13_嫉妬の芽 ライゼンside
あの日、倒れ込んだシャルロット夫人をこの腕に抱きとめた時の、ひどく甘く柔らかい感触が今も両腕にこびりついて離れない。
熱に浮かされた彼女が私の袖を握りしめ、「レインハルト様」と甘く掠れた声で呼んだ瞬間、私の奥底で何かが決定的に狂い始めてしまった。
自分が求められたわけではない。
彼女の瞳に映っていたのは、私ではなく主君の幻影だ。
頭では痛いほど理解しているというのに、無防備にすがりついてきたあの儚げな姿を思い出すたび、胸の奥が甘く痺れ、どうしようもない庇護欲が込み上げてくる。
夫人が倒れてから数日後。
大事には至らなかったものの、まだ少し顔色の優れない夫人は、それでも気丈に筆頭公爵家の妻としての務めを果たしていた。
「ライゼン様。先日はご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。あの時あなたが支えてくださらなかったら、怪我をしていたかもしれませんわ」
小サロンの入り口で護衛に就いていた私の元へ、夫人が自ら歩み寄ってくる。
その手には、アンナ殿が用意したであろう温かいハーブティーと、焼き菓子が乗った銀盆があった。
ガラスのように繊細な薄紫色の髪が揺れ、あの甘く芳醇な香りが私の鼻腔をくすぐる。
「とんでもないことです。私は護衛として、当然の務めを果たしたまでですから。奥様こそ、まだお加減が優れないのですから、どうか無理をなさらないでください」
私が慌てて銀盆を受け取ると、夫人はふわりと、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「ありがとう。ライゼン様は本当に優しいのね。あなたがそばにいてくれると、なんだかとても安心するの」
その真っ直ぐで疑うことのない緋色の瞳に見つめられ、私の心臓がドクリと大きな音を立てる。
彼女の細やかな気配りと、私へ向けられる無垢な信頼。
公爵夫人という手の届かない身分でありながら、彼女はいつも私を一人の人間として、温かく労ってくれる。
差し入れのハーブティーの温もりを掌に感じながら、私はふと、己の婚約者のことを思い浮かべていた。
親同士が決めた縁談の相手であるマルシア。
彼女は気立ての良い女性だ。
だが、もし私が戦場で倒れ、あるいは任務で傷ついた時、こんな風に私の痛みに寄り添い、美しい瞳を潤ませて私のために微笑んでくれるだろうか。
……いや、比べること自体が間違っている。
目の前にいるのは、大陸一と謳われる絶世の美女であり、絶対的な主君の妻なのだ。
――分かっている。
自分には婚約者がいる。
自分はヴァルテンベルク公爵閣下の忠実な部下である。
超えてはならない一線など、最初から引かれている。
しかし、シャルロット夫人や子どもたちとの距離が近づくにつれ、私はこの公爵家の温かさにどうしようもなく惹かれてしまっていた。
庭園から聞こえてくるサリエス様やアルテミス様たちの無邪気な笑い声。
「ライゼンさま」と懐いてくれるイリスお嬢様。
そして何より、私に絶対の信頼を寄せて微笑みかけてくれる、女神のように美しい夫人。
すべては私が手に入れることのできない、他人の幸福だ。
その事実を突きつけられるたび、私の中で主君への尊敬の念に混じって、黒く濁った感情が頭をもたげ始める。
(……レインハルト閣下は、すべてを持っている……)
王国最強と評される強大な魔力、公爵という地位、莫大な財力。
そして、この世の何よりも美しく愛らしい、あのシャルロット夫人を夜ごと己の腕の中に抱き、そのすべてを独占しているのだ。
「もし、この方が自分の妻だったなら」
そんな恐ろしい考えが、ふと脳裏をよぎる。
あの真珠のように発光するがごとき白い肌に触れ、緋色の瞳を独り占めにして、私だけを求めて甘く鳴いてくれたなら。
(――いや、だめだ。私は何を考えている)
必死に首を振って邪念を振り払おうとした時、本館からやってきた執事が私に一通の手紙を差し出した。
「ライゼン殿。あなた宛てにご婚約者様からお手紙が届いておりますぞ」
「……ありがとうございます」
受け取った封筒には、見慣れたマルシアの筆跡が並んでいた。
以前の私なら、戦時下に届いた婚約者からの手紙を喜んで胸に抱いたはずだ。
しかし今の私は、その手紙を見ても心が少しも動かなかった。
それどころか、手紙から漂う微かな香水の香りが、シャルロット夫人の甘い香りと混ざり合うことがひどく不快にすら感じられた。
私は手紙を開封することもせず、そのまま軍服のポケットへと無造作に押し込んだ。
私の心は、すでにこのヴァルテンベルク公爵邸の奥深くに囚われ、狂い始めていた。
――もし、このまま閣下が戦場から帰らなければ。
――もし、あの強大な魔導師が命を落とし、永遠に帰らぬ人となったなら。
残された美しく脆い未亡人と子どもたちを、私が生涯かけて守り抜き、愛し尽くすことができるのではないか。
ドクン、と。
心臓が跳ね上がり、己の内に湧き上がった明確な『悪意』と『嫉妬』に気づく。
主君の死を望むような大逆罪の思考。
私はその恐ろしい己の考えに青ざめ、ガクガクと震える手で顔を覆った。




