16_過ちの口づけ
「リオネル……っ、離して、ください……っ」
震える両手で彼の厚い胸板を押し返そうとしたけれど、弱っていたわたしの腕には全く力が入らない。
「……シャルロット……ッ」
うわ言のようにわたしの名前を呼んだ彼は、まるで何かに取り憑かれたように、わたしの後頭部に大きな手を回しました。
逃げ場を奪うように強く引き寄せられ、次の瞬間、彼の熱い唇がわたしの唇を乱暴に塞ぎました。
「んっ……!?」
それは、愛するレインハルト様が与えてくれるような、甘く蕩けるような優しい口づけではありませんでした。
まるで飢えた獣が獲物に食らいつくような、あるいは溺れる者が藁にもすがるような、ひどく切羽詰まった、暴力的なまでの接触。
リオネル自身も、自分が何をしているのか半ば混乱しているようでした。
ただ、わたしの身体から放たれる何かに脳を麻痺させられ、本能のままに行動しているのだということが伝わってきたのです。
「んんっ、あ……っ、だめ、やめ……っ」
呼吸を奪われ、わたしは必死に首を振って逃れようとしました。
しかし、それよりも早く、わたしの身体の奥底に眠っていた恐ろしい『本能』が目を覚ましてしまったのです。
唇が触れ合い、他者の熱が交わった瞬間、体内で燻っていた焼け付くような渇望が、爆発的に燃え上がりました。
(あ、ああ……っ)
レインハルト様が魔力と精気を注ぎ込んで完成したこの淫魔の血肉は、長らく絶たれていた『精気』という極上の餌を与えられ、歓喜に震えました。
わたしの意思とは全く無関係に、身体が勝手にリオネルの熱を欲し、彼にすがりついてしまったのです。
押し返そうとしていたはずの両手は、いつの間にか彼の軍服をきつく握りしめていました。
そして、彼を迎え入れるように、わたしの方から無意識に彼の精気を吸い上げ始めてしまったのです。
――ズズッ、と、彼の体内から流れ込んでくる膨大な生命のエネルギー。
それはレインハルト様の強大で深く甘い魔力とは全く違う、もっと荒々しい、原初の生命力そのものでした。
喉の渇きが潤され、枯渇していた身体の隅々にまで熱い血液が巡っていくのが分かります。
「あ……っ、ん、ふぁ……っ」
それは抗いがたいほどの快楽を伴って、わたしの理性を白く染め上げていきました。
リオネルは、自分が何をされているのか、そして何が起きているのか、全く理解できていないようでした。
彼もまた、わたしの身体が放つ誘惑の甘い香りと、精気を吸い上げられる奇妙な快感に絡め取られていたのです。
しかし、屈強な騎士である彼であっても、人間が魔族に急激に命の源を奪われればどうなるかは火を見るより明らかでした。
「……ぁあ……シャル……ロッ、ト……?」
数分が経った頃でしょうか。
わたしをきつく拘束していた彼の腕から、唐突にふっと力が抜けました。
わたしの唇を貪っていたはずの熱い口づけも途切れ、彼の身体が力なくソファーの背もたれへと崩れ落ちます。
ガシャン、とサイドテーブルに置かれていたティーカップが落ちて割れる鋭い音が、室内に響き渡りました。
「はぁっ、はぁっ……っ!」
拘束を解かれたわたしは、弾かれたように彼から身体を離し、床にへたり込みました。
酸素を求めて肩で大きく息をしながら、目の前で起こった惨状を見つめます。
ソファーに横たわるリオネルは、完全に意識を失っていました。
ほんの数分前まで血色の良かった顔は青白く変わり、その屈強な身体はまるで糸を切られた操り人形のように脱力しています。
微かに胸が上下しているため、命に別状はないことだけは分かりました。
ですが、彼の精気を根こそぎ吸い上げてしまったのは、他でもないこのわたしなのです。
(わたしは、なんてことを……っ)
ガチガチと、激しく歯の根が鳴り始めました。
口元を覆った両手が、恐ろしいほどに震えている。
先ほどまでの悪寒や震えは嘘のように消え去り、身体の奥には満たされた熱が心地よく燻っていました。
その健康的な身体の軽さこそが、何よりの残酷な証拠でした。
わたしは、愛する夫の職務上の顔見知りであり、王国の騎士である彼を、化け物のように捕食してしまったのです。
「ごめんなさい、リオネル……わたし、わたしは……っ」
夫以外の男性と唇を重ねてしまったという絶望的なまでの罪悪感。
そして、自分の内に巣食う淫魔としての恐ろしい本能への嫌悪感。
レインハルト様がわたしを別館に閉じ込め、他の誰にも会わせようとしなかった理由が、今なら痛いほどに理解できました。
わたしはこうして男を狂わせ、その命を搾取しなければ生きていけない、恐ろしい呪われた存在だったのです。
もし、レインハルト様がこの事実を知ったら、どうなってしまうのでしょう。
彼がどれほどわたしを愛し、執着してくれていようと、他の男に唇を許し、その精気を吸った妻をどう、感じるのでしょうか。
冷たい軽蔑の眼差しで見下ろされ、その愛は冷えてしまうでしょうか。
あるいは激しく怒り狂った彼によって、リオネルが惨殺されてしまうかもしれない。
(どうしよう、どうしよう……っ)
(レインハルト様、ごめんなさい、ごめんなさい……っ)
後悔と恐怖で頭がどうにかなってしまいそうでした。
わたしはソファーの下にうずくまり、割れたティーカップの破片のそばで、ただ身を震わせて涙を流すことしかできませんでした。
――このおぞましい出来事を、なかったことにしてしまいたい。
レインハルト様の深い愛と魔力だけで満たされていた、あの純白の日々に戻りたい。
そんな叶わぬ願いを胸に抱きながら、わたしは声を殺して泣き咽びました。
その時でした。
ドンッ、と、小サロンの重厚な扉が乱暴に開け放たれたのです。
「シャルロット夫人!?今、大きな物音が……ッ」
扉の向こうに立っていたのは、血相を変えたライゼン様でした。
彼の翠の瞳は床にへたり込んで泣き崩れるわたしと、ソファーで意識を失っているリオネルを交互に見て、驚愕に見開かれます。
最悪の現場を、彼に目撃されてしまったのです。




