10_前線からの手紙
レインハルト様が王都を発ち、戦地へと旅立たれてから二週間が過ぎました。
別館の庭園には色鮮やかな春の花が咲き乱れていますが、わたしの心は常に分厚い雲に覆われているかのように沈んだままです。
彼が残していってくれた温もりや、微かに漂っていたはずの魔力の残り香は、時間の経過とともに少しずつ薄れていくような気がしてなりません。
夜眠る時も、彼がいない主寝室のベッドはひどく広くて冷たく感じられました。
彼が注ぎ込んでくれていた精気が途絶えたことで、身体の奥底で何かが静かに飢え始めているような、そんな漠然とした不安に急き立てられる夜もあります。
そんな寂しさに押し潰されそうになっていた、ある日の午後のことでした。
小サロンでイリスを膝に乗せて絵本を読んでいたわたしの元へ、本館の執事が足早にやって来たのです。
「奥様。先ほど、前線の旦那様より早馬で手紙が届きました」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの心臓はドクリと大きく跳ね上がりました。
「本当ですか……っ!」
思わず立ち上がりそうになるのを必死に堪え、イリスをそっと床に下ろします。
執事が恭しく差し出した銀の盆には、見慣れたヴァルテンベルク公爵家の紋章が刻まれた赤い封蝋の書状が乗せられていました。
受け取る手が、嬉しさと安堵で微かに震えてしまいます。
「ご苦労様でした。……アンナ、イリスたちをお願いね」
「かしこまりました、奥様。どうぞごゆっくり、お読みくださいませ」
侍女のアンナが優しく微笑み、子どもたちを連れて隣の遊戯室へと移動してくれました。
静かになったサロンで、わたしは震える指先で慎重に封を切ります。
中から取り出した便箋には、レインハルト様のあの理知的で流麗な筆跡が、隙間なく綴られていました。
『僕の愛する、ただ一人の可愛いシャルロットへ』
書き出しの一文を目にしただけで、目頭がツンと熱くなります。
手紙には戦地の過酷な状況などは一切書かれていませんでした。
ただひたすらに、わたしと子どもたちを案じる言葉だけが並んでいます。
夜はきちんと眠れているか。
春とはいえまだ風が冷たい日もあるから、身体を冷やしてはいないか。
食欲は落ちていないか。
子どもたちはいい子にしているか。
そして、彼自身のわたしに対する深く重い愛情が、これでもかというほどに甘い言葉で書き連ねられていました。
『君に触れられない夜が、これほどまでに長く苦しいものだとは思わなかった』
『今すぐ転移門を開いて君のベッドに潜り込み、その薄紫色の髪に顔を埋めてしまいたい』
『君の甘い香りが恋しくてたまらない。早く帰って、君を隅々まで味わい尽くしたいよ』
『愛している。僕には君が必要だ、シャルロット』
文字の羅列であるはずなのに、まるで彼がすぐ耳元で、あの甘く低い声で囁きかけてくれているような錯覚に陥ります。
手紙の端からは彼がわざと魔力を込めて残してくれたのか、夫特有の深く安心する香りが微かに漂ってきました。
文字を追うごとに、冷え切っていたわたしの身体の芯に、ぽっと温かい火が灯っていくのが分かります。
枯れかけていた心に甘い水が注ぎ込まれるように、呼吸が深くなり、視界がぱあっと明るくなりました。
わたしは便箋を両手で大切に包み込み、そのまま胸の奥深く、心臓の一番近い場所へと強く押し当てます。
「レインハルト様……っ、わたしも、わたしもですわ……」
ぽろぽろと零れ落ちた涙が、頬を伝って豊かな胸元へと吸い込まれていきます。
それは悲しみの涙ではなく、彼からの途方もない愛情を受け取った喜悦の涙でした。
彼が遠い戦場にいても、わたしのことを片時も忘れず、こんなにも強く想ってくれている。
その事実だけで、わたしはどれほどの孤独にも耐えられるような気がしたのです。
何度も、何度も手紙を読み返し、そのたびに便箋に口づけを落としました。
どれほど時間が経ったでしょうか。
「奥様。温かいハーブティーをお持ちしました」
控えめなノックと共に、アンナがティーセットを運んで入ってきました。
わたしは慌てて目元をハンカチで拭い、恥ずかしさをごまかすように微笑みます。
「ありがとう、アンナ。……ふふっ、なんだか、すごく元気が出たみたい」
わたしがそう言うと、アンナはティーカップをテーブルに置きながら、ひどく優しい、どこか安堵したような眼差しでわたしを見つめました。
「ええ。奥様のお顔色が見違えるように良くなられましたから」
「そうかしら?」
「はい。まるで、しおれかけていたお花が恵みの雨を浴びて再び咲き誇ったかのようですわ。旦那様からのお手紙は奥様にとって何よりの特効薬で、命綱でございますね」
アンナの的確な指摘に、わたしは頬を赤く染めて頷くしかありませんでした。
彼女の言う通りです。
わたしは彼から与えられる愛と魔力なしでは生きていけない、愚かで幸せな妻なのですから。
この手紙は彼が不在の黄金の檻でわたしが生きていくための、たった一つの命綱でした。
「アンナ、後でお返事を書くための便箋とインクを用意してちょうだい。レインハルト様に、わたしも元気で待っていると伝えなければ」
「かしこまりました、奥様。最高級の香水を数滴、便箋に忍ばせておきましょうか。旦那様もきっと奥様の香りを求めておいででしょうから」
「もう、アンナったら……!」
侍女の気の利いたからかいに、わたしは思わず声を上げて笑ってしまいました。
彼からのお手紙さえ定期的に届けば、この先どれほど不在が長引こうとも、必ず立派に公爵夫人として留守を守り抜ける。
その時のわたしは、そう固く信じて疑っていなかったのです。
このたった一通の手紙が、のちにどれほど残酷な渇望をわたしに引き起こすことになるのか、知る由もありませんでした。




