17_触れてはいけない温度
「シャルロット夫人!?今、大きな物音が……ッ」
扉の向こうに立っていたのは、血相を変えたライゼン様でした。
床にへたり込み、ガタガタと震えているわたしと、ソファーで完全に意識を失っている屈強な騎士。
その異様な光景に、ライゼン様は一瞬息を呑みました。
しかし、すぐに彼自身の優秀な思考回路が状況を飲み込んだのでしょう。
「奥様、お怪我は!?」
「ライゼン様……ちがうの、わたし……」
パニックに陥り、上手く言葉が紡げないわたしに駆け寄ろうとしたその時でした。
「失礼いたします、奥様。お茶菓子の準備が……きゃあああっ!?」
一拍遅れて、お茶菓子を乗せたワゴンを押してきたメイドが部屋に入ってきました。
倒れているリオネルと割れたティーカップ、そして泣き崩れているわたしの姿を見て、メイドは短い悲鳴を上げます。
「――騒ぐな!」
ライゼン様の鋭い一喝がサロンに響き渡ります。
普段の温厚な彼からは想像もつかないような、軍人としての厳しい声でした。
「ヴァレンティーヌ卿は急な貧血で倒れられただけだ。奥様もひどく驚かれていらっしゃる。すぐに人を呼んで、ヴァレンティーヌ卿を客室へお運びしろ。このことはむやみに口外しないように」
「は、はいっ!かしこまりました!」
メイドは青ざめた顔で弾かれたように頷き、急いで部屋を飛び出していきました。
ライゼン様はすぐにわたしのそばに跪き、床に散らばった陶器の破片からわたしを遠ざけるように、そっと肩を抱き起こしてくれました。
「立てますか、奥様。ここは私と使用人に任せて、あなたはご自室へ」
リオネルは数人の男性使用人の手によって、本館の客室へと運ばれていきました。
ライゼン様が診立てたところ外傷も命の別状もなく、ただ極度の脱力状態に陥り、深い昏睡に落ちているだけだということでした。
わたしはすべてを理解していながら、空返事をするしかありませんでした。
わたしが彼の命の源である『精気』を、限界まで吸い上げてしまったのですから。
自室のベッドに戻されたわたしは分厚いショールにくるまりながら、ガチガチと鳴る歯の根を止めることができませんでした。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
暗い部屋の中で、ただ一人、うわ言のように謝罪の言葉を繰り返します。
わたしは、恐ろしい化け物です。
夫以外の男性と唇を重ね、その命を奪いかけた最低の妻。
レインハルト様が帰還してこの事実を知れば、どれほど深く傷つき、そして激しく怒り狂うことでしょう。
恐怖と罪悪感に押し潰されそうになりながら、わたしは膝を抱えて泣き続けていました。
「奥様。ライゼンです。入ってもよろしいでしょうか」
控えめなノックの音と共に、ライゼン様の声が聞こえました。
わたしが返事をするより前に、彼が静かに扉を開けて入ってきます。
その手には湯気を立てる温かいハーブティーのカップが握られていました。
「使用人たちはヴァレンティーヌ卿の看病とサロンの片付けに追われています。奥様がひどく冷え切っていらしたので、私が淹れてきました」
彼はベッドのサイドテーブルにカップを置くと、わたしの傍らに静かに腰を下ろしました。
「……リオネル様はどうなりましたか?」
「眠っておいでです。呼吸も安定していますから、明日には目を覚まされるでしょう」
その言葉に、わたしはホッと安堵の息を吐き出しました。
しかし、すぐにまた胸を締め付けるような罪悪感が込み上げてきます。
「ライゼン様……ごめんなさい。すべてわたしのせいなのです。わたしがあの方を……」
本当のことを打ち明けることはできません。
自分が淫魔の血を引いており、彼から命を吸い取ってしまったなどと、どうして言えるでしょうか。
ただ言葉を濁して泣きじゃくるわたしを見て、ライゼン様はひどく痛ましそうな顔をしました。
「奥様は悪くありません。どうかご自分を責めないでください」
「でも、わたし……っ」
「ヴァレンティーヌ卿が、奥様に何らかの無礼を働こうとしたのでしょう? それを拒んだ結果、彼が自らバランスを崩して倒れた……違いますか?」
ライゼン様のその言葉に、わたしは息を呑みました。
彼はわたしが襲われそうになった被害者なのだと完全に誤解しているのです。
あの密室でわたしと至近距離で倒れていた状況を見れば、そう解釈するのが自然なのでしょう。
「奥様は何も悪くない。悪いのは閣下の留守を狙って奥様に近づいたあの男です」
ライゼン様の声には静かな、けれど確かな怒りが滲んでいました。
同時に彼の翠の瞳にはひどく甘く、熱を帯びた感情が揺らめいています。
それは、か弱く怯えるわたしを「守らなければならない」という強い庇護欲と、決して踏み越えてはならないはずの感情が、どろりと混ざり合い始めた色でした。
「私が部屋の外ではなく、おそばについていれば……こんな恐ろしい思いをさせることはなかった。申し訳ありませんでした、シャルロット夫人」
「ライゼン様……」
「もう大丈夫です。私が必ず、あなたをお守りしますから」
そう言って、彼は温かいハーブティーのカップをわたしの手に握らせてくれました。
カップから伝わる温もりが、冷え切った指先をじんわりと溶かしていきます。
レインハルト様が不在のこの公爵邸はあまりにも広く、孤独で、恐ろしい場所でした。
夫の愛が届かない暗闇の中で、自分が犯した罪の重さに震えるわたしにとって、ライゼン様の向けてくれる無条件の肯定と優しさは、甘い劇薬のように魅力的でした。
彼がわたしを誤解したままでいてくれるなら、わたしは化け物ではなく、ただの可哀想な被害者でいられる。
そんな卑怯な考えが頭をよぎり、わたしは己の弱さを呪いながらも、彼の優しさにすがりつきたくなってしまうのです。
「……リオネル様はわたしの古くからの友人です。明日には丁重に送り出さなければいけないわ。失礼のないようにしてください」
「奥様……。……ええ、そのように執事にも伝えましょう。あなたが顔を合わせる必要のないようにいたしましょう」
ショールを握りしめて小さく震えるわたしの手に、ライゼン様がそっと、自分の大きな手を重ねてきました。
ビクッと肩が跳ねましたが、わたしはその手を振り払うことができません。
「ライゼン様……っ」
「……少しだけ。このまま、落ち着かれるまで」
彼の手は、レインハルト様のように強大な魔力を帯びてはいません。
しかし指先からじんわりと浸透してくる、只人ではない者の魔力の波動。
それは今のわたしにとって唯一許される、渇望を癒してくれるような温もりでした。
触れてはいけないと分かっているのに。
これは、夫以外の男性に許していい距離ではないと理解しているのに。
圧倒的な孤独と飢餓に耐えきれなくなったわたしは罪悪感に苛まれながらも、重ねられた彼の手をひどく弱い力で握り返してしまいました。
その瞬間、ライゼン様の息を呑む気配がしました。
彼の中で主君への忠誠心という強固な鎖が音を立てて軋み始めたことに、わたしは気づかないふりをしたのです。




