5_ライゼンという男
出征を明日に控えた公爵邸は、普段の静寂が嘘のように慌ただしい空気に包まれていました。
本館の廊下を行き交う無数の騎士や使用人たちの足音が、遠く離れたこの別館にまで微かに響いてきます。
昨日の唐突な出征命令から一夜が明け、いよいよレインハルト様が戦地へ赴くのだという現実が、冷たい質量を伴ってわたしの胸にのしかかっていました。
そんな不安を必死に押し隠して出迎えの準備をしていると、軍服を完璧に着こなしたレインハルト様が、一人の青年を伴って別館の小サロンへとやって来ました。
青年は魔導軍の漆黒の制服に身を包み、背筋をピンと伸ばして主君の斜め後ろに控えています。
「シャル、彼を紹介しておこう。僕の不在中、この公爵邸と君たちを護衛するために置いていく僕の直属の部下だ」
レインハルト様が促すと、青年は一歩前へ出て、まるで絵画を切り取ったかのように深く美しい一礼をして見せました。
「初めまして、奥様。魔法省第一魔導大隊所属、ライゼン・ウィンストンと申します」
青年が顔を上げると、窓から差し込む朝陽を受けてさらりと揺れる薄い金髪と、ひどく知的な翠の瞳が覗きました。
彼から受ける第一印象はどこまでも誠実で、主君への深い忠誠心に溢れた好青年というものです。
魔導師にありがちな冷たさや傲慢さは微塵も感じられず、むしろ春の陽だまりのような温かさをまとっていました。
「ライゼンは若干二十三歳だが、魔法省でもトップクラスの魔力量と結界技術を持つ非常に有能な魔導師でね。ウィンストン子爵家の次男で、家柄こそ高位ではないが、その才気と努力で僕の側近にまで上り詰めた男だ」
「まあ。レインハルト様がそこまでおっしゃるなんて、とても優秀な方なのですね」
「閣下、過分なお言葉です。私など、すべてはレインハルト様のご指導の賜物に過ぎません」
「謙遜することはないよ。……ああ、それにシャル、彼にはすでに婚約者もいるし、身持ちも堅く信頼できる。留守中の別館への出入りを許可するのは、彼一人だけにするつもりだ」
レインハルト様は今まで、主治医以外の男性が別館に近付くことを一切許可しなかったというのに、このライゼンという青年はよほど信頼のおける人物なのでしょう。
「婚約者様がいらっしゃるのですね。これほど急に離れ離れになってしまって、お相手の方は寂しがっておいでではないですか?」
「はい。親同士が決めた縁談ではありますが、マルシアという心優しい気立ての良い女性です。戦時下で公爵邸の護衛という重任に就くことになり少し不安がらせてしまいましたが、私の任務を誇りに思うと笑顔で送り出してくれました」
ライゼン様は少しだけ照れたように、しかし真っ直ぐな翠の瞳でわたしを見て微笑みました。
ご自身の婚約者様のお話をされる時の優しげな表情に、わたしはすっかり安堵してしまいます。
別館はわたしたち家族のプライベートな空間であるため、見知らぬ男性が入り込むことには少なからず不安がありました。
ですが、愛する女性を思いやる彼の穏やかな横顔を見て、レインハルト様が彼を抜擢した理由が分かったような気がしました。
ふと、廊下の方からパタパタという小さな足音と、ひそひそと囁き合う可愛らしい声が聞こえてきました。
視線を感じて振り返ると、サロンの入り口の少し開いた扉の隙間から、子どもたちがひょっこりと顔を出しています。
いつも別館には決まった使用人しか出入りしないため、見慣れない軍服姿の青年の訪問が珍しかったのでしょう。
長男のリオンを先頭に、双子のサリエスとアルテミス、次女のリリアン、そして末っ子のイリスまでもが、不思議そうな瞳でライゼン様をじっと見つめていました。
子どもたちの存在に気づいたライゼン様は少しも嫌な顔をせずに、歩み寄ってその場にしゃがみ込みました。
子どもたちと同じ目線に合わせ、彼は優しく微笑みかけます。
「こんにちは。今日から皆さんの護衛を務めることになった、ライゼンです」
柔らかく穏やかな声色に、最初は警戒していた双子たちやイリスも安心したようにパッと顔を輝かせました。
しかし、普段は無邪気で活発な五歳のリリアンだけは、見知らぬ端正な青年に突然声をかけられたことで、恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めてしまいます。
彼女はとててて、と小走りでわたしの背後に隠れ、ドレスの裾をぎゅっと握りしめました。
わたしは苦笑しながら、リリアンの背中をそっと押し出します。
「リリアン、淑女として、ちゃんとご挨拶なさい」
嗜められたリリアンは、もじもじとしながらも、小さな手でドレスの裾をつまんで可愛らしいカーテシーをして見せました。
「……こんにちは、ライゼンさま。リリアンです」
「ご丁寧な挨拶をありがとうございます、リリアンお嬢様」
ライゼン様が騎士のように恭しく頭を下げると、リリアンはさらに赤面して、またわたしの後ろに隠れてしまいました。
そんな子どもたちの愛らしいやり取りを見て、サロンの緊張していた空気はすっかり和やかなものへと変わります。
リオンだけは少し離れた場所から静かにライゼン様を観察していましたが、彼が子どもたちに危害を加えるような人間ではないと判断したのか、微かに肩の力を抜いたようでした。
「ライゼン様のような誠実な方が護衛として残ってくださるなら、これほど心強いことはありませんわ」
「もったいないお言葉です、シャルロット夫人。この命に代えましても、閣下の最も大切なご家族をお守りすると誓います」
「頼んだよ、ライゼン。僕の愛する妻と子どもたちに、決して指一本触れさせるな」
「はっ。必ずや、完璧な護衛を務め上げます」
レインハルト様とライゼン様は、主従の強い信頼関係で結ばれているように見えました。
彼の声はいつものように低く落ち着いていましたが、その瞳の奥にはわたしにすら読み取れない昏い光が宿っていたことに、この時のわたしは気づくことができませんでした。
わたしはライゼン様がとても真面目で話しやすく好青年であることに、心から胸を撫で下ろしていました。
戦場へ赴く夫を案じる不安でいっぱいだった心に、少しだけ明かりが灯ったような気がしたのです。
彼の言う『完璧な護衛』が、やがてどれほど絶望的な背徳へと歪んでいくことになるのか。
そして、この心優しい青年の運命が、甘く狂った黄金の檻の中で静かに、けれど確実に狂い始めていくことなど、微塵も想像していなかったのです。




