11_覚醒の朝と、苛烈なる対価
本来ならば、私たちは出会った瞬間に殺し合い、どちらかの息の根が止まるまで憎しみをぶつけ合うべき宿敵同士でした。
古の伝承において、淫魔――リリスの血を引く者は、男の精気を、とりわけ強大な魔力を持つ人間の生命力を啜り、己の糧とする最悪の捕食者。
そして、ヴァルテンベルク家の魔導師は、その魔を討ち、国を浄化するために剣と杖を振るう最高位の守護者。
もし、相手がレインハルト様でなければ。
もし、わたしがシャルロットという名の無自覚な淫魔でなければ。
どちらかがどちらかの命を無残に奪い、その亡骸を冷たい大地に晒していたことでしょう。
国のために魔物を消滅させるべき義務を負った最高位の魔導師が、討つべき淫魔の蜜香に屈し、その支配下に降る。
それは、王国始まって以来の、あまりに背徳的で禁断の契りでした。
レインハルト様は、その背徳の重みを誰よりも深く、苦しく感じていたに違いありません。
けれど、今――。
わたしたちは公爵邸の、彼の広く冷たいはずの寝室で、互いの体温を溶け合わせるようにまどろみに落ちていました。
最強の魔導師が、淫魔に屈服し、その命を削りながらも精気を与え続ける。
それは間違いなく破滅へと続く道でしたが、わたしたちにとっては、それこそが唯一の、真実の愛の形だったのです。
わたしは彼の腕の中で、これまでで最も安らかな眠りにつきました。
明日になれば、また彼がわたしを「浄化」してくれる。
その甘い確信だけを抱いて。
最後に聞こえたのは、自嘲に似た微笑を含んだ囁きでした。
「……おやすみ。僕の、愛しい――」
そこで言葉は途切れ、温もりだけが残りました。
***
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、わたしの瞼を優しく叩く。
ゆっくりと意識が浮上する中で、全身を包み込むのは、昨夜までは知らなかった不思議な高揚感と、どこまでも澄み渡るような心地よさ。
「ん……、わたし……」
小さく声を漏らして目を開けると、すぐ目の前には、すでに目覚めていたらしいレインハルト様の黄金の瞳がありました。
彼はわたしの頬を大きな手で包み、ひどく熱っぽい、けれどどこか罪悪感を孕んだ視線を向けていました。
「おはよう、シャルロット。……体は痛くないかい?」
「おはようございます、レインハルトさま……。痛みなんてありませんわ。体はむしろ、とっても良い状態で……」
まるで昨日まで身体の中に詰まっていた濁りが、洗い流されたみたいに。
胸の奥にあった原因不明の熱が形を変えて静まっている。
起き上がろうとして、ふと自分の視界に違和感を覚える。
枕元に、見たこともないような長い紫の糸が、川のように流れていたのです。
「なっ……、その身体は……」
レインハルト様が、息を呑んで絶句しました。
わたしは慌てて起き上がろうとして悲鳴を上げました。
「えっ……!? わたしの、髪が……っ」
肩甲骨の下あたりまでだったはずの髪の毛は、今や腰の下、シーツを覆い尽くすほどに長く、絹のような光沢を湛えて広がっていました。
それだけではありません。
身を起こしたとき、胸元にずっしりとした「重み」を感じたのです。
(胸が…大きくなっているような…?)
さらに立ち上がろうとしたとき、視界の高さが昨日までと違うことに気づきました。
スラリと伸びた脚は、昨日よりも十センチは長くなっているようです。
なにより、鏡を見るまでもありません。
肌は陶器のように艶めき、唇は赤ちゃんのようにみずみずしく、それでいてぷっくりと少し厚みが増したようでした。
「なるほど……。つまり、昨日までの君は『幼体』だったということだね……。淫魔リリスの血を引く者が、大量の精気を吸収して成体へと進化する……。さすがにこの情報までは掴めていなかったな。僕は論文を書くべきか……? いやしかし……」
レインハルト様は稀代の発見を前にした学者のように、黄金の瞳を激しく揺らし、学術への貢献と、わたしの変貌を公にしてはならないという葛藤の間で「うーん」と深く悩んでいました。
「とりあえず、この変異を書き留めねば……」
彼はベッドサイドに足を下ろし、立とうとしました。
ですが、その瞬間に膝から力が抜けたように、ぐらりと身体を揺らしたのです。
「レインハルト様!」
わたしは慌てて駆け寄り、彼の逞しい身体を支えました。
助け起こした彼の額には、微かな汗が滲んでいます。
あんなに強大で、非の打ち所のない魔法使いである彼が、酷く青ざめた顔で絞り出すように声を漏らしました。
「ハァ…ハァ…。だいぶ生命エネルギーを吸われたようだね……」
「ごめんなさい……、ごめんなさい……! わたしのせいだわ……っ」
わたしが泣きそうになりながら謝ると、レインハルト様は弱々しく、けれど慈愛に満ちた微笑を浮かべました。
「いいんだ、僕が望んだことだ。それに……僕でよかったよ、シャルロット。リリスの『覚醒』に関わるほどの量の精気を吸われたんだ。普通の人間なら、今頃骨と皮になって死んでいてもおかしくない。その点では、僕はまだ君に……あげられるほどには、余裕はあるからね」
「そんな……! あなたを傷つけたくはないわ。むしろ、あなたに何かを差し上げられたら、どんなにか……っ」
「シャル……。その気持ちだけで嬉しいよ。大丈夫、この程度、少し休めば回復する。それに僕は、木々たちや大地の力を借りる回復魔法も使える。本当に、問題ないよ」
「さ、さすが大魔法使い様ですわ……」
わたしは目をまんまるにして驚きましたが、その表情が面白かったようで、レインハルト様はクスクスと、昨日までの冷淡さが嘘のような柔らかな声を上げました。
ですが、心配の種は消えません。
彼のことです、わたしを安心させるために優しい嘘をついているかもしれないのですから。
「それと、朗報もあるんだ。……昨夜、君が穏やかに眠った直後に、あの『甘い香り』が消えた。眠りが理由なのか、欲求が満たされたことが理由なのかは検証する必要があるけれど、そこが解明できれば、これから先、やりようはありそうだ」
「そうなのですね……。…わたし、また誰かを巻き込んでしまうのも、あなたを弱らせてしまうのも…つらくて…」
「シャル、…シャルロット。これはほかの誰でもない、僕の選択であり、決意だ。君を生かしたい。そのために出来ることはなんでもする。…そしてそれは、おそらく僕にしかできない」
「……レインハルト様…でも」
「君はただ、僕の隣で笑っていてくれればそれでいい。そのためなら僕は……――世界を敵に回しても構わない」
ぽつりと落ちた言葉が、胸の奥に刺さる。
それは愛の言葉の形をしていないのに、あまりにも残酷で、優しかった。
窓の外では、朝の光が静かに街を満たしていました。
けれどこの寝室だけ、まだ夜の名残を抱えたまま。
わたしたちは、互いの宿命の上に立ちながら、同じ朝を迎えてしまったのです。
――そして、その代価が、確かにここにあることを。
レインハルト様のかすれた呼吸が、私に教えていました。




