Session.27 交わらない知音
鵜成でのあの戦いから数日後、鍵二は、久しぶりの休暇で散歩していた。
ミューノイズとの戦いが、激化する前兆を鍵二もかぎ取っていた。だからこそ、今は休む必要がある。
鍵二はそこでふと、ある人に出会った。
色の白い、麗しい容貌の女性が花壇に座って。子供を相手にフルートを披露していた。
鍵二は彼に見覚えがあった。それどころか、かつては深い付き合いのあった女性だ。
胸の中からすっかり取り除けていたはずの膿が再発しそうになり、鍵二は、そこから離れようと思った。だが、彼が思ったよりも息災な様子なので、つい鍵二は彼にちょっとした挨拶でも交わそうかという気持ちを抑えることができなかった。
いや、それはもっと後ろめたい感情からでた欲望だ。
子供たちに別れを告げ、立ち上がって歩く女性に、鍵二はようやく声をかけた。
「和さん」
以前だったら、『のどか』と呼びつけにしていた所だが、もはや鍵二は彼にそう呼べるほどの距離の近さなど感じていなかった。
「あら、鍵二さん?」
彼の様子にいつもと変わりはなかった。少なくとも外見上は。それが余計、鍵二にとってこの女性がはるか遠くに離れてしまった存在だと認識させた。だが、和を責めることはできない。鍵二という人間の本質が、そうさせたのだ。
「人恋しいのね。あんなにきっぱりした口調で別れを告げた感じに見えた」
「そう言わないと僕の気持ちに踏ん切りがつかないと思ったからさ。でも、今でも僕は君のことをさっぱり忘れたわけじゃない」
いずれは完全に忘れてしまいたいと思っていた。だが、彼の姿をこうやって目にすると、どうしても未練のようなものが湧いて来る。
「へえ、心配してくれていたんだ。私はあなたのことなんてすっかり気にしてなかったけれど」
「元気そうでよかった」
鍵二はつぶやくように言った。和に直接それを言うのは、なんとなくためらわれた。
それから二人はしばらく沈黙していた。どちらも、そう軽く口を開きたくはなかった。
そして話し始めたのは鍵二の方だった。
「僕はあなたを愛していたよ。そのことに偽りはないさ」
鍵二はじっと和の顔を見た。今ここで正直に向かい合わなければ、いよいよ彼にこれ以上合わせる顔がないと思った。
「けど、あなたは別の方向を向いていた。私は子供が欲しかったけれど、あなたはそれに賛成しなかった。あなたがそれを望まなかったからよ」
「ああ。僕はとても怖くなってしまった。どうやら僕は普通の人と他人への向き合い方が違うらしい」
和の目つきが、少し遠くなった。
「男の人にもそういう目を向けられるんでしょ」
「違う、そうじゃない。あいつだけだ。僕がこの熱い思いをぶつけられるのは。それ以外の人間には、ただ本当の意味で惹かれないというそれだけのことなんだ」
この時、鍵二が思い浮かべていたのは律真の顔だった。
そういう感情があると気づいたのはずっと若い時のことだった。
鍵二の父親の出自はアルゼンチンのイタリア系移民である。家庭は宗教的に保守的であり、ことさら性愛に関する話を親や兄弟に打ち明けることなどできなかった。
同性にこういう感情を向けられる自分自身を、最初鍵二は恥じた。
それを初めて打ち明けることができた相手が律真だった。金手から引っ越した先の学校で、鍵二は彼と知り合った。
なぜ、このことを打ち明けたのが律真だったのか。それは逆接的に、律真がもっとも自分とは縁のなさそうな人間だと思ったからだ。性格にしろ音楽の嗜好にしろ、まるで違っていて、到底理解し合える者に見えなかった。
どうせ、他人同士として生きていく。だからこそ、鍵二はそれを話すことができた。他人に対して軽くが薄そうだし、どうせ告げ口することもないだろうと。
「そりゃ、好きだった相手がたまたま同性だっただけだろう? 他人に詮索されるのを恐れてて、恋愛なんてできるかよ。そういうのはな、もっと堂々と主張すべきなんだ」
「最初からそう言えたら苦労しないけどさ……」
律真はあまり他人を心配しない。いつもぶっきらぼうで、つっけんどんな所がある。他者に対する情が全くないわけではないが、常に自分の快感とか都合を優先している人間だ。
それで鍵二はかなり助かった面がある。律真は他人への共感に乏しい。そうやすやすと同情はしない。しかし、律真は理解する人間だ。
楽器の調音はどんな具合か、調律は済ませているか、演奏する時雄音階が狂っていないか、ということに律真はひどくこだわる。
そしてその延長線上で、律真は人間関係のことを理解していた。
合宿の際、同じユースホステルに宿泊した鍵二と律真は、就寝前に秘密の会話をかわした。好きな物とか、楽器の話から、段々自分たちの秘密の事情についての話になっていった。
鍵二は気になって、こう問いかけた。
「律真ってさ、何でそこまで僕に色々と話してくれるんだ? 他の子にはちっとも愛想が良くないのに」
「そりゃ、お前のことをもっと知りたいからだよ」
「もっと知りたい?」
「ああ。だが……それ以上に、俺自身のことを知りたいからでもある」
律真は、他のクラスメイトにはめったに見せない笑顔を鍵二に示した。
「俺はさぁ、お前ってのが好きなんだ。何だかよく分からんが、俺はお前といると何か心が動くんだ」
何度か、鍵二はチェンバロの演奏を律真に披露したことがある。
基本的にそう他人に腕を見せたがらない律真が珍しく、ギターのパフォーマンスをやってくれたので、そのお返しとして鍵二は律真に自分の得意とする曲をひいてあげたのだ。
「だってお前、情緒的な人間じゃないか。他人には陽気なくせに、本当はどこかで陰を抱えている。雄弁に語るくせに、寡黙になる。矛盾だ。それが面白い」
律真はあらっぽい雰囲気に見えて、論理的に語る時は語る方だった。
「音楽にしてもそうだ。俺は昔からあまりチェンバロとかオルガンといった楽器には惹かれなかった。それが権威主義的に思えたからだ。けれどお前の演奏にはそういう堅苦しい物を感じない。まさにそれは昔の伝統を引き継ぎながら、今の音楽でもある。それがいいんだよ」
律真は左手で鍵二の肩を叩き、
「俺はなあ、伯牙にとっての鐘子期になりたいんだ。お前の音色には万人を感動させる力があるし、もっと世の中に知られないといけない。けれど……その神髄は、俺とお前の秘密にしておきたい。そう簡単に理解されてたまるかよ」
鍵二は、胸の高ぶりを覚えた。
律真は、鍵二の心情を知ってか知らずか、こう釘を刺す。
「他の奴には話すなよ? 理解させろよ。お前だけの音を、俺にな」
律真とは実に様々なことを話した。
音楽の分野は異なるが、今後の生活で色々支えてくれる人だと鍵二は思った。そして、いつかは婚約を結ぶことを見越して交際を深めていった。しかし、二人の関係はずっと円満に続くものではなかった。その後、鍵二は和を知った。
互いの服を脱いで体を重ねた時、鍵二は律真にこのことを隠していいものか迷った。和の体は、さしあたり鍵二の肉を喜ばせたが、もっと深い部分を満足させることはできなかった。鍵二は慄然とした。
(僕は、この人を本当の意味で愛せていないのではないか?)
和と交接する際、きまって律真のことが心に浮かぶのである。鍵二にとって和は愛する対象ではあったが、何よりもまず金の関係でつながっていた。こういうことを明確に告げるのは心苦しいが、ごまかすわけにはいかない。鍵二は、ある日、思い切って律真のことを和に打ち明けた。
果たして彼は反発した。
和は、経済的な支援をしてくれる人のほかに肉の喜びを分かち合える人が別にいる、ということは耐えがたい苦しみだった。
「そんなの、納得できるわけないでしょう!?」
「和、僕にとって君は本当に大切な存在だ。どちらも大切だし、欠けてはいけないものなんだが……」
共に演奏したことは何度もある。それなのに、律真が聞いてくれる以上の喜びを鍵二は感じることができなかった。
「そんな奴……ただのセフレじゃない!」
「生活のために必要な人と、性愛の相性が合う人はどこまでも違うんだ。どっちも大切だよ」
「私にとって、それはどちらも同じものじゃなくちゃいけないの。複数の人間を平等に愛せるわけがないでしょう?」
「それは古い考え方だよ……」
「嫌よ。全てを私に委ねてほしいの。そうでなきゃ……」
和は、森や山のように包容する女性だと鍵二は思っている。えりすぐりせずに、あらゆる気持ちを受け入れてくれる。しかし、それこそが彼の欠点なのだと鍵二は、思った。
和は、何でもかんでも自分にぶつけてくれる人間でなければ許容しないのだ。悪いものであれ、良いものであれ、ぶつけて関係を深めてくれる人間こそが自分の隣人としてふさわしいとみなした。自分自身に隠し事をしたり、愛を分割するような人間を許さないのだ。
鍵二にとってそれが和の最も相いれない要素だった。和は肉でも魂でも鍵二を堪能したがっていた。それが、鍵二にとっては、決して重ならない好みだった。
和は前より綺麗になったように見えた。
きっと、自分のことで悩まずに済むようになったからだろうと鍵二は思った。
「君の考え方はまだ変わらないのか、アモーレ」
『アモーレ』と呼んでしまったことを、鍵二は後悔した。結局想定しないような発言を選ぶのを、自分自身の瑕疵だと思った。
和がもうすでに過去を清算しているのが、鍵二はどこかで拒否したがっていた。
「何それ、誘っているの?」
「誘ってなんかないさ。僕は君の意志を尊重したいだけなんだ。どうしても僕の性質が相いれないと分かったから、僕は君から離れることにした。けれど、僕もそうできた人間じゃない。やはり君のことが忘れられない」
「……そう。私のことをもう大切だと思っていないのね」
「今だって大切だよ!」
鍵二はやや調子の外れた声で言った。
「もしかしたら、いつか君も僕のことを理解してくれると――」
突然、二人の脳裏にあの鋭い音が響いた。鍵二よりも和の方が先にそこから動いていた。
「和さん!」
和が急に離れたことは分かっている。
鍵二は、和に自分の裏の顔を見せたことはない。音代としての一面を決して見せたことはない。
鍵二はチェンバロに駆け込んだ。
和は、ミューノイズに囲まれていた。影は、胸にアンプを貼り付け、和にじわじわと近づいていた。
彼は、慌てずにフルートをくわえ、演奏の準備をした。
そして鍵二はチェンバロの演奏と共に、彼が戦う支援をする。
<後ろからも来るぞ、気を付けるんだ>
和は、口をくわえていたので話すことはできなかったが、それでも目くばせですぐに鍵二の指示を理解した。
――森の中を疾駆する白馬。たとえ誰に見つけられなくても、ただ歩き続ける。
突如として和の周辺が鬱蒼とした木立に覆われ、ミューノイズたちの視覚が撹乱された。
そして、調和したチェンバロの音色が和の体に浸透した。
――白馬の駆けた先に、滝が現れる。滝は、大きなうなり声を揚げながら断崖絶壁の真下へと注いでいる。
和の力は、強大な力で敵をねじふせることにあるのではない。むしろ、その美を通して、改悛を促すことにある。
ただ、人間を苦しめ、命の音色を奪うだけの彼らの雑音では決して不可能なことだ。
ミューノイズはもはや和の音色が織りなす幻想の世界に
ミューノイズはそのまま棒立ちになり、何かに恥じ入るようにゆるやかに消え去った。
鍵二に、勝利の喜びはなかった。
かつてこういう風にチェンバロの曲を聞かせたものだった。
ああやって楽しんだ日々も、もはや和にとっては過去の記憶の一ページに過ぎない。今更それを掘り返しても、この人の気持ちをゆるがすには至らない。
鍵二はとぼとぼと和の元に戻っていった。
「まさかあなたが音代だったなんてね」
和は、純粋に不思議そうにしていた。
「隠してすまない、アモーレ。今では君の苦労がよく分かるよ……」
「あの時はまだあなたはまだ音代じゃなかったし、今ほど頻繁にミューノイズが現れることもなかった。だから別に打ち明ける必要もなかったけれど、今はもう、そうとも言ってられないね」
「ああ。おかげで、僕も君のことを思い出さずにいられた」(くそ。また彼に軽蔑されてしまう)
「あの男との関係は、まだ続いているのよね」
鍵二はわざとらしく、
「彼はすごいよ。僕は、まだ彼という人間にまだ飽きずにいる」
和は、鍵二が不幸だとは思わなかった。
「あなたにとって、私はかけがえのない一人なんでしょうね」
「そりゃそうさ。僕は君のことを大切に思い続けるよ」
二つの道は、結局交わらない。
「私はあなたが好きだったわ。ただ、それだけよ」
「……。ああ、それで問題ない」
鍵二は、ここからさらに何か会話が進むことはないかとどこかで期待していた。だが、結局あきらめた。
(この人は、もう僕の方を向くことはないのだろう。いや、それでいい)
それから二人は通りすがり、決して振り向くことはなかった。
鍵二は、夜にまた律真と親しく語り合おうと思い、スマホを起動した。




