20_扉の内側
部屋に引きこもるようになってから、どれほどの時間が流れたのか、もうわたしには分からなくなっていました。
昼夜の感覚すら曖昧になった、分厚い遮光カーテンに閉ざされた薄暗い主寝室。
わたしはその広く冷たいベッドの中心で丸くうずくまり、ただ浅く、早い呼吸を繰り返すことしかできませんでした。
『心労とストレスによるもの』
シュルツ先生は確かにそう仰いましたし、わたし自身も、愛するレインハルト様が不在であることの寂しさと不安が、この体調不良のすべての原因なのだと信じ込もうとしていました。
わたしは夫の庇護がなければ生きていけない、本当に弱くて愚かな妻なのだと、己を責め続けていたのです。
けれど、日を追うごとに悪化していくこの惨状は、とうてい心因性の病などという生易しいものではありませんでした。
鏡を見る気力すらとっくに失われていましたが、自分の腕や手先を見るだけで、肌から完全に血の気が失せ、まるで死人のように白く透き通っていることくらいは分かります。
熱に浮かされた瞳は常に生理的な涙で潤み、視界はぐらぐらと頼りなく揺れ続けています。
助けを呼ぼうと口を開いても、喉からは声ではなく、酷く熱を帯びた吐息しか漏れませんでした。
全身の骨の髄が軋むような震え。
血液が沸騰し、蒸発していくような、焼け付くような恐ろしい渇き。
いくら冷たいお水を飲んでも、どれだけ栄養のある食事を胃に流し込んでも、身体の奥底でぽっかりと口を開けた『飢餓感』は、少しも癒えることがなかったのです。
そして、朦朧とする意識の中で、わたしはついに、ずっと目を背けていた恐ろしい事実に気づいてしまいました。
(まさか――、精気切れ……?)
……そう、これは病などではありません。
わたしのこの呪われた身体が引き起こしている、生命維持のための生存本能の悲鳴だったのです。
淫魔の血を引くこの肉体は、定期的に他者の精気…そして魔力を吸い上げなければ生きていくことができません。
これまではレインハルト様が夜ごとに、ご自身の強大で深く甘い魔力をわたしに注ぎ込み続けてくださることで、その渇きを完全に満たし、わたしを『人間』として生かしてくれていました。
けれど、彼が戦地へ赴き、この公爵邸を空けてから、すでに二か月近くの月日が経過しています。
夫からの魔力供給が完全に途絶え、枯渇しきったわたしの身体は今、明確な『死』の危機に直面していたのです。
リオネルから無意識に奪ってしまった少しばかりの精気など、干上がった広大な砂漠に、たった一滴の雫を落としたようなものに過ぎませんでした。
「はぁ……っ、はぁ……っ、れいん、はると、さま……っ」
目眩で視界が反転しそうになる中、わたしは震える手足に鞭を打ち、広いベッドの上をずるずると這いつくばりました。
シーツの波をかき分け、枕元に大切にしまってあった、彼が最後の日まで身につけていたシャツを見つけ出します。
もう魔力の残り香すら消えかけているその薄い布地にすがりつくように抱きしめ、わたしは顔を埋めてボロボロと大粒の涙をこぼしました。
苦しい。
寂しい。
――今すぐ、あなたに会いたい。
あなたの広く温かい腕の中で、あの甘い魔力に全身を満たされて、安心の中で眠りにつきたい。
けれど、彼は帰ってきません。
このままでは、愛する夫に再会する前に、わたしは干からびて死んでしまうかもしれない。
その絶対的な『死の恐怖』と、夫への強烈な『飢餓感』が引き金となってしまいました。
わたしの理性や意思とは全く無関係に、限界を悟った淫魔の肉体が、生存のための最終手段に出たのです。
――ドクンッ、と。
下腹部の奥底が大きく跳ねたかと思うと、わたしの身体からこれまでにないほど爆発的な『誘惑の香り』が撒き散らされました。
それは、空間そのものをぐにゃりと歪めてしまうほどの、強烈な魔力の波動を伴っていました。
花の蜜を極限まで煮詰め、そこに人を狂わせる劇薬を混ぜ合わせたような、甘く退廃的な香り。
それは瞬く間に寝室の空気を濃密に満たし、分厚い扉の隙間をすり抜けて、外の世界へと溢れ出していきました。
「奥様ッ!? 今とてつもない魔力の波動が……ッ!?」
バンッ! と、重厚な扉が乱暴に開け放たれました。
血相を変えて飛び込んできたのは、扉の外で常に護衛をしてくれていたはずのライゼン様でした。
彼は部屋に充満する致死量の媚薬のような香りを真っ向から浴び、まるで雷に打たれたようにその場に立ち尽くしました。
彼の翠の瞳は、ベッドの上で夫のシャツを抱きしめ、荒い息を吐きながら這いつくばるわたしの無惨で淫らな姿を捉え、限界まで見開かれていました。
「あ……っ、ライゼン、さま……っ、だめ、こないで……っ」
わたしは掠れた声で、必死に彼を拒絶しようとしました。
今のわたしに近づけば、彼がどうなってしまうか。
理性を失い、リオネルの二の舞になってしまうことは火を見るより明らかです。
しかし、極限状態にあったわたしの身体は、理性の言葉とは全く逆の残酷な行動をとってしまいます。
シャツを抱きしめていた手が力なく解け、代わりに、部屋に入ってきた『極上の精気と魔力の塊』である彼に向かって、ふらふらと助けを求めるように手を伸ばしてしまったのです。
「シャルロット、奥様……っ」
ライゼン様の声はひどく熱を帯び、かつてないほどに震えていました。
彼は香りの毒に完全に脳を麻痺させられ、何かに操られるように足を踏み出します。
ベッドの縁に膝をつくと、わたしの伸ばした手を、骨が軋むほど痛い力で握りしめました。
「こんなに、冷たくなって……。私が、私があなたを救います。もう、我慢しなくていい……ッ」
「あ……っ、んんっ……!」
強引に引き寄せられ、身体が重なり合った瞬間、彼の熱い唇がわたしの唇を塞ぎました。
それは、どこか崇拝すら混じった、狂おしいほどの情熱と独占欲を伴う、深く甘い口づけでした。
口内で彼の熱と唾液が交わった途端、わたしの呪われた身体は歓喜に打ち震えました。
(ああ……っ、だめ、だめなのに……っ!)
頭の中では、愛するレインハルト様への強烈な罪悪感が、けたたましく警鐘を鳴らし続けています。
夫以外の男性に身を委ね、その精気を貪るなど、絶対に許されない大罪です。
もし彼が知れば、わたしやライゼンさまは殺されてもおかしくありません。
けれど、死の淵にあったわたしの肉体は、流れ込んでくる若く強大な生命力と魔力のうねりを前に、あっけなく陥落してしまいました。
ひりつくような喉の渇きが潤され、枯渇していた血管の隅々にまで、熱い血が巡っていく圧倒的な快感。
わたしは己の愚かさと罪深さに絶望の涙をボロボロとこぼしながら、同時に、自ら彼にすがりつき、その首に深く腕を回してしまいました。
わたしから明確に受け入れられたことで、ライゼン様の中で辛うじて持ちこたえていた理性のタガは、完全に吹き飛びました。
「シャルロット奥様……。ああ、私の美しい女神……っ」
うわ言のようにわたしの名前を呼びながら、彼はわたしの薄い寝衣に手をかけました。
もはや、抵抗することすら忘れていました。
ただ、生きるために。
この恐ろしい身体の渇きを癒やすために。
深い闇と分厚いカーテンに閉ざされた主寝室で、私たちは、決して戻ることのできない一線を越えてしまったのです。
彼のひどく熱い吐息と、とめどなく溢れるわたしの甘い声が、夜の静寂の中に溶けていきます。
それは倫理も貞操も、主君への忠誠心もすべてを投げ打った、ひどく退廃的で底なしに昏い絶望の始まりでした。
第四部、二幕はこれにて終幕となります。
遂に一線を越えてしまったシャルロットとライゼン。
ライゼンの胸の内ポケットにしまわれたままのレインハルトの手紙。
三幕からは溺れ堕ちるライゼン、戦場で禁断症状に苦しむレインハルト、三者三様の地獄が展開されます。
引き続きお楽しみに…!




