9_女神の微笑み ライゼンside
私が魔法省長官であるレインハルト・イル・ヴァルテンベルク公爵閣下から、ご家族の護衛という重大な任務を命じられた時、身に余る光栄に打ち震えたものだ。
王都でも随一の美しさ、そして閣下の寵愛深いと噂されるシャルロット夫人をお守りすることは、魔導師として、そして一人の騎士としてこの上ない名誉であると確信していた。
だが、別館という限られた空間で彼女と接するようになって数日。
私は己の認識が、いかに浅はかなものであったかを思い知らされていた。
噂に聞く『大陸一の美しさ』という言葉すら、彼女を形容するにはあまりにも陳腐すぎる。
真珠のように内側から発光するように輝く肌。
星を砕いたかのように輝く緋色の瞳。
ガラス細工のように乱反射しながらしなやかに揺れる薄紫色の髪。
それはまるで、神が気まぐれに創り出した芸術品か、あるいは天から舞い降りた女神そのもののようだった。
彼女が動くたびに、ふわりと鼻腔をくすぐる甘く芳醇な香りは、私の理性を根底から揺さぶるような不思議な引力を持っている。
魔導師である私は人よりも魔力の波動に敏感だ。
シャルロット夫人の放つその甘い香りは、ただの香水などではない、もっと本能的で、生命そのものを惹きつけるような深い何かを感じさせる。
もちろん、私には親が決めたマルシアという婚約者がいる。
彼女は優しく家庭的な女性であり、私は彼女との穏やかな未来を疑ったことなど一度もなかった。
私は主君の部下であり、シャルロット夫人は絶対的な忠誠を誓うべき主君の奥方だ。
その一線を踏み越えるような大それた感情など抱くはずがない。
これは決して恋情などではなく、ただ美しい絵画や彫刻を前にした時に抱くような、純粋な憧れと畏敬の念に過ぎないのだ。
そう、己に何度も言い聞かせていた。
「ライゼンさま、みてみて!」
庭園の芝生の上で、若干二歳のイリスお嬢様が短い手足を一生懸命に動かして駆け寄ってくる。
その後ろからは双子のサリエス様とアルテミス様、そして少しはにかんだ様子でリリアンお嬢様が続いていた。
「イリスお嬢様、転ばないようにお気をつけください」
私がしゃがみ込んでイリスお嬢様を受け止めると、彼女は私の軍服のボタンに興味津々で触れてくる。
子どもたちは皆、素直で愛らしく、数日ですっかり私に懐いてくれていた。
ただ一人、少し離れた木陰のガゼボから静かにこちらを観察している長男のリオン様だけは、私に対して一定の距離を保っているようだったが。
彼が時折見せる黄金の瞳は父親であるレインハルト閣下と酷似しており、すべてを見透かされているような錯覚を覚える。
だが、そんなリオン様の存在すらも、私の心を覆い始めているこの甘い麻痺を止めることはできなかった。
「ライゼンさま、きのうみたいに、きらきらする魔法をみせて!」
「ええ、かまいませんよ。では、少しだけ」
アルテミス様の無邪気な声に応え、私は指先に微かな魔力を集めた。
ふうっと息を吹きかけると光の粒子が幾千もの小さな蝶に姿を変え、子どもたちの周囲をひらひらと舞い踊る。
「わあ、きれい……!」
リリアンお嬢様が目を輝かせ、サリエス様が興味深そうに光の蝶を指先で突いた。
子どもたちの歓声が庭園に響き渡る中、ふわりと、あの甘い香りが風に乗って近づいてきた。
「ライゼン様、いつも子どもたちの相手をしてくださって、本当にありがとうございます」
振り返ると、春の陽射しを背に受けたシャルロット夫人が、眩しいほどの微笑みを浮かべて立っていた。
その神々しいまでの美しさに、私の心臓がドクリと大きく跳ねる。
少し首を傾げ、私を見つめる緋色の瞳には、何の疑いもない純粋な感謝と信頼が込められていた。
こんなにも無防備な仕草で無邪気に笑いかけられてしまえば、どれほど強固な理性の壁を築き上げようと、一瞬で瓦礫と化してしまう。
夫人が子どもたちに向ける慈愛に満ちた眼差しを見るたび、私はひどく胸を打たれていた。
美しく、儚げでありながら、母親としての芯の強さも持ち合わせている。
別館の限られた空間で彼女が私に見せる姿のすべてが、私の心に深く刻み込まれていく。
「……もったいないお言葉です。私はただ、おそばに控えているだけですから」
己の声が上擦らないように必死に抑え込みながら、私は騎士の礼をとった。
彼女はそんな私の葛藤など知る由もなく、ただ柔らかく、女神のように微笑み続けている。
その笑顔を見ているだけで胸の奥底に熱いものが込み上げ、視線を逸らすことすら困難になっていく。
私は、自分が恐ろしいほどの速度で、この公爵家の温かさと彼女の存在に傾倒していることを自覚せざるを得なかった。
これほど美しく、気性も清廉な女性がこの世に存在すること自体が、奇跡のようだった。
ふと、恐ろしい考えが脳裏を過る。
(――こんな方に毎日微笑みかけられ、夜ごと抱ける公爵閣下はどれほど幸福なのだろう)
その瞬間、背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒が走った。
自分は今、なんという不敬なことを想像したのだ。
主君の妻に対して、あろうことか『夜ごと抱く』などという破廉恥な妄想を抱いてしまうなんて。
尊敬するレインハルト閣下に対して、あってはならない嫉妬に似た感情が芽生えかけている。
「ライゼン様? お顔の色が優れませんが……お疲れではありませんか?」
シャルロット夫人が心配そうに覗き込んでくる。
その白い指先が私の額に触れそうになり、私は弾かれたように一歩後ずさった。
「い、いいえ……! 少し、風が冷たく感じただけです」
慌てて目を逸らした私の額には冷や汗が滲んでいた。
己の中に芽生え始めた、絶対に知られてはならない感情の種。
私はその恐ろしい事実に青ざめながら、ただ必死に激しく脈打つ心臓の音を隠すことしかできなかった。




