Session.36 Always Hard luck
調に一発見舞った時の手の感触が、まだ有亜の心に重くのしかかっていた。
あの時は、調に殴られた。
時が巡って、今度は調を殴った。
誰かを殴ったことなんて、これまで一度もなかった。
(こんなことになったのも、全ては私のせいなんだ)
有亜は、あの静寂の誘惑に抗えなかった自分自身を深く恥じた。
今だから分かるが、まさにあれが島沢久米次の本性なのだろう。
人々に音楽を愛好する気持ちをたきつけておいて、後々で彼らの音色を奪うための準備にしている。調が絶望してしまう気持ちも今の有亜にはよくわかった。
そして狂騒も、静寂の目的を果たすことに最初何の疑問も抱いていなかった。だが時間が経ち、ポラリスの前に再び現れた狂騒は、もう最初の狂騒とは別人になっていた。
ミューノイズの戦いは、まだ終わる様子が見えない。
「一人で悩んでないでよ、有亜」
倉香が隣に座り、独り言のように。
「私、弱かったよ。調みたいに、戦い抜けるような強さなんて、これっぽっちもない」
「有亜だけが悩むことじゃないよ。私たちもあいつらに操られてたんだからさ」
盤子がうなずく。
「でも……調を二度も傷つけてしまったのは、私に責任がある」
しかし鼓が、
「そんなことしたら、有亜だって音色を吸われていたかもしれない。もう、それしか道はなかったんだ」
「でも、そうしたせいで私はミューノイズの手先になってしまった」
有亜に、静寂と狂騒の提案をはねのける選択肢などなかった。
するとそこに男子の声がした。
「調のことが本当に好きなんだな」
紀田が腕を組みながら、入り口によりかかりながら。
「お前らは調をそんなにあてにしているのか?」
憤る倉香。
「当たり前じゃん! 私たちが調を信じなくて、誰が調を信じるんだよ!」
「俺は調にそこまで入れ込んではいないけどな。だって、調は、音代の中ではそこまで目立った戦いをしてたわけじゃない」
「そりゃ、そうだけどさ!」
「まあ、他の音代が強敵のミューノイズを倒したことはいくらでもあるしね。児玉町で軸実さんが大型を倒したこととか、鳧鐘町で箏真さんが三体撃破したこととか」
篳篥から聞かされた話を繰り返す紀田。
「でも、調にしか弾けない音色は確かにある。それは調の心にずっと昔から宿っていたオリジナルのものだよ」 続けて倉香は、
「それに、久米次さんにとって調ってのは割と印象に残ってる人なわけでしょ。サインとか書いてあげたくらいなんだし」
鼓はそこまで期待できなかった。
「島沢久米次にとって、調ってのは一人のファンじゃん。そこまで特別な存在じゃないんじゃない」
昼になってから、調が現れた。
ずっと見ていなかったこともあり、誰もが調の調子を心配していた。
調は、以前の調とは変わったようになっていた。
これまでも調は色々なことに巻き込まれていたとはいえ、それでも健気に乗り切っていた。しかし今回、調には相当なことが起きたぞ、と誰もが一目で実感できた。
戦場で心に傷を負って、変わってしまった人間みたいだったから。
「調、もう大丈夫?」
以前だったら、空元気で笑顔を見せていただろう。
だがもう調にその気力はなかった。それどころか、笑顔なんて見せるべきではないと考えていた。そうすれば不誠実だと思った。
調が音代であることは、少し前から知れ渡っていた。だがその時は、まだ音代の戦いが日常から離れた物であったから、大して本気にしてはいなかった。
だが都市伝説ではない、単なる事実だと分かってからは、なおさら調に対する周囲の目はいつの間にか期待に変わっていた。
「なあ、音代はどうしてるんだ?」
紀田は、悪寒がした。
「金手フェスから、ずっと被害が増えてるんだけど、どうしてるの?」
「俺の姉ちゃんも歌えなくなった……」
口々に叫び出した。
「黙っててないでさ! 私たちを助けてよ!」
調は一言も言わず、肩を震えさせている。そしてそれが、調の耐久力を越える前に、
「やめろよ。調は都合のいい救世主なんかじゃない!」
有亜は叫んだ。
「あんたたちが正義のヒーローなんかじゃないんだ! それなのに、勝手に期待して、失望して……何だと思ってんだよ」
彼らの身勝手な期待に、憤らずにはいられなかったのだ。
「調は打算抜きで私を助けてくれたの。あんたたちの分かってたまるか……!」
調は、何も言えなかった。
有亜がずっと思いを秘めていたことに、何も気づかずにいたことを恥じたのだ。
「私は、弱い。みんなが期待するようなすごい奴なんかじゃない。だって、私のお母さんもミューノイズに襲われたのを止められなかった」
誰もが驚いていた。
「正直……怖い。ざわめく静寂を倒すだけじゃ終われない。あいつらと、私たちをそそのかしている誰かに、この戦いの無意味さを伝えられるかどうか」
『そそのかしている誰か』という言葉で群衆がざわついた。
篳篥が言った。
「えっとね! 音代とミューノイズの両方に戦えって言っている人がいて、扇動しているらしいの!」
「そういうことを言ってるんじゃない! 調は今、本当に苦しんでるんだ!」
調の顔が次第にうつむいていった。
(戦いを終わらせるだけなら簡単だ。けどそれじゃ、この戦いを煽っている奴の鼻面を明かせない)
昼休みになって有亜はポラリスの部室に一人でこもった。
有亜は、じっと座り込んだ。
金手フェスから一か月が過ぎたが、もうそれが遠い昔のことのように思えた。
それなのに調との距離を、なかなか狭めることができずにいる。それどころか調は、あらゆることを自分で背負い込んで、みんなとの距離を一気に広げようとしている。
すぐ隣に、うるわしき狂騒が立っていた。
「……安心して。もう私には、あなたを害するつもりはないわ。ただ、ちょっとお話しがしたいだけなの」
ただ、穏やかだがどこかうつろな表情で有亜を眺めていた。
有亜は、一瞬恐怖を覚えたが、すぐに平静を取り戻した。もう彼に悪意がないことを見て取ったからだ。
轟音とフィナーレとの戦いとの後で会った時から、狂騒からはすでにそういう邪気が抜けていたが、こうして有亜と向き合っている時の狂騒は、もはやか弱さすら感じさせた。
「調を呼ばないの?」
「だったら最初からこんなとこに一人でいないよ」
自分の奥底を見透かされたような気がして、狂騒は口をゆがめた。
(もう私は、そこまで浅ましい存在になっていたのか)
初めて会った時の有亜は、もっと弱々しくて、自分の意志の脆い、嫉妬に苦しんでいた少女だったはずだ。そういう感性すら、摩耗したからだろうか。
「私、もうどうすればいいかわからなくなったの。もうこの戦いに意義は見いだせなくなった。それでも、ミューノイズとしての立場から離れるわけにもいかない。音代にも許してもらえない。もう、どうすればいいのかなって」
有亜は、黙って彼の話を聞いていた。
「どうやら私たちは、いい音楽を聴くために利用されていたみたいなの。これまでは、音代たちに私たちの活動を妨害されないために眷属を作り出して戦ってたけれど、それも含めて、あのお方の楽しみでしかなかったのね。滑稽だと思わない?」
狂騒は、ただ聞いてもらいたいだけだった。この途方に暮れた音色を。
しばらくして有亜は、言った。
「初めて会った時、京子さんはすごく怖ろしい存在に見えたけど、今では何というか、普通の人だね」
「普通なわけない。私は人間にとって恐ろしい怪物でしかない。今のあなたにとってもそう」
しかし有亜は、狂騒にとっては驚くほど平静を保っていた。
「怪物だったら、そんな風に自分を追い詰めたりはしないよ」
『あのお方』の声が降って来る気配はない。
きっと、このような苦悩も、彼にとっては楽しい音色でしかないのだろう。
「人間たちの世界に溶け込むつもりはないの?」
「今更そんなことをしても、信じてなんてもらえない」
有亜はごくか細い声で言った。
「……ありがと」
「は?」 それは、狂騒にとって完全に予想外
「私の力には少しだけミューノイズの要素が残存してたみたいなんだ。そのおかげで、私は調に音色を取り戻してあげることができたし、金手フェスの時も何とか、乗り切ることができた」
話すうち、有亜は少しだけ明るい声になった。
「やっぱり世の中って、何が良くて悪いのか、うまく決められないみたいだね」
「私に、そんな力が……?」
「私はあなたを許せないけど……でも、このことに関してだけは、あなたに感謝しないといけない」
有亜は、それでもミューノイズに心を許しきることなどできなかった。
「どうせ私たちは人間の敵。誰かを助けることなんてできはしない。たとえそう見えても、結局打算に過ぎない。空しく奏でるしか能のない生命体なの」
「それで後悔してきたんでしょ。旋律みたいに」
狂騒は、有亜に対して何も言えなかった。
「あんたと、ちょうど話がしたかったんだ」
そこにもう一人人間が現れた。
狂騒は、怯えた。しかし、彼は、かつての敵とは思えないくらいに、静かに、そしてぼやくようにささやいた。
「どいつもこいつも、私に勝手な欲望を押し付けるばかりで、私がどんなに苦しんでるか察してくれる奴はどこにもいない。でもひょっとしたら、あんたなら私と近い悩みを持ってくれているかもしれない」
「六条調……!」
狂騒は、調の声はやけに穏やかなことに恐怖を覚えた。
「ミューノイズの気配を音代が感じ取れないわけない。それに、ちょうどあんたと話がしたい所だったし」
狂騒は後ずさりした。しかし、調はそれ以上近づかなかった。
「私は、静寂を救いたい。そして、狂騒、あなたも」
「何ですって?」
「ずっと寂しかったんだよね? 人間としての体も捨てて、宇宙をさまよって、ただ音を吸い出すだけの生活なんて、つまらないじゃない」
「……私はそれで何十年も生きてきた。そこに疑問なんて感じたことがない」
「でも、それに疑問を感じるのが人間なんだよ。あなたたちは人間と触れ合って、少しでも影響を受けたんじゃない? こんな戦いの中であっても、全く理解できないことばかりじゃなかっただろう」
狂騒は、返答に窮していた。こういうことを言われるのが予想外でもあるかのようだ。
実際、予想外だった。目の前の少女は、自分を一番憎んでいたはずだ。
「私は、久米次さんが空しいまま音楽活動をしていたなんて思いたくない。きちんと、その喜びを取り戻してあげるべきじゃないんだと」
しかし調は、むしろ狂騒に対してすがったり、頼み込んだりするように、
「静寂と一緒にいたあんたなら、きっとできるはずじゃないかって」
「今更、無理よ。私は静寂の元から逃げ去ったし、また戻ったところで今度こそ始末される」
「だったら、一層私たちに協力しなよ。多分、そっちの方が楽だから」
狂騒は頭を抱えた。
(私にそんなことが? 無理だ!)
ずっと雑音をかきならして、音色を奪って来ただけの人間に、そんなことができるというのか。
(今更、私を、誰が求めてくれるんだ?)
その時、窓をよじ登るようにしてラッパを背負った影が這い来た。
「そんな……! 音楽を鳴らしてないのに!?」
「私の音色が――」
しかしこの程度の雑魚など、すでに調の敵ではなかった。
ギターを鳴らして生じた熱で、それはすでに蒸発していた。
「やめなよ。私を煩わせるのは」
狂騒は、じっと震えていた。
調は、狂騒が何を考えているかなどさして関心はなかった。狂騒に対して
「あの時のことさ、悪く思ってないから。だから、私たちに手を貸してよ。ミューノイズとか音代とかじゃなくて、奏でを愛する者として」
「私は……私は……!」
狂騒は何も言わず、逃げ出した。
調は言った。
「ごめん、の一言でも言えばいいのに」
紀田が駆け込んできた。
「二人とも、探してたんだぜ。次の授業が始まっちまうだろ」
「さっき『うるわしき狂騒』がいたからちょっと話をしてきたの。もうあの時の強敵って雰囲気は微塵もなかったね」
「……へ?」
調は、少しだけ笑顔を見せた。
「まあ、どうせ信じてくれないだろうけどさ。やっぱり私、ミューノイズを滅ぼすわけにはいかないと思う。そして、こんな所でめそめそしちゃいられない」
つい数時間前まではとてもしょげていた感じの調が、わりかし元気を取り戻したようだ。
完全に好調とはいかないが、
「大変そうだな」
紀田は呑気そうに言った。調のことを何でもかんでも分かっているわけではないのに、無理に分かろうとするべきじゃない。
「大変に決まってるでしょ」
つっけんどんに調。
「だってどいつもこいつも力を貸そうとしてくれないんだもん。私はただ、久米次さんをちゃんとした人間に戻してあげたいだけなのにな」
紀田は、彼の正体について篳篥から大方聞かされていた。それで、調がショックを受けるのも、大体わかった。しかし、完全に調に同調しているわけでもなかった。
「でもそれで本当にみんながまた受け入れてくれるようになるかな? そいつが本当に更生する見込みがあるのか? どっちにしろもう二度と音楽の道に入れてもらえないかもしれないんだぜ」
「それじゃ私が納得しない!」
調は自分自身に言い聞かせるように。
「私が、久米次さんを変えたいんだ。他の人がどう思うかなんて……そんなことについて考えられるほど配慮なんてしきれないって」
それは調のエゴだった。人々をミューノイズの脅威から守るのとはまた別の、戦う理由だった。
紀田は、調にとってはさほど思い入れのある人間ではなかった。
調は、率直に話すことにした。
「案外、ミューノイズも話が分かるってことだよ。いや、ミューノイズの方が話が分かるかもしれない。人間に話をするよりも、そっちの方が分かりやすい」
「そっか。じゃあ……頑張ろうぜ」
「えっ?」
調は、紀田の言葉が信じられず、思わず聞き返した。
「俺たち、心の中は一緒じゃなくて、目的は同じだろ? だから『頑張ってね』じゃなくて、『頑張ろう』なんだ」
「なるほどね。私はつまり、求められてるってことか。誰も私の内面なんて理解しないままなんだね」
「分からなくてもさ、同じ所を向くことができる」
(同じ所を向かせてあげることができるだろうか)
有亜は、調の顔を覗き込むようにしながら言った。
「何だか、調、元気になったみたい」
「別に? 元気じゃないよ。ハードラックだよ、私はいつだって」
紀田も、少し安心した。
「何言っているか分かんないけど……何だかいつもの調に近いみたいだな」
「よーし、じゃあ授業に戻るぞ!」 両手で挙げて叫ぶ調。




