Session.35 思い出は短調日和
鍵二から待ち合わせの連絡が来て、数日ぶりに調は外に出た。
有亜に叩かれた時の傷はまだ痛かったが、それでも家の中でふさぎ込んでいた時よりは遥かに気が楽だった。
「随分しょぼくれちまったな」
律真が言った。
「だって……あんなことがあった後じゃ、どうやったって元気出せるわけないじゃないですか」
「ふん、それもそうだな」
律真は、そっけない顔を気取りながらも、何となく気にかけている様子が否めなかった。
もう何度も協力して戦っている間に、律真はいつの間にか調に好感を持つようになっていた。彼自身がそれに驚いていた。
(俺が親しくするのは鍵二だけだと思っていたんだが。全く、一緒にいると疲れる奴らばかりだ)
それから弓刃と鍵二がやって来た。
「チャオ! 全然連絡がなかったから心配してたんだよ、調」
「いいです。要件は何ですか?」
「金手の全音代が集まって、ざわめく静寂を討伐する計画を立てているんだ」
それから、弓刃に向き直る鍵二。
「そう。私とお姉様がみんなに呼びかけたの」
「弓刃さんって、それだけの名声があったんですか?」
「私を誰だと思っているの? 鶴舞家の娘よ」
誇らしげに言う弓刃。
「すぐに人を集められるくらいのネームバリューはあるわ。私たちが、音代を指揮してミューノイズとの戦いに当たるわけよ」
鍵二が周囲を見回しながら言った。
「往来で話すにはちょいと不都合だな。場所を移そう」
五人が向かったのは鳧鐘町に位置するカフェテリアだった。
音楽は鳴っていない。いつ、ミューノイズに襲われるか分からないからだ。
食器が触れ合ったり水が流れたりする音だけが、寂しく聞こえている。
紐奈は、初めて訪れる場所の雰囲気らしく、やや落ち着かなかった。
「あの……弦奈さんは?」
「音代のみんなに連絡を取って、作戦の打ち合わせをするので忙しいの。調はあまり知らないかもしれないけど」
「こんにちは! 島沢久米次です! 大変なことになってるみたいですね~、……」
紛れもなく、静寂の声そのものだ。かつては勉強や進路で悩んでいる時、ラジオ番組で聞けるこの声に安心感を覚えたものだが、今では頭に血が上りそうになる。
こんな男にあこがれていたのかと思うと、調は再び腸が干からびそうになった。
「ざわめく静寂は、島沢久米次として音の台にあるスタジオで収録を行っている。そして、ミューノイズを配置して、人の音色を奪わせている」
調は、耳を塞ぎたくなった。あんなひどいことをしておいて、人間たちにはその素顔を隠しているのだから。
「あいつとの会話、思い出したくもないんですけど、……私と、音の台で何かをしたがってたみたいでした」
冷や汗をかく鍵二。
「音の台が決戦の場になる……ということか?」
「ああ。とはいえ、そこにはたくさんの観光客や労働者でごった返している。彼らを全て避難させるのは至難の業だ」
「その辺は私が何とかする。ミューノイズとの戦いは数よ。雑魚は何とかなるけど、どうやって静寂を倒すかだけど……」
調は、静寂に対する憎しみをはっきりと感じていた。これまでだったら、単に倒すべき敵として負われたかもしれない。
だが、今やその正体を知ってしまった今、調は静寂のことも、久米次のことも、冷静に考えられる状態ではなくなっていた。
素直にあこがれの人だと思って慕えた時期にもう戻れないことが、あまりにもどかしかった。
「私は、もうあの人の前で戦えると思えない……」
うつむく調。
「久米次さんが、ずっと、私のことを知っていたこと。そして、正体を隠していたこと。やっぱり許せない!」
不意に、声を荒げてしまった。そして、机を握りこぶしで叩いた。
調の心の傷をおもんぱかれば、誰一人軽々しく慰めの言葉をかけようとはしなかった。
(よっぽどだな……)
律真ですら、調の憤り方には気おされるものがあった。
「私は――どうすればいいんですか」
弓刃は、彼の心情をじっくりおもんぱかった後、静かに言った。
「音代としてではなくて、あなた自身として戦うのよ」
「私自身として……?」
「ずっと調のことを見てたんでしょう。なら、お互いのことをよく知っているはずよ」
「でもあの人は、ミューノイズじゃないですか。人間みたいな感情なんて元から持ち合わせてない」
鍵二が、
「旋律は違った。それに、狂騒も、段々人間の音色を奪うことに疑問を呈している。僕だって、彼らを最初は敵としか見ていなかったよ。怒りで戦ってた。けれど、今じゃただそれだけの存在じゃないだろ?」
憎んでいるだけでは、だめだ。
きちんと、問いたださなければならない。顔と顔を合わせて。
「調はあの人を絶対に許せない存在だとみなしているけれど、それはもしかしたら思い込みかもしれないじゃないか」
「あいつは、私が得た物をただの思い込みだと言った。そして、私が奏でた音色をただの肥しだって。あの野郎に少しでも、人間の部分があるなんて思えない」
紐奈はスマホの画面の中から調に話した。
「でも、旋律は、自分の音を奏でることができたじゃない」
「それは、たまたまだよ。ずっと、長い間他人の音色を盗んできた奴が今更やり方を変えられるわけないし……大体今更心を入れ替えた所で……」
「調が怒るのも分かるけどさ……あいつらも、結局あの誰だか分からない人の命令でやってるわけじゃない。ざわめく静寂だって好きでやってるとは言えないんじゃない?」
紐奈以外の人間が言ったら、まちがいなく大声で反論していた所だろう。しかし、ミューノイズである『さまよえる旋律』と何だかんだ共闘を重ね、少しずつ友情めいたものを固めてきた紐奈だからこそ、調はそう簡単に否定しきることができなかった。
「あいつは人間に対する理解はあっても共感はない。心を閉ざしちゃってるんだ。その心を開くのは、調しかいないと思う」
調の迷いは、なかなか晴れなかった。それを紐奈は、何としてでも打ち破りたかった。
「……そうよ。調として戦うのよ。音代としてではなくて、一人の人間として」
人間として戦う……。
ミューノイズを人間に引きずり落とすということか。
「私には、自信がありません」
しかし、誰も責めなかった。本当に勝てるのかどうか、誰にも分からないのだ。
「まあ、覚悟の準備をしておけってこった」
適当にまとめる律真。
「よし、食うぞ!」 元気を出す紐奈。
たらふく食べた紐奈は、歩くのがものういらしく光の粒子となって調のスマホの中に忍び込んだ。
「驚いたよ。まさか紐奈があんなに食べるなんて。無理すんなって言ったのに……」
紐奈は苦しそうな声を隠すのに必死だった。
「まあ、寝ようよ、今日は!」
「ただいまー!」
あの時心配させたおわびとして、元気に言った。しかし、いい返事は返ってこなかった。
台所の水が流しっぱなしになっていた。
「……お母さん?」
夢見は、立ったまま微動だにしない。そしてその目は虚ろに見開かれたまま、まばたきをする様子もない。
水を止めてから、間近に娘は母の顔を凝視した。そして、気づいてしまった。
頭を抱え、調は叫んだ。
久米次は、収録を終え、深く座席にもたれた。業界人として常に周囲の視線を意識している久米次は、仕事が終わったからといってすぐに気を抜くわけではない。ましてやミューノイズであり、実体としての身体を持たない彼は、そうやってオン・オフを切り替える必要など感じなかった。
だが、この時ばかり久米次はもたれずにはいられなかった。
「分かってるよ。こんなことしてる場合じゃないって」
一体、いつまでこんな生活を送れるのだろう。
ミューノイズは年をとらない。いずれ、適当な理由を作って、別の人間の皮膚をまって別の人間のふりをしなければならない。
このままでは島沢久米次という仮の姿を消し去り、六条調ともまた赤の他人として再会しなければならなくなるだろう。
静寂は、人間が年老いて死んでいくのが羨ましかった。人間に混じって暮らすと、こういうことに気を遣わねばならないのだ。
俺は、誰のようにもなれない――静寂は通りかかる人々を冷たく見回しながら、人間の音色を物色した。その時久米次は、誰にも分からない地味な服装をしていた。
ミューノイズは、誰が音楽センスを持っているかが直感で分かる。そして、その音色を吸い出すことに躊躇はない。
静寂は何の気もなしに目をつけた人間の首筋をひっつかみ、口の奥底から音色をしぼり出してそのまま倒した。
静寂は彼が持っていた音や、センスを完全に自分の物にしてしまった。
「あの……久米次さんですね?」
そこに、六条調が通りかかった。
初めて出会った時の彼女は、まだ音色を備えていなかった。
しかし、とても純粋な瞳をしていた。
「ずっとファンで! ぜひとも生の演奏を聞きたいって思ってたんです!」
「そりゃあ、光栄だなあ」
調はさらに頭にかぶっていた帽子をとって、
「この帽子とかも、久米次さんの言葉を縫い付けたものなんですよ」
実際にはそうではなかった。誰かも分からない人間の音色に混じっていた記憶から適当に取り出した言葉でしかない。
「そうなんだ。僕はあまり昔のことを思い返さないから、いつどこで言ったのかも……」
「私は絶対忘れないですよ。せっかくだから、久米次さんの演奏をお聞きしたいんですが……いいですか?」
「いいのかい?」
演奏してやった。盗んだ音色をそのまま使ってだ。
無論、真相を何も知らない六条調は笑顔で拍手した。
「すごいです!」
無理やり、静寂は嬉しそうにした。
「私も、久米次さんみたいに素敵な演奏家になりたいなあ」
これが、良くないことだと理性では分かっていた。しかし、あのお方に命じられたことを遂行する以外には、自分には存在する理由がない。
「そうかい? うれしいなあ」
こうやって笑顔を浮かべるのも、やはり人間の猿真似だ。静寂にとって、調に対してとる所作の一つ一つが、嫌々ながらやるものであって、そこに真心などというものははなからこもっていなかった。
そして、人間はいともたやすくそれにだまされる。
調もまた、騙された。だが、調の表情には、確かに嘘偽りのない喜びがあった。
それを見た時、静寂の心には明白な動揺があった。それが初めて経験する感情だっただけあって、静寂は、相手が得体のしれない怖ろしい者に見えたものだった。敵意ではないからこそ、なおさら。
調のあの純粋な顔。明確にやりたいことがあるという、希望に満ちた顔。
それこそ、静寂がどうあがいても得られないものだった。
なぜ彼は、そこまで明るい顔をしていられるのだろう。
あの笑顔の向こうに秘められた音色は何なのだろう。
静寂は、それを知りたかった。それを知るために、もっと調の音色が必要だった。だが、調はそれを拒絶する。そして、それに対しどうしようもない不快感を、内側にも、外側にも、静寂は感じた。
かっとなって、誰もいない目の前をにらみつける。
「憎めよ。憎めばいいんだよ。どうせ僕らを愛してくれる奴なんてどこにもいないんだから」
突如、悪寒を感じる静寂。
――決戦を、始めるつもりなのだな。
あのお方の声が聞こえた。
「ああ、始めるよ。六条調と対決して、奴の音色を吸い出しやるつもりだ」
――お前はなぜあの娘にそこまで固執する?
「俺は、あの娘の可能性に賭けることにしたんだ。あの娘の音色を吸えば、俺は今の俺を越えた者になれるかもしれないんだ。そしてまだ、奴の音色は成長する途上にある。だが、俺ももうそこまで待てなくなっている」
あのお方の声に、得意げな調子が混じる。
――あの娘に音代としての力を与えた私の判断は正しかったわけだ。この私にも、少しは音楽への造詣はあったというわけだな。
「なるほど、あなたの判断は確かに正しかった。おかげでもう、奴らの音色をこれ以上漁る必要もなくなる」
静寂は、それから会話を止める。もう、こんな小手先の手口を使う必要もない。
耳の穴から雑音を吐き出し、暗闇を作り出した。
それは、かつてミューノイズの幹部が集結して、会議を開いていた場所だ。だが、今ではもあや何の用もなくなった。
「ふんっ!」
静寂は、左拳を握りしめた。その中にドラムやラジカセの音が収束する。
そして宙に拳を振り下ろすと、闇は砕け散り、元のスタジオが現れた。
「俺は、あなたに真の音楽を捧げようと思う。旋律も狂騒も俺から去って行った。ためらう理由などどこにもない」
――君に、私の音色をやろう。音代と存分に戦い、私が満足する音楽を奏でてくれ。
静寂は、電流に打たれるような衝撃と共に、奥底から真新しい力がみなぎるのを感じた。
これなら、音代など敵ではないと思えるほどの。しかし、感謝したいとは微塵も思えない。
静寂は、軽蔑した目を浮かべ、
「あんたはいつだってそうだ。自分では何も奏でない。ミューノイズですら、演奏その物はするのにな」
もはや向こうから返答はなかった。ただ、戦いを通して鍛えられた音色を聞きたいだけなのだ。
スタジオを出て、上の階に向かった。いつもなら間食を取る頃だが、今回は違った。
もう、この街には何の愛着もない。もう、この街をこの姿で見下ろすことも、決してない。
エレベーターに向かう途中、同僚の平川とでくわした。
「久米次さんは、最近真剣ですよね」
「そう見えますか?」
静寂は、表向き平静を装った。しかし、動揺を完全に隠しきることはできなかった。
そんな自分自身に驚いた。こんな風に感情に動かされる人間ではなかったはずだ。
「だって、前より笑顔でいることが減ったような気がしますよ?」
「あはは! そっか……じゃあ、これからはがんばって笑うようにしますよ」
静寂は、人間によくあるやり取りでごまかそうとした。しかしこれにすら、静寂は心の底からやましさを感じなかったわけではなかった。
相手は、沈痛な表情で、
「杉野さんがミューノイズに音色を吸われて、そのままじゃないですか……。音代の人たちが何とかしてくれるのを祈るしかありませんけど……」
「ああ、そういうこともありましたね」
あの時、音色を吸い取った女性のことなど静寂は完全に忘れていた。
「でも、だからといって久米次さんまで不安になったら、金手の人たちにやるせがなさすぎますって。スランプになることはありますよ。でもそういう時こそ、ちょっと降りて考え直してみるのがいいんじゃないですか」
(そんな問題じゃない。そんなことで解決していたら、俺はそもそもこんなことはしていない)
静寂にはもはや止まる理由などなかった。もう、こんな不毛な毎日ともお別れだ。
(いや、もう悩む必要もないな。これからは俺はもう、別の存在になるんだから)
音の台、最上階の展望台から静寂は、金手の街を見下ろした。静寂の目には、この街から立ち上る音色が実際の物質として見えた。そしてそのどれもが、かつては目新しい物だが、今では見慣れた、陳腐な物に化しつつあった。
いや、見飽きた音色ばかりになるわけではない。この世に一人一人違う人間がいる限り、新しい音色は生まれ続ける。人類という種が続く限りは。
だがそれをもはや追い求めようとは思わなかった。あの六条調を除いては。
もうすぐこの金手は、いや、世界は、静寂が好きに使うための楽器と化すのだから。
音色も、みな静寂の物となり、そしておしまいだ。
ひとりごちた。
「そろそろ、やるか」




