第24話 深淵に触れて
『嘆きの山脈』の最奥部は、この世の理が崩壊した異界そのものだった。
足を踏み入れるたび、世界から彩度が失われていく感覚に襲われる。
岩肌は、純度の高い穢れが高熱で溶解した後、急激に冷え固まったかのように、ねじれ、歪み、ガラス質の不気味な光沢を放っている。それらは時折、苦悶の表情を浮かべた人の顔のようにも見え、アリアは眼前に広がる光景に恐怖を覚えた。
風が吹くたびに、ヒュオオオと、耳鳴りのような音が響く。
この空間に染み付いた、数百年分の嘆きが、風切り音となって鼓膜を震わせているのだ。
「……ったく、ひどい磁場だな」
狂ったように回転する方位磁石を懐にしまい、グレイが顔をしかめた。
「空間そのものが『怨嗟』で歪んでやがる。真っ直ぐ歩いているつもりでも、気を抜けば崖下へ誘導されそうだ」
三人は互いの身体をロープで繋ぎ、一歩ずつ慎重に進んだ。
目指すは、山頂付近に見える巨大な岩塊。
かつては神聖な祭殿だったと思われるその場所は、今では黒い茨のような結晶に覆われ、変わり果てていた。
魔物王の玉座。
あるいは、世界の穢れを引き受ける、ゴミ捨て場の蓋とでも表現するのが良いだろうか。
近づくにつれ、空気の粘度が増していく。
呼吸をするたびに、肺の中に直接穢れを流し込まれるような重苦しさ。
だが、アリアは完全に足を止めることはない。
彼女の中にある『金色の灯火』が、外圧に抗うように熱を放ち、彼女の身体を内側から支えている。
しかし——。
「ぐ……ッ!」
先頭を歩いていたライオスが、突如として足を止め、岩場に膝をついた。
肉体的な疲労ではないようだ。
まるで、見えない巨大な杭で、魂を地面に縫い付けられたかのような崩れ方だった。
「ライオス!?」
アリアが駆け寄る。
顔色は、先ほどの戦闘後よりもさらに蒼白で、脂汗が滝のように流れていた。
瞳孔が激しく収縮と拡大を繰り返し、焦点が定まっていない。
「……頭が……割れる……」
ライオスは、自身の頭を抱え込み、うめき声を上げた。
「声が……聞こえる……。無数の、怨嗟の声が……」
アリアは、ハッとして彼の刻印を見た。
先ほど、アリアとの絆で赤金色に変わったはずの刻印が、今はドス黒い瘴気に侵食され、痙攣するように小刻みに脈打っている。
「共鳴しているのか」
グレイが、ライオスの背中に手を当て、簡易的な精神防壁の術式を展開しながら言った。
「やはりか。魔物王と、こいつの波長が近すぎる」
「波長が……?」
「ああ。魔物王は、穢れの集合体だが……その核にあるのは『守護者の絶望』だ」
グレイは、歪んだ風景を見渡した。
「かつて聖女を守れなかった者。あるいは、聖女と共に堕ちた者。……ライオス、お前と同じ『竜人族の因子』が、この空間には満ちている」
ライオスの身体が、ガタガタと震え始めた。
彼の脳内に、彼のものではない記憶と感情が流れ込んでくる。
『なぜ、死なせた』
『なぜ、救えなかった』
『俺の命など、くれてやるつもりだったのに』
『返せ。あの方を返せ』
それは、過去にこの場所で散っていった、数多の守護者たちの無念。
愛する者を守りきれず、世界を呪いながら魔物へと堕ちていった同胞たちの、成れの果て。
彼らが、ライオスに呼びかけているのだ。
『お前も同じだ』
『お前も結局、彼女を死なせることになる』
「……違うっ!」
ライオスは、見えない亡霊を振り払うように叫んだ。
「俺は……アリアを!」
だが、彼の『生の執着』が強ければ強いほど、魔物王の『死への誘い』もまた強く作用する。
光が強ければ影が濃くなるように。
ライオスの魂が、内側から引き裂かれようとしていた。
「ライオス、しっかりして!」
アリアは、彼の顔を両手で包み込んだ。
冷たい。まるで死人のように冷え切っている。
アリアは、自分の中にある『金色の熱』を、掌を通して彼に伝えようとした。
「私を見て。……私はここにいるの。生きて、あなたの目の前にいる!」
アリアの声が、轟音のような耳鳴りを裂いて、ライオスの耳に届く。
虚ろな瞳を彷徨わせ、ようやくアリアの姿を捉えた。
「ア……リア……」
「そうです。私は死んでいません。あなたを死なせもしません」
アリアは、ライオスの目を真っ直ぐに見つめ、力強く告げた。
「あの声に耳を貸さないで。あなたは、過去の誰かとは違う。あなたは、私を選んでくれた、たった一人の『ライオス』なのです」
アリアの言葉と体温が、楔となってライオスの意識を現実に繋ぎ止める。
彼女から流れ込む生命力が、刻印の黒い浸食を押し返し、再び赤金色の輝きを取り戻させる。
「……すまない」
ライオスは、荒い息を吐き出しながら、アリアの手に自分の手を重ねた。
「……油断した。奴の『絶望』は、俺の古傷をこじ開けに来る」
「立てますか?」
「ああ。お前がいる限り、俺は折れない」
ライオスは、剣を杖代わりにして立ち上がった。
その瞳は、再び強い意志の光を宿していたが、同時に、これから対峙する存在への底知れぬ警戒心も混じっていた。
彼自身の影と戦うようなものなのだ。
「着いたぞ」
グレイが、前方を指差した。
歪んだ岩場を抜けた先に、それはあった。
古代の遺跡——かつては白亜の神殿だったであろう場所。
だが今は、黒い触手のような植物に覆われ、柱は折れ、屋根は崩落している。
その入り口である巨大なアーチの奥からは、この世のものとは思えない、濃密な瘴気が吐き出されていた。
世界という巨大な生物が大きく口を開け、腐臭を放っているかのような光景。
「魔物王の寝所だ」
グレイが、緊張を含んだ声で言った。
「ここから先は、俺の結界も役に立たねえ。……アリア、準備はいいか」
アリアは、懐の『共鳴杖』を握りしめた。
杖の先端にある結晶が、周囲の瘴気に反応して、チカチカと警告するように明滅している。
怖い。
足が竦むほどの恐怖がある。
この中に入れば、自分の精神が砕け散るかもしれないという予感が、肌を刺すように伝わってくる。
だが、隣にはライオスがいる。
彼もまた、同胞たちの怨嗟の声と戦いながら、それでもアリアを守るために剣を構えている。
そして後ろには、いつでも冷静に状況を分析し、自分たちのことを慈しみながら手を貸してくれるグレイがいる。
一人ではない。
アリアは、大きく息を吸い込んだ。
肺に入ってくる腐敗した空気でも、彼女の意志を汚すことはできなかった。
「行きましょう」
アリアは、一歩を踏み出した。
ライオスがその横に並び、グレイが続く。
三人は、歪んだ風景の中心、世界の呪いの源泉へと、吸い込まれるように進んで行く。
その背中を、山脈に響く風の音が、弔いの歌のように見送っていた。




