8_残された公爵夫人
レインハルト様が過酷な前線へと旅立たれてから、数日が過ぎました。
主を失った主寝室のベッドはどこまでも広くて冷たく、どれほど分厚い羽毛布団にくるまっても、身体の芯から温まることはありません。
夜の闇に包まれるたび、彼が注ぎ込んでくれていた魔力と深く甘い香りを求めて、身体の奥がシクシクと疼くような感覚に襲われます。
それでも、わたしは別館の主として、そして彼の大切な子どもたちの母親として、気丈に振る舞わなければなりませんでした。
公爵夫人の務めは、夫が不在だからといって滞らせてよいものではありません。
朝食を終えると、わたしは小サロンの机に向かい、領地から送られてくる膨大な書類に目を通します。
秋の収穫に向けた予算の承認や、領民たちの嘆願書、そして王都に滞在している貴族たちからの社交の誘いなど、確認すべきことは山のようにありました。
「アンナ、こちらの書類は承認の印を押しましたから、本館の執事へ回してくださいな。それから、先日お茶会にお誘いいただいたマーガレット夫人には、夫の不在を理由に丁寧な辞退のお手紙を書いておいてちょうだい」
「かしこまりました、奥様。すぐに手配いたします」
侍女のアンナが手際よく書類を受け取り、一礼して部屋を出て行きます。
執務の合間には、子どもたちの教育や遊びの様子にも気を配らなければなりません。
リオンは家庭教師と共に難しい歴史や魔導の基礎を学び、双子のサリエスとアルテミスは庭で元気いっぱいに魔法合戦をしながら走り回っています。
リリアンには淑女のマナーの基本を教え、末っ子のイリスはわたしの膝の上でお絵かきを楽しんでいました。
そんな慌ただしくも穏やかな日常の風景の中に、今はもう一人の人物が静かに溶け込んでいます。
「奥様、こちらの領地報告書ですが、先月のデータと照らし合わせた注釈を添えておきました。ご確認いただけますでしょうか」
「まあ。ありがとう、ライゼン様。とても助かりますわ」
護衛として別館に残されたライゼン様は、ただ扉の前に立って警護をするだけでなく、わたしの執務を細やかに補佐してくれていました。
彼自身も優秀な魔導師でありながら、こうした文官のような事務作業も非常に手際よくこなしてくれます。
当初は、見知らぬ男性が別館に常駐することに少しだけ戸惑いがありましたが、彼の態度はどこまでも誠実で、完全に職務として弁えたものでした。
視線を無遠慮にぶつけてくるようなこともなく、常に適切な距離感を保ち、決してわたしのプライベートな領域に踏み込もうとはしません。
「ライゼン様がいらしてくださって、本当に良かったです。レインハルト様がお留守の間、わたし一人ではこれほどの書類を処理しきれなかったかもしれませんもの」
わたしが心からの感謝を伝えると、彼は背筋を伸ばし、騎士のように胸に手を当てました。
「もったいないお言葉です。私はただ、閣下より命じられた職務を忠実に果たしているに過ぎません。奥様のお役に立てたのであれば、光栄の至りです」
真面目で折り目正しい彼の様子に、わたしはふふっと小さく笑みをこぼしました。
気負いすぎて少しだけ硬くなっているその横顔が、どこか弟のように微笑ましく思えたのです。
時計の針が午後三時を回り、ようやく本日の執務が一段落しました。
イリスもお昼寝の時間になり、乳母に抱かれて寝室へと向かいました。
静かになったサロンで、わたしは小さく息を吐き出して凝り固まった肩を回しました。
「奥様、お疲れ様でございました。本日はもう急ぎの書類はございません」
「ありがとう。……そうだわ、ライゼン様。よろしければ少し休憩になさいませんか?」
書類を片付けていた彼に声をかけると、ライゼン様は少し驚いたように翠の瞳を瞬かせました。
「お気遣い痛み入ります。ですが私は護衛の身ですので……」
「いいえ、ずっと立ちっぱなしでいらしたでしょう?アンナに美味しいお茶と焼き菓子を用意させますから、どうかお付き合いくださいな。一人でお茶を飲むのは少し寂しいのです」
わたしが少しだけ首を傾げて上目遣いに頼み込むと、彼は困ったように眉を下げながらも、やがて小さく頷いてくれました。
アンナが運んできた紅茶は春らしい華やかな花の香りがする、素晴らしいものでした。
向かい合わせの席に座ったライゼン様は、美しいティーカップを少しだけ緊張した手つきで持ち上げています。
婚約者様のお話を伺ったり、王都での流行りについて教えてもらったりと、彼との会話はとても穏やかで心地の良いものでした。
レインハルト様が不在の寂しさが、彼の誠実な優しさによって少しだけ埋められていくのを感じます。
「ライゼン様、本当にありがとうございます」
紅茶を一口飲み、わたしは彼に向かって心からの微笑みを向けました。
「あなたがいてくださるおかげで、わたしも子どもたちも安心して眠ることができますわ。レインハルト様があなたを選ばれた理由がとてもよく分かりました」
春の柔らかな日差しが窓から差し込み、わたしの薄紫色の髪を透かして乱反射します。
わたしが柔らかい笑顔で純粋な感謝を伝えたその瞬間。
ティーカップを持っていたライゼン様の手が、ピクリと不自然に止まりました。
彼は何かに弾かれたように、ハッと息を呑んでわたしから視線を外します。
「……っ、もったいない、お言葉です」
絞り出すような彼の声は先ほどまでの落ち着いたものとは違い、微かに震えているように聞こえました。
窓の外の景色に目を向けてしまった彼の横顔はどこか強張っており、わたしは不思議に思って小首を傾げます。
「ライゼン様?どうかされましたか?」
「い、いえ。なんでもありません。……少し、お茶が熱かったようです」
彼は言い訳のようにそう呟くと、逃げるように紅茶を口に含みました。
わたしに向けられたその翠の瞳の奥で、決して芽生えてはいけない感情が、静かに、けれど確実に根を張り始めていたことに。
この黄金の檻に閉じ込められ、夫の愛だけを教え込まれてきたわたしは、まったく気づくことができなかったのです。




