第23話 魂が満ちる
光が弾けた後、山脈には深い静寂が戻っていた。
辺りに、異端審問官や騎士たちの姿はない。彼らは、顕現した守護竜の圧倒的な力の前に、塵となって消滅するか、恐怖にかられて霧散したのだ。
アリアの意識は、深い海の底のような暗闇の中にあった。
そこは、彼女がよく知る場所。
何もない『空虚』という名の空間。
自分の命をライオスに注ぎ込み、魂の器が空っぽになったことで、彼女は再びこの冷たい無重力空間へと落ちていた。
(ああ、これでいい……)
アリアは、薄れゆく意識の中で安堵していた。
自分の命は、彼の中で燃え続けている。彼を生かすための力になれた。
もう、苦しみもない。喜びという名の毒に怯えることもない。
このまま、静かに消えていけば——。
だが。
その永遠とも思える静寂を、暴力的な熱が引き裂いた。
「——ッ!?」
アリアの魂が、ビクリと震える。
空っぽだったはずの器に、何かが逆流してきたのだ。
それは、ライオスに繋がる『魂の刻印』のパスを通って、雪崩れ込んできた。
熱い。痛いほどに、熱い。
それは、清浄な聖女の祈りといったも質のものではない。
重く、炎のように激しく、そして強い生の味がするほどに生々しい、他者の感情の塊だった。
『アリア』
『死なせはしない』
『俺の傍にいろ』
『生きろ』
声が、直接脳髄に響く。
ライオスの声だ。
耳から届く聞く言葉ではなく、彼の魂が叫ぶ渇望そのものだった。
(やめて……私の中に入ってこないで……!)
アリアは本能的に拒絶しようとした。
幸福や喜びといった正の感情は、彼女にとって毒でしかない。
異物が入り込めば、身体が拒絶反応を起こして苦しむことになる。
だが、流れ込んでくるライオスの強烈な感情は、アリアの拒絶を許さなかった。
かつてアリアが恐れた、キラキラとした幸福とは質が全く異なる。
ライオスが抱える、底なしの執着。
アリアを失うことへの根源的な恐怖。
そして、アリアという存在そのものを慈しみ、何としても守り抜こうとする、狂おしいほどの愛。
それらはあまりにも重く、濁り、圧倒的に人間臭い感情だった。
(毒じゃ……ないの?)
アリアは、驚愕した。
流れ込んでくる感情は、アリアの空虚な心を満たしていくが、いつものような吐き気や痛みをもたらさない。
なぜなら、それは濾過された綺麗な感情ではなかったからだ。
ライオスの愛は、綺麗事では済まされない。泥と血に塗れた『生への執着』そのものだった。
そのドロドロとした熱量が、アリア自身の抱える『絶望』や『空虚』と奇妙に噛み合い、混ざり合っていく。
『愛している』
『お前が空っぽなら、俺の全てで埋めてやる』
ライオスの魂が、アリアの魂を侵食していく。
いや、これは侵食と呼べるものではない。
アリアが彼に命を捧げ、彼がその命でアリアを想う。
二人の魂の境界線が溶解し、互いの欠落を埋め合うように循環し始めたのだ。
聖女のシステムは、『一方的な犠牲』を強いるものだった。
聖女が穢れを吸い、幸福を失う。守護者が痛みを引き受ける。
だが、今ここで起きている現象は、その理を完全に逸脱していた。
アリアの命がライオスを癒やし、ライオスの愛がアリアを満たす。
それは、世界が定めた『搾取のシステム』を、二人の愛が凌駕し、上書きしたのだ。
(……ああ)
暗闇だったアリアの世界が、夕陽に染められた草原のように金色に染まっていく。
温かい。
これが、満たされるということなのか。
誰かに必要とされ、誰かを必要とする。
その魂の重みが、アリアを現世へと繋ぎ止める。
アリアは、流れ込んでくるライオスの感情を拒絶しなかった。
むしろ、渇いた砂が水を吸うように、その全てを貪欲に飲み干していった。
彼の愛が、私の命になるのなら。
私の全てで、彼を受け入れよう。
「……ん……」
アリアの唇から、小さな吐息が漏れた。
重いまぶたを開けると、そこには見慣れた、けれどどこか違う、金色の瞳があった。
「気がついたか」
ライオスが、アリアを抱きかかえていた。
彼の身体を覆っていた金色の鱗や、背中の翼は消えている。
だが、その左鎖骨の刻印は、以前の黒色ではなく、鮮血のように鮮やかな赤金色に輝き、脈打っていた。
「ライオス……あなたの、傷は……」
アリアは、震える手で彼の頬に触れた。
あれほど酷かった出血が止まり、顔色には生気が戻っている。
一方で、アリア自身の身体は、指先一本動かせないほどに重く、気だるかった。命を分け与えた反動だ。
「お前のおかげで、拾った命だ」
ライオスは、アリアの手を自分の頬に押し当てた。
その体温が、アリアの中に流れ込んでくる熱の正体だと再確認する。
「無茶をしやがって」
岩陰からグレイが顔を出した。彼もまた、安堵の表情を隠せていない。
「魂を燃料にして守護竜を顕現させるとはな。教会の連中も、肝を冷やしただろうよ」
グレイは、ライオスの刻印を指差した。
「おい、見ろよ。刻印の色が変わってるぞ」
「……ああ」
ライオスもまた、自身の変化に気づいていた。
「痛みが……変わった。以前のような、命を削る鋭い痛みではない。アリアの鼓動が、俺の中で響いているような感覚だ」
「私も、同じです」
アリアは、自分の胸を押さえた。
そこには、かつての冷え切った空洞感はない。
ライオスの強く、激しい鼓動が、自分の心臓が奏でる拍動と重なって聞こえる。
「あなたの感情が……私の中に流れてきます。熱くて、重い……あなたの想いが」
グレイは、興味深そうに二人を観察し、ニヤリと笑った。
「こいつは驚いた。『魂の融合』の前兆か? ……一方通行だったパイプが、双方向の循環回路に書き換わったってところだな」
「循環……」
「そうだ。お前らはもう、個別の生命体じゃねえ。二つの身体で一つの命を回している」
グレイは、肩をすくめた。
「おめでとう、聖女様、守護者様。あんたらの愛の力技が、教会の呪いをねじ伏せちまったようだ」
システムを上回る愛。
アリアは、ライオスを見つめた。
彼もまた、アリアを愛おしそうに見つめ返している。
魂が繋がっている今、言葉を紡がなくとも、互いの想いは鮮明に伝わってくる。
(彼が、私を愛している)
(私が、彼を愛している)
その確信だけが、今の二人を支える絶対的な真実だった。
「立てるか、アリア」
「……はい」
ライオスに支えられ、アリアは立ち上がった。
足元はふらつくが、不思議と力は湧いてくる。
ライオスの生命力が、アリアを支えているのだ。
周囲の霧が晴れ、目の前には、天を衝くような巨岩が連なる『嘆きの山脈』の核心部が姿を現していた。
そこから漂う穢れの濃度は、これまでの比ではない。
だが、アリアの中に怯えはもうない。
彼女の中には、決して消えることのない『金色の灯火』が灯っているのだから。
「行こう。魔物王のもとへ」
ライオスの言葉に、アリアは力強く頷いた。




