力と生命力が、彼女の身体へと静かに、けれど凄まじい勢いで吸い取られていく感覚があったのだ。
普通なら、己の命そのものが削り取られていることに原始的な恐怖を覚えるはずだった。
しかし今の私はそれを『危険』だとは全く理解していなかった。
むしろ、彼女が私を必要とし、私の熱を欲して、身体の奥底まで吸い上げてくれるというその事実に背筋が凍るような極上の快感と、絶対的な喜びを見出していた。
魔力を奪われるたびに訪れる微かな気だるさすらも、彼女と繋がっているという甘い証にしか思えなかった。
この方は普通の人間ではないのかもしれない……、しかし、弱り切った彼女を救ったのは紛れもない私からの生命力の供給なのだということは、本能で理解してしまっていた。
「私のすべては、あなたのものです……シャルロット様」
私は彼女のガラスのように繊細な薄紫色の髪に、深く、崇拝するような口づけを落とした。
そして二度とこの腕から逃がさないように、さらにきつく、その華奢な身体を抱きしめる。
魔法省でもトップクラスと謳われ、優秀で誠実だったはずの私の心は、こうして完全に彼女という美しい檻に囚われてしまった。
シャルロット夫人という甘い猛毒に脳髄まで麻痺させられ、自身の命を削って捧げることにすら至上の悦びを見出すほどに。
私はもはや、彼女の肉体が放つ魔性の魅力から、永遠に絡め取られて抜け出すことはできなくなってしまったのだ。
***
窓の隙間から差し込む朝の光が、ひどく白く視界に突き刺さってきた。
私はゆっくりと重い瞼を開け、自分がどこにいるのかを理解するまでに数秒の時間を要した。
ひんやりとした朝の空気に反して、身体を包む豪奢な羽毛布団の中は体温と湿気を帯びている。
鼻腔の奥深くまで満たしているのは、昨夜あれほどまでに私の理性を根底から焼き尽くした、あの甘く退廃的な香りの名残だ。
私は自分が犯してしまった罪の大きさに、心臓を掴まれるような感覚に陥った。
王国最強の魔導師であり、絶対の忠誠を誓った主君の奥方を、己の抗いがたい肉欲のままに穢してしまったのだ。
私は閣下に対して、なんという恐ろしい裏切りを働いてしまったのだろう。
あの方がどれほどこの奥方を溺愛し、執着していたか、護衛に選ばれた私だからこそ痛いほど理解していたはずだったのだ。
留守の間、家族を命に代えても守ると誓ったのはこの私だというのに。
それなのに、あの気高く恐ろしい主君が何よりも大切にしている宝物を、自らの浅ましい欲望で泥まみれにしてしまった。
軍法会議にかけられれば極刑は免れず、一族郎党まで裁きを受けるかもしれない大逆罪だ。
発覚すれば間違いなく閣下の強大な魔力によって骨の髄まで焼き尽くされるだろう。
背筋に氷のような恐怖が走り、私は冷や汗を滲ませた。
(申し訳ありません、閣下、本当に申し訳ありません)
何度心の中で謝罪を繰り返しても、取り返しのつかないことをしたという事実が、重くのしかかってくる。
――だが。
乱れたシーツの隣で、静かな寝息を立てる彼女の顔を見た瞬間。
その恐ろしいほどの罪悪感と恐怖すらも完全に塗り潰してしまうほどの、歪で悍ましい恋心が、私の胸の奥からドロドロと溢れ出してきた。
(ああ、なんという僥倖だろうか)
絶対に手の届かないと思っていた極上の花が、この私の掌に零れ落ちてきたのだ。
昨日まで青白かった彼女の頬には、ほんのりと健康的な桜色が差し、触れれば火傷しそうなほどの熱を帯びている。
獣のように理性を失い、ただ情欲のままに彼女を抱いた私を、夫人は確かに甘く鳴いて受け入れてくれたのだ。
その事実が私の理性を完全に狂わせていく。
彼女の柔らかな寝顔を飽きることなく見つめていると、不意に、隣で微かにシーツが衣擦れの音を立てた。
シャルロット夫人が、ゆっくりと長い睫毛を震わせて目を覚ましたのだ。
まだ完全に覚醒していないその表情はひどく幼く、無防備で愛らしい。
やがて、昨夜の嵐のような情事の記憶が、彼女の思考の中で徐々に形を成してきたのだろう。
彼女の華奢な肩がビクンと大きく跳ね上がった。
私と視線が合うより早く、彼女は弾かれたように身を起こし、豪奢な布団を胸元にきつく引き寄せた。
血の気が引いていく彼女の視線の先には、壁に掛けられた大きな一枚の絵画があった。
それは、閣下と彼女、そして五人の幼い子どもたちが幸せそうに微笑んでいる、家族の肖像画だ。
閣下の威厳に満ちた黄金の瞳と、長男であるリオン様の真っ直ぐな眼差し、そして双子のサリエス様やアルテミス様たちが、今の私たちの惨状を冷たく見下ろしているように見えた。
「あ……あぁ……っ、嫌、いやぁっ……!」
絞り出すような悲鳴が、彼女の震える小さな唇から零れ落ちた。
彼女は両手で顔をきつく覆い、ガチガチと歯の根を鳴らして小刻みに震え始めた。
「奥様……」
たまらず声をかけると、彼女はビクッと身体を震わせ、後ずさるようにベッドの端へと逃げようとした。
「こないで……っ!見ないでください、お願い……っ」
指の隙間から大粒の涙がとめどなく溢れ出し、シーツにいくつもの濃い染みを作っていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい……レインハルト様……っ」
声にならない嗚咽を漏らし、ただひたすらに肖像画の夫と子どもたちに向かって、許しを乞うように泣き崩れる。
「わたしは、なんて汚らわしい……っ」
その痛々しい姿に、私は慌ててベッドから降り、床に散らばっていた軍服を羽織った。
「奥様、落ち着いてください。泣かないで……」
私はひどく震える彼女の細い肩に、躊躇いながらも手を伸ばした。
「触らないでッ!」
鋭い拒絶の声と共に、彼女は私の手を勢いよく振り払った。
その瞳には色濃い絶望と、深い自己嫌悪が渦巻いている。
ボロボロと泣き崩れる彼女を前にして、私は己のしでかした罪の重さに言葉を失った。
彼女をこんなにも絶望させてしまったのは、他でもない私なのだ。
「申し訳ありません、奥様……。すべては私の責任です」
掠れた声で私は深く頭を下げた。
私がすべて悪いのだと、そう伝えるつもりだった。
しかし、私の言葉を聞いた彼女はハッと顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を横に振ったのだ。
「違うの……わたしが、わたしが悪いのです……っ」
泣き咽びながら紡がれたその弱々しい言葉は、私の胸の奥深くに、致命的な誤解の杭を深く打ち込んだ。
彼女は夫の不在による孤独と寂しさに耐えきれず、私を求めてしまったのだと。
貞粛な公爵夫人としての理性を保てず、私という身近な男の温もりにすがってしまった女の弱さ。
そのどうしようもない情欲と弱さを恥じて彼女は自分を激しく責めているのだと。
「奥様……あなたは、何も悪くありません」
私は静かに首を振り、再び彼女に向かって手を伸ばした。
「いいえ! わたしは最低の妻です……っ。レインハルト様がいないと、一人では生きていけないくせに……あの方の愛を裏切るなんて……っ」
泣きじゃくる彼女の姿はどうしようもなく哀れで、そして恐ろしいほどに愛おしかった。
「どうかご自分を責めないでください。あなたはただ、孤独で、誰かの温もりが欲しかっただけでしょう?」
私は彼女の拒絶を恐れず、その震える華奢な身体をもう二度と離さないと誓うように、きつく抱きしめた。
「いやっ……離して、ライゼン様……っ」
彼女は私の胸を叩いて抵抗したが、その力はひどく弱々しかった。
「あなたのその弱さも、寂しさも、すべて私が受け止めます。だから、もう一人で泣く必要はありません」
私の言葉に彼女の抵抗がピタリと止まった。
なんという愛おしく、そして哀れな人だろうか。
孤独に打ちひしがれ、欲望に負けてしまった自分自身を彼女は許せずにいるのだ。
ならば、そんな彼女の弱さも、罪も、すべて私が背負ってやればいい。
彼女が夫を裏切ったのではなく、私が彼女の弱みにつけ込み、無理やり籠絡したのだということにしてしまえば、彼女の心は少しでも救われるのではないか。
狂気に侵された私の思考はどこまでも都合よく、そして甘く堕落していく。
私は震える彼女の背中を、もう二度と離さないと誓うように、きつく、きつく抱きしめた。




