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聖女はまだ幸福を知らない  作者: 空‐kuu‐


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第20話 未来を生きるために

 麓に辿り着いた頃には、太陽は完全に沈み、世界は漆黒の闇に包まれていた。

 ここから先は、通常の生物が生存できる領域ではない。

 地面からは絶えず瘴気が噴き出し、岩肌は穢れの影響でガラス化し、黒紫色に輝いている。風の音さえも、死者の啜り泣きのように耳にまとわりつく、正真正銘の死地だ。


 三人は、風雨を凌げる岩陰を見つけ、野営を行うことにした。

 ここが、人間界との境界線。

 明日からは、いよいよ魔物王の領域へと侵攻する。


 ライオスが慣れた手つきで結界石を配置し、最低限の焚き火を熾す。

 その炎の色でさえ、ここの空気中では心なしか青ざめて見えた。


「さて、と。……飯にする前に、少し頭を使ってもらうぞ」


 グレイが、背負っていた荷物を地面に下ろし、中身を広げ始めた。

 出てきたのは、食料や水だけではない。

 見たこともない形状の金属部品、複雑な紋様が刻まれた銀の杭、そして数本の試験管に入った発光する液体。

 移動工房のような光景に、アリアは目を丸くした。


「これは……?」

「魔王討伐のための『特注品』だ。この日のために、俺が心血注いで作り上げたガラクタ共さ」


 グレイは、その中から一本の短い杖を取り出した。

 柄の部分は無骨な鉄製だが、先端には、『穢れの結晶』を透明な樹脂で加工したものが埋め込まれている。

 だが、その結晶は黒くはない。

 内側から淡い光を放つ、透き通った灰色をしていた。


「『共鳴杖(レゾナンス・ロッド)』だ。……アリア、これを持て」


 アリアは言われるままに杖を受け取った。

 ずしりと重い。だが、不思議と手に馴染む感覚があった。

 杖を握ると、先端の結晶が、アリアの鼓動に合わせて明滅を始めた。


「反応は良好だな」

 グレイが満足げに頷く。

「その結晶は、俺が何年もかけて『還元処理』を施した穢れの成れの果てだ。毒を抜いて、純粋なエネルギーの器に戻してある」


「エネルギーの、器……」


「そうだ。いいか、今回の作戦の肝は、『干渉』と『逆流』だ」

 グレイは、地面に指で図を描き始めた。

 それは、魔物王を表す巨大な渦巻きと、そこに向かうアリアを示す小さな矢印の図だった。


「魔物王は膨大な穢れを吸い込み、それを『死のエネルギー』として保持している。いわば、巨大なダムだ。普通に攻撃しても、穢れというダムの水が溢れ出すだけで、本体には傷一つつかねえ」


 ライオスが、焚き火に薪をくべながら口を挟む。

「だから、俺の剣も魔法も通じないというわけか」


「ああ。奴を殺すには、ダムの水そのものを蒸発させるか、質を変えるしかねえってわけだ」

 グレイは、アリアの持っている杖を指差した。


「その杖は、あんたの精神(イメージ)を増幅するアンテナだ。あんたが『生きたい』と願うその意志を、杖を通して魔物王の(コア)に叩き込む。そうすりゃ、奴の中で固定化されていた『死のエネルギー』が、強制的に『生のエネルギー』へと還元され、暴走する」


「暴走……ですか?」


「ああ。奴の身体を構成する穢れが、自分自身を維持できなくなって崩壊するんだ。……内部から食い破る、と言ってもいいな」


 アリアは、手の中の杖を握り締めた。

 自分の意志が、それほどの破壊力を持つ武器になるということが、完全には信じられなかった。

 だが、街で子供を救った時の感覚。穢れが光に変わっていくあの感覚を思い出せば、グレイの理論は腑に落ちるものがあった。


「ただし」

 グレイの声色が、一段低いものに変わった。

「リスクについては、もう一度念を押しておくぞ。これは脅しじゃねえ。事実だ」


 実験用の保護眼鏡を外し、素顔の瞳でアリアを見据えた。その瞳は、研究者としての狂気ではなく、娘を失った父親としての、深い憂慮が宿っていた。


「魔物王の核と精神を繋げるということは、奴の抱える数百年分の『絶望』と『怨嗟』が、あんたの脳ミソに直接流れ込んでくるってことだ」


 数百年分の、世界中の人々の絶望。

 聖堂で吸い込んでいた『濾過された穢れ』とは訳が違う。

 原液の、剥き出しの地獄だ。


「あんたが少しでも『死にたい』とか『もういいや』とか思っちまったら、その瞬間にアウトだ。あんたの自我は消滅し、魔物王の新しい核として取り込まれる」


「……取り込まれたら、どうなるのですか」


「永遠に、死ぬこともできず、世界を呪い続けるだけの存在になる」

 グレイは無慈悲にはっきりと告げた。

「そうなっちまったら、もう俺にも、そこの守護者様にも救えねえ。……ライオス、その時はどうする?」


 話を振られたライオスは、焚き火から視線を上げ、アリアを見た。

 その瞳は、静かで、澄み切っていた。


「その時は、俺がアリアごと魔物王を斬る」

 迷いのない、即答だった。

「彼女を怪物になどさせるか。魂ごと消滅させるのが、俺にできる最後の守護だ」


 残酷な言葉だった。

 だが、アリアには、それがライオスなりの究極の救済であることが痛いほど分かった。

 彼に『愛する女を殺させる』という、最も辛い業を背負わせてしまうことになる。

 それだけは、絶対に避けなければならない。


「そんなことは、させません」

 杖を強く握り直し、ライオスを見返した。

「あなたに、そんな悲しい役目は絶対にさせません。私は、必ず戻ってきます」


「ああ。信じている」

 ライオスは、微かに口元を緩めた。

 そこには、以前のような『生の強制』ではなく、対等なパートナーとしての信頼があった。


「ケッ、当てられねえな」

 グレイはわざとらしく肩をすくめ、照れ隠しのように別の道具を取り出した。

 銀色の装飾が施された、数本の杭だった。


「こいつは『結界杭(パイル)』だ。ライオス、お前はこれを魔物王の周囲に打ち込め。アリアが精神干渉を行っている間、奴の動きを多少は封じられるはずだ」

「……承知した」

「俺は後方から、アリアの精神波長をモニタリングして、危なくなったら強制的にリンクを切断する術式を展開する。……まあ、成功率は五分五分だがな」


 三人は、それぞれの役割を確認し合った。

 アリアは『触媒』として核を討つ。

 ライオスは『盾』としてアリアを守る。

 グレイは『頭脳』として場を支配する。


 誰か一人が欠けても、この作戦は成立しない。

 かつて、聖都から逃げ出した時は、ただの『逃亡者』と『誘拐犯』だった。

 だが今、焚き火を囲む三人の間には、確かなチームとしての絆が生まれていた。


 旅のムードは、完全に変わっていた。

 恐怖に怯え、追手から隠れるだけの旅ではない。

 理不尽な運命に立ち向かい、自らの手で未来を勝ち取るための『戦いの旅』だ。


「よし、飯にしようぜ」

 グレイが、保存食の包みを解いた。

「最後の晩餐にならねえように、味わって食えよ」


 アリアは、渡された干し肉を口にした。

 塩辛く、硬い。

 だが、昨日の黒パンよりも、ずっと美味しく感じられた。

 それはきっと、この先に『生きる』という明確な目標があるからだ。


 夜空を見上げると、黒雲の切れ間から、一つだけ星が見えた。

 アリアは、その星に、聖都に残してきたイザベラの姿を重ねた。


(見ていてください、イザベラ)

(私は、生きます。あなたに託されたこの命で、世界を変えてみせます)


 アリアの胸元で、グレイから渡された『共鳴杖』の結晶が、彼女の決意に呼応するように、淡く、力強い光を放っていた。


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