第21話 見えざる鎖
山脈に足を踏み入れると、空気の質が一変した。
肌にまとわりつく湿気は、重く粘っこい臭気を孕んでいる。視界を遮る濃霧の奥からは、得体の知れない生物の呻き声が反響し、方向感覚を狂わせた。
三人は、警戒を最大レベルに引き上げながら、岩場を慎重に進んでいた。
先頭を行くライオスは、剣を抜き放ったまま、周囲の気配を探っている。アリアはその背中を守るように続き、最後尾のグレイは頻繁に方位磁石と魔力計を確認していた。
「……おかしいな」
数刻ほど歩いたところで、グレイが足を止めた。
「磁場が乱れてやがる。それに、さっきから妙な視線を感じる」
「魔物か?」
ライオスが問う。
「いや、もっと理性的で……粘着質な視線だ。俺たちの居場所が最初から分かっているような」
その言葉が終わるか終わらないかの刹那だった。
ヒュオッ!!
風切り音と共に、暗闇から数条の光の矢が飛来した。
ただの矢ではない。高密度の魔力が凝縮された、処刑用の『聖光矢』だ。
「伏せろッ!」
ライオスが叫びざま、アリアを抱え込んで地面に転がる。
直後、彼らが立っていた岩盤が、轟音と共に爆ぜ飛んだ。
「チッ、聖魔法かよ! 魔物王の庭で派手にやりやがる!」
グレイが岩陰に滑り込みながら悪態をつく。
霧が晴れるように、襲撃者たちが姿を現した。
岩場の上に立つ、五つの人影。
彼らは、以前遭遇した聖騎士や傭兵とは明らかに異質な存在だった。
全身を覆う深紅の法衣。顔を隠すのっぺりとした鉄仮面。手には、異端者を狩るための長大な鎌や、鎖付きの鉄球が握られている。
アリアは、その姿を見て息を呑んだ。
「……異端審問官」
教会の闇の執行部隊。
表向きの治安維持ではなく、教会にとって都合の悪い存在を処理するためだけに存在する、殺戮の専門家たちだ。
彼らが動いたということは、教会がアリアたちを捕獲ではなく、抹殺対象として認定したに等しい。
「『異端の聖女』アリア。そして、『竜人の冒涜者』ライオス」
先頭に立つ審問官が、鉄仮面の奥から抑揚のない声を響かせた。
「神の秩序を乱す罪人よ。ここで裁きを受けるのだ」
問答無用。
審問官たちが、人間離れした跳躍力で襲いかかってくる。
「アリア、離れるな!」
ライオスが剣を振るい、迫り来る大鎌を受け止める。
火花が散り、重い金属音が山脈に響く。
だが、敵はライオス一人に集中しなかった。
二人の審問官がライオスを巧みに牽制し、残りの三人が、アリアの動きを予知しているかのように、彼女の逃げ道を塞ぐように展開したのだ。
「なんで……!」
アリアは愕然とした。
この濃霧と瘴気の中、視界はほとんど利かないはずだ。
それなのに、彼らはアリアの位置だけでなく、呼吸の乱れや、ライオスとの距離感まで正確に把握し、連携して追い詰めてくる。
「そこだ!」
死角から飛んできた分銅が、アリアの足を狙う。
咄嗟にグレイが投げた爆裂瓶が空中で炸裂し、分銅の軌道を逸らした。
「ぼさっとするな、聖女様! 奴ら、目じゃなくて『魔力』で見てやがる!」
グレイが叫ぶ。
「いや、それだけじゃねえな。こっちの動きが筒抜けすぎる! どうなってやがるんだ。俺たちの懐に発信機でも入ってるみてえだ!」
発信機。
その言葉に、ライオスの動きが一瞬鈍った。
その隙を突き、審問官の短剣がライオスの脇腹を掠める。
「ぐっ……!」
ライオスは痛みに顔を歪めながらも、蹴りで敵を吹き飛ばし、アリアの元へ戻った。
「退くぞ! ここでは分が悪い!」
ライオスは金色の闘気を爆発させ、目くらましの衝撃波を放つと、アリアとグレイを連れて岩場の裂け目へと飛び込んだ。
複雑に入り組んだ洞窟のような地形を利用し、必死に追手を撒く。
しばらく走り続け、狭い横穴に身を潜めた時、三人はようやく荒い息を吐き出した。
「……何とか、撒いたか」
ライオスが剣を収め、壁に背を預けて座り込む。
脇腹の傷からは血が滲み、刻印の代償による消耗も限界に近い。
「だが、時間の問題だ」
グレイが、険しい表情で外の気配を探っている。
「奴らの動き、異常だったぞ。この複雑な地形、しかも魔物王の瘴気が充満する中で、俺たちをピンポイントで追跡してきやがった」
アリアは、震える手で水筒をライオスに渡しながら、口を開いた。
「……イザベラが」
「あ?」
「イザベラが、拷問を受けて……私たちの居場所や、目的を……」
アリアの声は、罪悪感に満ちていた。
聖都に残ったイザベラが捕らえられ、自白剤や過酷な拷問によって、情報を吐かされたのではないか。
私が彼女を巻き込んだせいで。
「それはねえよ」
グレイが即座に否定した。
「あいつと俺は旧知の仲だ。簡単に口を割るような奴じゃねえ。それに、あのシスターが知っているのは、地下水道の出口までだ。俺たちの目的地が『嘆きの山脈』だなんて話は、この旅の途中で決まったことだ。知る由もねえ」
「で、では……」
「考えられる可能性は二つだ」
グレイは、ライオスに視線を向けた。
「一つは、教会内部に俺たちの動きを完全に把握できる『予言者』のような能力者がいるか。……あるいは」
グレイは言葉を切り、ライオスの魂の刻印を指差した。
「そいつだ」
ライオスが、ハッとして自分の胸元を押さえた。
「その刻印、ただ命を削る契約印じゃねえかもしれん。教会が、聖女の守護者を管理するための『首輪』だとしたら? お前の位置情報、身体状態、あるいは周囲の音声まで、リアルタイムで教会に送信されている可能性がある」
アリアは息を呑んだ。
もしそれが真実なら、どれだけ逃げても、どこに隠れても無駄だということになる。
ライオスがアリアを守ろうとすればするほど、その契約の証が、アリアを追い詰める標的になるのだ。
「……あり得る話だ」
ライオスは、苦々しげに認めた。
「竜人族は、古来より教会に従順ではなかった。奴らが俺たちを信用せず、監視するための枷を埋め込んでいたとしても、不思議はない」
「冗談じゃねえぞ」
グレイが毒づく。
「俺たちは、発信機をぶら下げて敵陣に突っ込もうとしてるってわけか。……どうする? その刻印、俺が無理やり剥がしてやろうか? 命の保証はしねえが」
「……断る」
ライオスは即答した。
「この刻印は、アリアとの『魂の共有』の証だ。これを失えば、アリアが魔物王と対峙した時、精神のバックアップができなくなる」
「だが、このままじゃだな!」
「構わん。敵が来るなら、斬るだけだ」
ライオスの瞳には、狂気にも似た覚悟が宿っていた。
「たとえ全世界が敵に回ろうと、教会の監視があろうと、俺はアリアを魔物王の元へ送り届ける。……それが、俺の『意志』だ」
アリアは、ライオスの手を取った。
彼が首輪ごと運命を受け入れようとしているなら、自分もまた、その覚悟に応えなければならない。
「行きましょう」
アリアは、震えを押し殺して立ち上がった。
「監視されているなら、逆に利用しましょう。私たちが逃げ回る獲物ではなく、喉元に喰らいつく獣だと、教会に思い知らせてやるのです」
洞窟の外では、再び異端審問官たちの足音が、死神の足音のように近づいてきていた。
三人は休息を切り上げ、より深く、より暗い山脈の奥へと走り出す。
見えない鎖に繋がれたまま、それでも自由を掴み取るために。




