19_狂い始めた歯車 ライゼンside
本館と別館を繋ぐ渡り廊下は、まるで二つの異なる世界を隔てる境界線のようだった。
豪奢でありながらも戦時下の緊張と活気に満ちた本館に比べ、シャルロット夫人と子どもたちが暮らす別館は、まるで時間が止まってしまったかのように静まり返っている。
主治医のシュルツ医師が下した『心労とストレス』という診断の通り、夫人はあの日からずっと自室のベッドに伏せっていた。
私は彼女の部屋の扉の前に立ち、中から微かに漏れ聞こえる苦しげな吐息や、寝返りを打つ衣擦れの音に、ただ耳をそばだてることしかできない。
何もしてやれない己の無力さに苛立ちを覚えながら、私は警護の交代とわずかな休憩のために、一時的に本館へと足を運んでいた。
「ライゼン殿。少々、よろしいでしょうか」
用事を済ませ、再び別館へ戻ろうと長い廊下を歩いていた時のことだ。
背後から声をかけられ振り返ると、ヴァルテンベルク公爵家に代々仕える初老の執事が、銀の盆を手にして足早に近づいてくるところだった。
「どうされましたか」
「あなた宛てにお手紙が届いております。レンスター男爵家のご令嬢からのようですぞ」
執事はそう言って、盆の上から一通の白い封筒を差し出した。
受け取った封筒の表書きには、見慣れた少し丸みを帯びた可愛らしい筆跡が並んでいる。
戦時下という非常事態にあり、公爵家の護衛という重任に就いた私を案じて、手紙を認めてくれたのだろう。
だが、その手紙を受け取った私の心にかつてのような温かい感情が湧き上がることはなかった。
それどころか、己がすでに別の女性に心を奪われているという事実を突きつけられたような、微かな煩わしさすら覚えてしまったのだ。
そんな自分自身の冷酷さにぞっとしながらも、私はふと、執事の持つ銀盆の上に、もう一通の豪奢な手紙が乗せられていることに気がついた。
王国上層部で使われる最上級の羊皮紙。そして、ヴァルテンベルク公爵家の紋章が深く刻まれた、赤い封蝋。
「……そちらは、閣下からの書状ですか?」
私の問いに、執事は深く頷いた。
「ええ。先ほど早馬で届いたばかりです。奥様宛ての、前線からの二通目のお便りでございます」
その瞬間、私の胸の奥で、黒くドロドロとした感情が鎌首をもたげた。
自分がどれほど妻を苦しませているのかも知らずに、今さら手紙など。
あの方がどれほどあの薄暗い部屋で一人泣き濡れ、心身をすり減らしているのか、あの冷徹な主君は想像したことがあるのだろうか。
「……執事殿。私もちょうど別館に戻るところです。そのお手紙、私が奥様にお持ちしましょう」
気がつけば私はそんな言葉を口にしていた。
執事は一瞬、戸惑ったように眉を寄せた。
「しかし奥様の私的なお便りは、別館の侍女に手渡す手はずになっておりますが……」
「私は別館の出入りを特別に許可された唯一の護衛です。奥様も閣下からのお便りを首を長くして待っておいででした。一刻も早く、お届けしたほうが良いのではありませんか?」
私が理路整然と、しかし有無を言わせぬ圧を込めて提案すると、執事は少し躊躇った後、「それもそうですね」と頷き、赤い封蝋の手紙を私に託した。
二通の手紙を胸のポケットに収め、私は足早に別館の自室へと戻った。
護衛の待機室としてあてがわれた部屋の机に座り、私はまず、婚約者であるマルシアからの手紙の封を切った。
『親愛なるライゼン様
王都でも戦況の噂が飛び交い、不安な日々を過ごしております。
公爵邸の護衛という大任、大変誇りに思いますが、どうかご無理だけはなさらないでくださいね。
あなたがご無事でいることだけが私の願いです。
早く戦争が終わり、あなたに会いたいです』
便箋には私を心から心配し、純粋な愛情を向けてくれる言葉が並んでいた。
親同士が決めた縁談とはいえ、私たちはそれなりに良好な関係を築いてきたはずだった。
この手紙を読めば、本来なら彼女の優しさに心を打たれ、すぐさま安心させるための返事を書き綴ったことだろう。
だが、羽ペンを手にとっても、便箋に向かう私の手はピクリとも動かなかった。
頭の中に浮かんでくるのは、優しく家庭的な婚約者の顔ではない。
透き通るような白い肌、星屑を砕いたような緋色の瞳、触れれば壊れてしまいそうなほど儚く、この世のものとは思えないほど美しい、あのシャルロット夫人の姿ばかりだった。
(私は、なんて恐ろしい男だ……)
ヴァレンティーヌ卿が倒れたあの日、密室となったサロンに踏み込んだ時の記憶がフラッシュバックする。
泣き崩れる夫人から漂っていた、あの甘く、退廃的で、脳の芯を直接麻痺させるような官能的な香り。
すぐに霧散してしまったが、あれは決して、ただの香水などではなかった。
彼女の存在そのものが放つ、男を狂わせる甘い毒だ。
私はあの香りを嗅いで以来、夜ごと彼女の夢を見るようになってしまっていた。
夫であるレインハルト閣下ではなく、私にすがりつき、私を求めて甘く鳴く彼女の夢を。
『奥様は悪くありません。どうかご自分を責めないでください』
『もう大丈夫です。私が必ず、あなたをお守りしますから』
震える彼女の手に己のそれを重ねた時の、あの柔らかく高い体温が、今も掌にこびりついて離れない。
彼女は今、夫の不在という孤独に耐えきれず、限界を迎えている。
病に伏せ、誰かの救いを求めて泣いているのだ。
それなのに、主君はひと月以上も待たせ、ただ紙切れ一枚を送りつけてくるだけで、彼女を抱きしめてやることもできない。
もし私であったなら。
もし私が彼女の夫であったなら、絶対に彼女をこんな暗い部屋で一人泣かせたりはしないのに。
私が彼女のそばにいて、そのすべてを愛し、守り抜いてみせるのに。
(……いや。私は彼女の護衛だ。彼女を守ることは、私の正当な任務ではないか)
狂い始めた歯車は、己の感情を都合よく正当化していく。
マルシアからの手紙を見つめていた私の瞳から、かつての誠実な光は完全に失われていた。
私は読み終えた婚約者からの手紙を無造作に折りたたみ、机の引き出しの奥深くへと押し込んだ。
もう、返事を書く気にはなれなかった。
今の私にとって何よりも重要なのは、あの扉の向こうで苦しむ美しい女神だけなのだから。
私は立ち上がり、机の上に置かれたままになっていた、赤い封蝋の手紙を手に取った。
レインハルト・イル・ヴァルテンベルク。
王国最強の魔導師であり、私が絶対の忠誠を誓ったはずの主君の名前。
その文字を見るだけで、肚の底からドロドロとした嫉妬の炎が燃え上がるのを感じた。
手紙を握りしめる手に、ギリッと力がこもる。
羊皮紙の端が微かに折れ曲がったが、私は構うことなく、それを軍服の胸ポケットへとねじ込んだ。
「……お持ちしましたよ、奥様。あなたが心待ちにしていた、あの男からの手紙です」
誰に聞かせるわけでもなく、私は低く、冷たい声でそう呟いた。
踵を返し、薄暗い廊下を歩いていく。
向かう先は、彼女が閉じこもる主寝室。
この手紙を渡した時、彼女はどんな顔をするだろうか。
夫からの手紙にすがりついて泣くのだろうか。
それとも、私の前でまたあの無防備で儚い顔を見せてくれるのだろうか。
どちらにせよ、彼女の心に触れられるのは今、この世界で私だけなのだ。
正義が完全に堕落し、禁断の扉へと手をかけるまで、もうあとわずかな時間しか残されていなかった。




