4_王命
先ほどまでの温かな家族の空気が、一瞬にして凍りついたような気がしました。
執事が恭しく差し出した金色の封蝋の書状を受け取った夫は、音もなくその封を切り裂きます。
書面へと落とされた彼の理知的な黄金の瞳が、無機質に文字を追っていくのを、わたしはただ息を呑んで見つめることしかできませんでした。
ほんの数分前までわたしを甘く抱き寄せ、リオンと微笑み合っていた夫の姿はそこにはありません。
冷徹で一切の感情を排した、王国最強の魔導公爵としての横顔がそこにはありました。
沈黙が、小サロンに重くのしかかります。
淹れたての紅茶から立ち上っていた芳醇な香りすらも、どこか冷たく色褪せてしまったように感じられました。
「ノルディアを落としたベルツ連合軍が、そのまま南下を始めたようだ。軍の先頭にはベルツが誇る強力な魔導部隊が配置されているらしい」
彼の静かな声が室内に冷たく響きます。
ベルツ連合軍の魔導部隊といえば、大陸でも有数の力を持つと聞いたことがあります。
魔力を持たない通常の騎士団や兵士たちだけでは、到底対抗できる相手ではありません。
「ですから、父上に……王国軍の指揮と、前線への出陣命令が下ったのですね」
リオンが九歳とは思えないほど落ち着いた声で口を開きました。
レインハルト様は息子に向かって小さく頷きます。
「ああ。僕が率いる魔法省の精鋭部隊が前線で結界を張り、応戦し、敵の魔導兵を直接食い止める必要がある。……明後日の朝一番で、王都を発つことになった」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの心臓がどくりと嫌な音を立てました。
「明後日……そんな、急すぎますわ」
あまりにも突然すぎる別れに頭の芯が真っ白になりそうです。
いくら彼が王国最強の魔導師とはいえ、戦場には常に死の危険がつきまといます。
血の気が引き、指先から急速に温度が奪われていくのを感じました。
「リオン、今日の勝負はここまでだ。アンナ、下がっていい」
「……はい、父上」
「かしこまりました、旦那様」
二人が静かに一礼をして部屋を出て行くと、重厚な扉がパタンと音を立てて閉まりました。
サロンに残されたのは、わたしとレインハルト様の二人きりです。
わたしが不安に耐えきれずに立ち上がると、彼が力強く、けれど酷く優しく抱きとめてくれました。
「ごめんね、シャル。君を不安にさせてしまって」
彼の大きな手が、わたしの震える背中を宥めるようにゆっくりと撫で下ろします。
その温もりと深い香りに包まれると、先ほどの恐怖が少しだけ和らいでいくのが分かりました。
「嫌です……戦場になんて、行ってほしくありません。ですが、王国最強の魔導師であるあなたが行かなければ、この国は守れないのですよね」
口にしてはいけない我儘を必死に飲み込み、わたしは彼の広い胸に顔を押し付けました。
「あなたが負けるはずがないと分かっています。誰よりも強くて素晴らしい方ですから。それでも、もしものことがあったらと思うと、怖くてたまらないのです」
彼はわたしの涙で濡れた頬を両手で包み込み、そっと上を向かせました。
「泣かないでおくれ、僕の可愛いシャルロット。僕は君と子どもたちを害する者を排除しにいくだけだよ。なんてことはない。君が待つこの場所に、必ず生きて帰ってくると誓うよ」
わたしの緋色の瞳に、彼の理知的な黄金の瞳が真っ直ぐに注がれます。
ひどく甘く、とろけるような口づけが降ってくる。
思考を奪うような深い接吻に、わたしはただ彼の首にすがりつき、その熱に応えます。
「……ええ。信じて、お待ちしております。あなたがいない間、公爵邸と子どもたちは、わたしが必ず守りますわ」
唇を離し、震える声でそう告げると、彼はふわりと完璧なまでの美しい微笑みを浮かべました。
「ありがとう、シャル。君は本当に強くて美しい、僕の自慢の妻だ」
その声音はどこまでも甘く、愛に満ちているのに。
なぜか背筋を、ぞくりとした底知れない冷たいものが撫でていった気がしました。
彼がまとう空気は妙に静かで、その感情の底は全く見えません。
ただ、わたしを抱きしめる腕の力だけが、痛いほどに強かったのです。




