15_昔から君を
静寂に包まれた客間の中で、リオネルは何か恐ろしいものでも見るかのように、言葉を失ってわたしを見つめていました。
その視線は、かつての学園時代の同級生に向けるような親しげなものではなく、まるで熱病にでも浮かされたかのようにひどく強張っています。
彼の瞳の色は愛する夫が時折わたしに向ける揺らめきにも似ていて、胸の奥がざわめきます。
あんなに毎日のように愛し合っていたというのに、こんなに長期間離れ離れになるのは婚姻して以来初めてのことでした。
(レインハルト様に抱きしめられたい……)
(そしていつものようにキスして……ほしい)
じわり、と胸の奥底から首をもたげてきた渇望を押し殺して、わたしは口を開きました。
「リオネル様……? どうかされましたか? お顔の色が、少し優れないようですけれど」
彼の大きな手はソファーの肘掛けを強く握りしめており、手袋越しの節が白く浮き出ているのが分かりました。
わたしが不思議に思って小首を傾げると、彼は脂汗を流しながら激しく瞬きをし、慌てて視線を逸らしました。
「はぁ、……はぁ……。……? ……はぁ……」
「リオネル……?」
「い、いや……何でもない。少し、昔のことを思い出していただけだ。君とこうして向かい合ってお茶を飲むなど、学園を卒業して以来だったから」
「ふふっ、そうですね。あの頃のリオネル様は、落ち込みがちだったわたしをいつも気にかけて話しかけにきてくれましたもの。……そうだわ、普通科で魔法専科の話題が出るたびに苦虫を嚙み潰したようなお顔をされていらっしゃって」
わたしが懐かしさに目を細めて微笑むと、彼は気まずそうに咳払いをしました。
騎士になりたいのだと学園時代の彼が望んだ未来を、こうして自らの努力によって成し遂げているその姿に眩しさを覚えます。
そして、こうして外の世界を知る古い友人と顔を合わせることができたのは、今のわたしにとって大きな慰めだったのです。
「あの……リオネル様。王都の騎士団所属であるあなたに、このような泣き言を申し上げるのは間違っていると分かっているのですが……」
わたしは膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、ずっと胸の奥につかえていた不安を、ぽつりとこぼしてしまいました。
「レインハルト様が、もうひと月以上もお帰りにならないのです。……今まで、こんなに長く家を空けられたことは一度もありませんでした」
「……」
「お手紙も、最初の一通きりで途絶えてしまって。彼がご無事だと頭では分かっていても、夜になるたびに不安で、息が詰まりそうになるのです」
子どもたちや使用人の前では、決して見せることのできない公爵夫人としての弱音。
しかしそれを口にした途端、張り詰めていた緊張の糸が緩んだのか、わたしの身体の奥底で燻っていた『飢え』が、一気に牙を剥き始めました。
ズキリ、と下腹部の奥が熱く疼きます。
どうしようもない渇望感。
喉の奥がカラカラに乾き、全身の皮膚が粟立つようなひどい悪寒と熱っぽさが同時に襲ってきました。
「はぁっ……、ふぅ……っ」
動悸が激しくなり、わたしは荒くなる呼吸を隠すように胸元を強く押さえました。
その瞬間、わたしの身体から『誘惑の香り』がぶわりと空気中に漏れ出したような気がしました。
それは淫魔の血を引くこの身体が、生存本能として周囲の男性から精気を搾取しようと無意識に撒き散らす、極めて濃密で危険な媚薬の香り。
わたしには感じることはできない、甘く、退廃的で、脳の芯を直接麻痺させるようなその香りが、密室である客間に一瞬にして充満してしまったのです。
「シャルロット、夫人……?」
異変に気づいたリオネルがわたしを呼ぶ声が、ひどく掠れていました。
顔を上げると、彼の様子が先ほどまでとは一変していることに気がつきます。
彼の整った顔立ちは微かに紅潮し、その瞳には、騎士としての理性と男としての本能が激しく衝突しているような、切羽詰まった色が浮かんでいました。
彼は軍服の詰襟を緩めるように首元に手をやり、荒い息を吐き出します。
その視線は、わたしの潤んだ緋色の瞳や、荒い呼吸に合わせて上下する胸元にねっとりと絡みつき、どうしても引き剥がせないようでした。
「わたしは大丈夫です……。それより、リオネル、お顔が真っ赤ですわ……?」
わたしは自分の身体から発せられている香りが、彼をどれほど狂わせているのか理解できていませんでした。
ただ、彼の様子がおかしいことだけは分かり、心配になって身を乗り出します。
その無防備な仕草が、さらに甘い香りを彼の方へと煽ってしまったことに気づけるわけもなく。
「……あ、あの方は、王国最強の魔導師だ。遅れをとるはずがない。だから……っ」
彼は必死にわたしを励まそうと言葉を紡ぎますが、その声は熱を帯びて震えています。
そして、まるで何かの魔法にかけられたように、虚ろな瞳でポツリと呟きました。
「……君は、本当に変わらないな。いや、あの頃よりもずっと……」
「え……?」
「――学生の時から、可愛いと思っていたんだ」
耳を疑うような言葉に、わたしは大きく目を見開きました。
「えっ……!」
王国の騎士であり、愛する奥様もいらっしゃる彼が、どうしてそんなことを。
わたしの驚愕の声にハッとしたのか、リオネルは雷に打たれたように身体をビクッと震わせました。
彼は自分の口から飛び出した言葉に心底絶望したように、両手で顔を覆ってソファーに深く沈み込みます。
「……くそっ。互いに婚姻している身で、オレは何を言っているんだ……! ……違うんだ、シャルロット。オレはこんなことを言いたくて来たわけじゃないのに……、はぁ……なんでなんだ……く……っ、はぁ、はぁ……」
彼は頭を抱え、ひどく苦しそうにうめき声を上げました。
ガチガチと歯の根が合わない音が聞こえ、彼が全身で何か強大な力と戦っているのが分かります。
それは、わたしの身体が放つ抗いがたい誘惑の魔力と、彼自身の高潔な騎士としてのプライドとの、凄絶な戦いでした。
ですが、熱に浮かされ判断力が鈍っていたわたしには、彼が突然の重い発作か病に苦しんでいるようにしか見えなかったのです。
「リオネル!? 大丈夫ですか、誰か呼びましょうか……っ」
わたしは堪らずソファーから立ち上がりました。
足元がふらつき、まともに立つことすら難しい状態でしたが、苦しむ彼を放っておくことはできません。
ふらふらと覚束ない足取りで彼に近づき、その広い肩に心配で手を伸ばしました。
「しっかりなさって、リオネル……っ」
わたしが彼を覗き込むように顔を近づけた、その瞬間でした。
至近距離で爆発的に香った誘惑の匂いに、彼の中で辛うじて持ちこたえていた理性の糸が、ブツンと音を立てて千切れ飛んだのです。
「……来るなッ!」
悲鳴のような制止の声と共に、彼の手が弾かれたように伸びてきました。
ガシッ、と。
骨が軋むほどの強い力で、わたしの細い手首が掴まれます。
あまりの痛みに短く悲鳴を上げる間もなく、強い力で手前に引き寄せられました。
バランスを崩したわたしは、抗う間もなく彼の大柄な身体の上へと倒れ込んでしまう。
「きゃっ……!」
密着した身体から伝わってくる、成人男性のひどく高い体温と、力強い鼓動。
そして、大人の男性特有の香りが鼻腔を突いた瞬間、わたしの本能が、それに恐ろしいほど過敏に反応してしまいました。
身体の奥が甘く痺れ、抵抗するはずの腕から完全に力が抜け落ちてしまいます。
見上げると、すぐ目の前に、完全に理性を失い、獣のようにギラギラとした瞳を光らせるリオネルの顔がありました。
彼の熱い吐息が、わたしの唇を掠めるほどの至近距離で絡み合います。
離れなければいけないと頭の片隅で警鐘が鳴っているのに、ひどく飢えたわたしの身体は、すぐ目の前にある他人の『精気』を前にして、どうしても動くことができなかったのです。




