1_檻の中の春
ジュリアン王太子の訃報より二年後――。
ノルディア敗戦により北方の均衡が崩れ、王国最強の魔導師レインハルトは前線へ召集される。
残されたシャルロットのそばには、護衛として若き魔導士ライゼンが置かれた。
夫の不在。
届かない手紙。
身体を蝕む渇き。
そして、主君の妻に溺れていく若い男。
ライゼンはシャルロットの毒の正体を知らぬまま、その肉体に囚われ、欲を恋だと信じていく。
一方、帰還したレインハルトは、自らの聖域が侵された光景を目にする。
心地よい春の柔らかな陽射しが、天蓋付きのベッドに張られた薄衣を透かして、白いシーツの上に淡い光の模様を描き出していました。
遠くで小鳥たちのさえずりが聞こえる中、心地よい微睡みから抜け出すように、ゆっくりと重い瞼を持ち上げます。
すると、すぐ目の前には漆黒の髪と理知的な黄金の瞳がありました。
わたしが目覚めるのをずっと待っていたかのように、愛しい夫は酷く甘やかな熱を帯びた視線でわたしを見つめています。
「おはよう、僕の可愛いシャル」
レインハルト様の声はどこまでも優しく、そして逃げ場のない執着に満ちていました。
彼の手がわたしの頬をそっと包み込み、しなやかに揺れる薄紫色の髪の毛先を愛おしそうに指に絡めます。
「おはようございます、レインハルト様」
わたしが微笑み返すと、彼はひどく満足そうに目を細めてわたしの額に口づけを落としました。
彼の長い指先が、緋色の瞳の目尻を愛を確かめるようになぞっていきます。
真珠のように白く発光するわたしの肌を、彼はまるで壊れ物に触れるかのように慎重に撫でました。
「ああ、今日もなんて美しいんだろう」
彼はうわ言のように呟きながら、わたしの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込みました。
ちくり、と微かな甘噛みの感触に、わたしは小さく肩を震わせます。
肌の上を這う熱い吐息に、身体の奥が甘く痺れるような感覚を覚えました。
「君の香りは、本当に僕を安心させてくれるね」
公務では冷徹で隙がない魔法省を総括する長官である彼ですが、わたしの前では常軌を逸したような甘い顔を見せます。
彼が注ぎ込んでくれた魔力と精気によって完成されたこの身体は、今日も彼のためだけに咲く花。
ここは公爵邸の別館であり、彼がわたしのためにしつらえた安全で甘い『黄金の檻』です。
不用意に誘惑の香りを撒き散らさないためという理由もありますが、彼の底知れぬ独占欲がわたしをここに留めているのだと分かっていました。
時折見え隠れする残酷な裏の顔に怯えながらも、結局はこうして与えられる途方もない快楽と優しさに絆されてしまうのです。
「ずっと、このまま僕の腕の中にいればいい」
彼の低い囁きが、甘い呪いのように耳の奥へと染み込んでいきます。
朝の爽やかな空気の中にあっても、二人の間には夜の続きのような退廃的な甘さが漂っていました。
もう少しだけこうしていたいという我儘な気持ちをぐっと堪え、わたしは彼の広い胸に手を当ててそっと押し返します。
「いけませんわ、レインハルト様」
「……もう少しだけ、君を味わわせてほしいのだけれど」
「子どもたちがお庭で待っていますから」
そう、時計を見ると、とっくに朝食の時間は過ぎ去っていたのです。
彼は休日なのをいいことに朝からわたしを独占しようとしていたのでしょう。
不満げに目を伏せる彼を優しく宥め、わたしはようやくベッドから抜け出しました。
侍女のアンナに身支度を整えてもらい別館の美しい庭園に出ると、楽しそうな声が風に乗って聞こえてきました。
今日は透き通るような青空が広がる、とても暖かな春の日です。
色とりどりの花が咲き乱れる庭園は春の歓びに満ち溢れていました。
「母上、おはようございます」
庭のガゼボで分厚い書物を読んでいた長男のリオンが、わたしの姿を認めて静かに立ち上がりました。
九歳になったリオンは、父親譲りの美しい黒髪と金色の瞳を持っています。
「おはよう、リオン。今日はとてもいいお天気ね」
わたしが微笑みかけると彼は少し大人びた表情で頷き、わたしの手を取って優しくエスコートしてくれました。
彼はすでに天才的な魔導の才能の片鱗を見せており、父親に似た冷静さと、わたしに対する深い愛情を持って接してくれます。
時折、その聡明すぎる瞳が何かを見透かしているようでドキリとさせられることがありますが、頼もしく自慢の息子であることに変わりはありません。
ガゼボの椅子に腰を下ろすと、爽やかな風が花の香りを運んできました。
「母上、今朝はお加減はいかがですか」
「ええ、とても良いわ」
「心配してくれてありがとう」
わたしが答えると、リオンは安堵したように微かに口角を上げました。
芝生の向こうでは、銀灰色の髪を揺らして七歳の双子、兄のサリエスと妹のアルテミスが魔法の真似事をして遊んでいます。
彼らは未熟な魔法で小さく光る蝶を作り出し、楽しそうに追いかけっこをしていました。
その少し離れた場所では、黒髪に緋色の目を持つ五歳の美しい次女リリアンが、器用な手つきで春の花を編み込み、可愛らしい花冠を作っています。
その無邪気な姿を見ているだけで、胸の奥が温かな愛情で満たされていくのを感じました。
「ママ、みて!」
三女のイリスが、小さな手で花冠を掲げながら元気いっぱいに駆けてきました。
薄紫色の髪にアメジストの瞳を持つ二歳の彼女は、子どもたちの中で一番の末っ子です。
「まあ、とても綺麗ね、イリス」
わたしがしゃがみ込んでイリスの頭を撫でると、彼女は嬉しそうに花冠を自分の頭に乗せました。
どこまでも穏やかで、幸福な家族の情景です。
わたしは、この愛しい子どもたちを守るためなら何でもできると思いました。
「シャル」
背後から呼ばれ、振り返ると、貴族服を完璧に着こなしたレインハルト様が歩み寄ってくるところでした。
彼は自然な動作でわたしの腰を抱き寄せ、その頬に軽く口づけを落とします。
「パパ!」
イリスが満面の笑みでレインハルト様の足に抱きつきました。
彼は子どもたちの中でも特にパパっ子なイリスをひょいと抱き上げ、優しい父親の顔で微笑みます。
彼は愛する我が子たちであっても、わたしが彼らに気を取られる時間を惜しんでいるような、そんな危うさがありました。
年齢を重ねても少女のようなあどけなさが抜けないと彼が執着するこの姿を、レインハルト様は少し危うげに見つめています。
その視線は、まるで美しい蝶を標本にして永遠に閉じ込めておきたいと願う少年のように、純粋で残酷な色を帯びていました。
いつまでもこんな日が続けばいいのにと、わたしは彼の肩にそっと寄り添いました。
彼もまた、空いた片腕でわたしを強く抱き寄せ、髪に顔を埋めて深く息を吸い込みます。
「ずっとこの平和が続けばいいと、心から思うよ」
彼がそう呟いた、まさにその時でした。
庭園の入り口から、足早にこちらへ向かってくる年配の侍女の姿が見えました。
そのただならぬ空気に、わたしは思わず背筋を伸ばします。
穏やかだった春の空気が、ふっと冷たくなったような気がしました。
「旦那様、申し訳ございません。お寛ぎのところを失礼いたします」
侍女は深く頭を下げると、銀の盆に乗せられた一通の書状を差し出しました。
重厚な封蝋には、王家の紋章が深く刻まれています。
「王城から、早馬による急使が参りました」
レインハルト様が書状を受け取ると、今までわたしに向けていた甘く蕩けるような空気が一瞬にして消え去りました。
そこにあるのは、冷徹な筆頭公爵としての、研ぎ澄まされた氷のような横顔です。
イリスをそっと地面に下ろし、彼は無言のまま素早く封を切りました。
静かな庭園に、紙の擦れる音だけが異様に大きく響き渡ります。
彼は書状から目を離し、静かに息を吐きました。
その横顔はひどく険しく、瞳の奥には冷たい計算の光が瞬いています。
「ノルディアが、陥落したそうだ」
その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要しました。
ノルディア王国はシルバード王国と同盟関係にあり、魔導国家ベルツと交戦中だったはずです。
「敗戦……」
二年前、ジュリアン王太子崩御という知らせのあと、急激に戦況が悪くなっていたのは知っていました。
穏やかだった春の陽射しが急に遠ざかっていくように感じられ、ぎゅっと手を握りしめるわたしに、レインハルト様は何かを考え込むような、酷く静かな視線を向けていました。
わたしを閉じ込めていた甘く美しい黄金の檻のすぐ外まで、暗く冷たい時代のうねりが迫っていたのです。




