12_支えた腕
意識が深い闇へと沈んでいく中、冷たい床に打ち付けられる痛みへの恐怖に、わたしはきつく目を閉じました。
しかし、予想していた衝撃が訪れることはありませんでした。
倒れ込むわたしの身体を誰かの力強い腕がしっかりと抱きとめてくれたのです。
「奥様……ッ!」
遠のく意識の中で、焦燥に駆られたような青年の声が耳に届きました。
レインハルト様の香木の深い香りとは違う、少し硬質で青葉のような香りが鼻腔を掠めます。
けれど、熱に浮かされ衰弱したわたしの身体は、その腕の温もりにすがりつくようにして完全に糸が切れてしまいました。
***
再び重い瞼を持ち上げた時、視界に飛び込んできたのは見慣れた天蓋付きのベッドの意匠でした。
そこは別館にある、わたしとレインハルト様の主寝室です。
全身が鉛のように重く、熱病にでもかかったかのようにひどく気だるい感覚が残っています。
喉の奥がカラカラに乾き、身体の奥底から何かが決定的に足りていないという、焦燥感に似た渇きがせり上がってきました。
ぼんやりとした視界の中で、ベッドの傍らに誰かが立っているシルエットが見えます。
逆光になって顔はよく見えませんでしたが、長身で、軍服のようなかっちりとした服を着ていることだけは分かりました。
わたしの頭は熱で酷く霞んでいて、正常な判断力を完全に失っていました。
この黄金の檻の主寝室に足を踏み入れる男性など、この世に一人しかいないと思い込んでいたのです。
(ああ……レインハルト様が、帰ってきてくださったのね)
わたしは震える手を力なく伸ばし、その人物の軍服の袖口をぎゅっと掴みました。
「……レインハルト様」
ひどく甘ったるく、熱を帯びた掠れ声が自分の唇から漏れました。
すがれる存在を見つけた安堵から、わたしはその袖に頬を擦り寄せようとします。
しかし、掴んだ腕がビクッと大きく強張ったことで、わたしの意識は急激に現実に引き戻されました。
瞬きをして焦点の合ってきた視界に映ったのは、漆黒の髪でも黄金の瞳でもありません。
さらりとした薄い金髪と、驚愕に見開かれた翠の瞳でした。
「……ライゼン、様?」
わたしが小さく息を呑んで名前を呼ぶと、ライゼン様はハッと我に返ったように息を吐き出しました。
彼の端正な顔立ちは微かに青ざめており、翠の瞳にはひどく動揺したような、それでいて何か熱を孕んだような複雑な色が浮かんでいます。
自分が主君と勘違いされたことに衝撃を受けているのは間違いありません。
彼自身、わたしが求めていたのが自分ではないことなど痛いほど分かっているはずです。
けれど彼の大きな手は、わたしが掴んだ袖口を振り払うことはせず、むしろその熱を確かめるように、わたしの震える指先ごとそっと包み込んでくれました。
弱り切って無防備に甘えるわたしの身体を抱きとめたその感触が、彼の生真面目な理性を根底から揺さぶってしまったのかもしれません。
「申し訳ありません、奥様。……私です」
その声はどこかひどく掠れており、切なげな響きを帯びていました。
わたしは己の恥ずかしい勘違いに気づき、慌てて彼の手から指を離しました。
「ごめんなさい、わたし……立ち眩みで、どうかしていたみたいで……」
「謝らないでください。突然お倒れになったので、ひどく驚きました。すぐにお医者様を呼ぼうとしたのですが、アンナ殿が……」
彼の言葉と同時に、寝室の扉が開いてアンナが足早に入ってきました。
その手には水差しと薬湯の入った杯が握られています。
「奥様! お気がつかれたのですね。ああ、本当に良かったですわ」
アンナの目にはうっすらと涙が浮かんでおり、わたしがどれほど彼女を心配させてしまったのかが窺えました。
彼女はわたしの上体をそっと起こし、乾ききった喉に薬湯を流し込んでくれます。
不思議なことに、その薬湯を飲むと身体の奥で暴れていたあの恐ろしい渇望が少しだけ和らいでいくのが分かりました。
「アンナ、心配をかけてごめんなさい。もう大丈夫よ」
わたしが無理に微笑んで見せると、開け放たれた扉の隙間から、ひょっこりと小さな顔がいくつも覗いているのに気がつきました。
リオンを先頭にして、双子たちやリリアン、そしてイリスまでもが、不安でいっぱいの顔をしてこちらを見つめています。
「母上……」
リオンが消え入りそうな声で呼ぶと、子どもたちが一斉にベッドの周りへと駆け寄ってきました。
わたしが倒れたと聞いて、皆どれほど怖い思いをしたことでしょう。
イリスがわたしの手を取って、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めました。
「ママ、しんじゃやだぁ……っ」
「泣かないで、イリス。お母様は少し疲れて眠ってしまっただけよ。もうどこも痛くないから大丈夫」
わたしは子どもたちの頭を一人ずつ撫でて、懸命に安心させようと努めました。
夫がいない今、わたしがしっかりしなければならないのに、こんな無様な姿を見せてしまうなんて。
自分の不甲斐なさに胸が締め付けられます。
そんなわたしたち家族の様子を、ライゼン様はベッドの傍らで静かに見守っていました。
やがて彼は、子どもたちの不安を拭い去るように、優しく、けれどどこか重みのある声で口を開きました。
「心配はいりませんよ。奥様は少しお疲れが出ただけです」
彼が子どもたちと同じ目線になるようにしゃがみ込むと、泣いていたイリスも顔を上げました。
ライゼン様は子どもたち一人一人を見渡し、最後にわたしの瞳を真っ直ぐに捉えます。
その翠の瞳には、忠誠心という言葉だけでは片付けられない、もっと重くて暗い決意のようなものが宿っていました。
「閣下がいない間は、私がお守りします。奥様も、皆さんのことも、決して失わせたりはしません」
それは頼もしい騎士としての誓いであると同時に、己の内に芽生えた庇護欲を肯定するような響きを持っています。
わたしはその言葉にどれほど救われたか分かりません。
子どもたちも安堵の息を吐き、ライゼン様に向けて信頼の眼差しを向けました。
ただ一人、彼を静かに見下ろしていた長男のリオンだけが、その言葉の裏にある異常な熱に気づいたように、わずかに眉を動かしたことなど。
熱で霞むわたしの頭では、知る由もなかったのです。




