15 さらなる脱線と騎乗訓練とお風呂
幸い、その日は夢も見ずにぐっすり眠ることができました。寝る前に心の中で般若心経を十コーラスくらい唱えたのがよかったかもしれない。ぎゃーていぎゃーてい、のあたりで記憶が途切れております。偉大なり般若心経。
途中から妙にロックでヒップホップなリズムになっていたのはごめんなさい。半分寝ていたんです。
すっきり目覚めたあと、窓の外のジンガにも普段よりキラキラ三割り増しの笑顔でお早うの挨拶をする。ジンガを見ても笑いの衝動が起こらないのは心が浄化されたせいだろう。素晴らしきかな般若心経。
隠し芸とか心霊スポットでの気休め以外にも役に立つと証明されました。ちょっと帰依してしまいそうです。というかどれだけ罰当たりな使い方してたのやら、自分。
朝食が終わることには浄化効果のキラキラも消え、いつも通りの自分に復帰しました。
なにやらまた黒歴史を作ってしまった気もしますが、速攻で忘れることにいたします。ギンたちに偽者でも見るような目で見られたのが一番心に痛かったです。
キラキラな私は私じゃないですか……うん、自分でも正直あり得ないという感想しか出てこない。あれは偽者だったんです、宇宙人にさらわれて中身を取っ換えられていたんですよ……
いつものようにダームフライ夫妻に挨拶して畑の様子と幼虫の成育状況を確認したら、カマキリ先生の部屋に向かうギンたちと別れて小屋に戻る。
今日はロープを作って、もしも時間が余るようなら残りの蜂の巣から蜜蝋を取ってしまう予定。鍋いっぱいの巣の残骸がいつまでも台所にあるのは邪魔くさいし。それ以上に場所を取っているのはテーブルの上に並んだ蜂蜜の壺だけど!
とりあえず、布を10メートルくらいの長さで切ってから、布目に添って10センチくらいの幅で縦に切り裂いていく。
できた細長い布きれの端を二本まとめてテーブルの脚に結び、捻りながら互いに交差させていく。使っている最中に解けたら嫌なのでできる限りきつく。途中で何度か休みながら、布の一番端まで縒り合わせて解けないように結んだら簡単な布製ロープの完成だ。
「太さはこんなもんか……荷重はどれくらいまでOKかな? さすがに壺をぶら下げただけで切れないとは思うけど」
ぎゅっぎゅっとロープを引っ張ってみるけど、さすがに私の力程度で切れるんじゃ不良品もいいところだ。ジンガにでも引っ張ってもらおうか……あっさりぶっつり切れる光景しか思い浮かばなかったけど。ち、力加減してもらえばワンチャン……?
ひとまず耐久テストは後回しにしておくことにして、切った分の布だけは全部ロープに加工してしまう。少なくとも、私の体重程度だったら支えられると思うし。作っておけばなにかの折に役に立つこともあるだろう、たぶん。
ロープを作り終わったら、まだ時間には余裕があったので蜜蝋作りを始めることに。
昨日と同じ手順で蜂の巣をざぶざぶ水洗いして、今度は大鍋に水と一緒に入れる。全部は入りきらなかったので半分くらいの量だけど。残りはとりあえず洗い場に放置だ。
……って、お玉代わりになる棒かなにか用意しておくの忘れてたよ! 今からジンガを呼び戻して外に行ってもらうのも気が引けるし、こんなことにDPを使うのもなぁ……なにか代わりになりそうなものはないだろうか?
と思って部屋の中を見回すと、扉の内側にひっそりと収納されたままの閂を発見。
L字型の金具の上に載っているだけのタイプなので簡単に扉から外すことができる。棒というにはやや平たいけれど、握れないわけでもないので鍋をかき混ぜる程度のことはできるだろう。よし、君に決めた!
お玉の代わりも無事見つかったので、鍋を火にかけてごんごん中身を溶かしていく。
なんかこの巨大な鍋をぐるぐる棒でかき混ぜていると、おとぎ話なんかに出てくる魔女にでもなった気分だ。ぐーるぐる、ぐーるぐる……ヒッヒッヒ、お嬢さん、リンゴはいらんかね? って、リンゴならまだ山ほどあるだけに洒落にならないし。
阿呆な想像を交えつつ巣の残骸を煮溶かして、布をかけたボウルに中身を移そうとして……またも問題発覚。ボウルが小さすぎて中身が入りきらない。oh……どうして最初に確認しておかないんだい、自分?
仕方ないので昨日洗った鍋と、水汲み桶まで総動員して大鍋の中身を空ける。
よっぽどまた壺か、いっそのことバケツでも作ってやろうかと思いましたよ。事前の確認って本っ当に大事ですよね! キャッシングでも、仕事でも、蜜蝋作りでも!
なんとか鍋の中身を不純物と蜜蝋の溶液に分けて、一度布で拭いた鍋に溶液を戻す。あとはゆっくり冷まして蜜蝋が固まるのを待ちましょう。
予定になかった洗い物も発生したしな! というか、ざぶざぶ容赦なく水を使って洗い物してたら、甕の水が足りなくなってきたという……桶持って外の大甕まで汲みに行きましょうか。さすがに空っぽのままじゃ夕食の支度にも差し支えるし。
何度か小屋と大甕を往復して、水甕の水位を半分くらいまで回復させたところでギンたちが帰ってくる。
妙に意気揚々としてると思ったら、揃ってレベルが上がっておりました。これでギンたちはレベル12、ジンガはついにレベル10です! 最近はかなりレベルが上がりにくくなってきてたのに、みんな本当によく頑張ったね!
誉めて、と言いたげに身体をすり寄せてくるギンを遠慮なく撫で回してから、澄ました顔のヤシチとちょっと誇らしげなジンガも思いっきり抱きしめて手放しで誉めまくります!
こういう時こそスキンシップの機会! 役得とばかりにもふもふを堪能! ジンガの場合もふもふじゃなくてごつごつですが! だが許す!
ひとしきりギンたちとじゃれあったあとで、はたと思い出して小屋の中からロープを取ってきてジンガに渡す。
「ちょっとこう、横にピンと張る感じで持っててくれる? で……」
ジンガが持ったロープの中間くらいに両手を使ってぶら下がる。完全に体重をかけてもびくともしない。ということは、荷重(以下は検閲により削除されました)キロくらいまでは問題なく使えるってことか。
ぶら下がったまま身体を揺らしてもロープが切れたり解けたりする様子はなし。よしよし、これなら蜂蜜の壺を地下に下ろすくらいならまったく大丈夫そうだ。
「ありがと、ジンガ。それと午後から地下室に蜂蜜の壺を下ろしたいんだけど、ちょっと手伝ってもらっていい?」
地面に降り立ってジンガに尋ねると、とてもテンションの高い「グオオ~~~~~ッ!」という返事がありました。ええと、OKってことですよね? うん、なにやらすごく喜んでいるような気もするし。
ギンとヤシチもジンガのこの声には慣れてきたのか、特に驚く様子もなく近くでのんびりとくつろいでいます。ああ、とりあえずお昼だし休憩しましょうかね?
私もちょっとリンゴの蜂蜜掛けでも作って食べようっと。ただし毒入りじゃないリンゴで。
お昼休憩のあと、窓の外に待機してもらったジンガにロープ(二本結んで使った)を渡して蜂蜜の壺を地下室まで下ろす。
スルッとロープが抜けたら怖いので、壺は布で包んで結び目にロープを結びつける形にしました。私は〈伝達〉でジンガに指示を出しながら、地下室で壺を受け取る係。
とはいえ、壺を布で包むのもロープを結びつけるのも全部私の仕事だから、けっこう大変といえば大変だけど!
10メートルの梯子を何度上り下りしたことか……もうちょっと天井の低い部屋にしておけばよかったと心から思いました。今更面倒だから変えないけど! 荷物の上げ下ろしならジンガという心強い味方(断じてクレーンではない)がついてるし!
あと、うっかり床下収納庫(偽装用)に放り込んだまま忘れていたリンゴとジャガイモが、餓死寸前の登山家のような状態で発見されました。うん、手遅れにならなくて本当によかった……今日の晩ご飯として美味しくいただかせてもらいます。
壺の移動作業が終わった頃には蜜蝋はもうすっかり固まっていたので、水を捨てて蜜蝋だけ布に包んでおく。
残り半分の巣も処理すれば、蝋燭が40~50本くらいは作れる分量になるだろうか。当面明かりには困っていないから作るとしてもしばらく先の話だ。アロマキャンドルとか作ってみたい気持ちはあるけど、蜜蝋以外の材料がことごとく不足してるし!
ギンたちは今日の午後は休みと決めたらしく、残りの残骸を大鍋で煮ている私を興味津々の表情で見ている。見てるだけならいいけどあんまり近づかないようにね~ 蜜蝋を含んでいる分溶液は高温なので、間違ってひっくり返しでもしたら大変だ。
もう三度目になるので慣れた手つきで鍋の中身を布で漉し、蜜蝋の溶けた溶液だけを大鍋に戻す。ああ、さっき桶とか洗うんじゃなかった……と後悔しても後の祭りだ。
まだ材料が半分残っているのを完全に忘れてました。まぁ、冷えたら蜜蝋が固まって落ちにくくなるから一度洗っておいて正解だったかもしれない。
なんて思いながら使い終わった鍋や桶をガシガシ洗い、溶け残った不純物を布で包んで小屋浦に捨てたらひとまず蜜蝋作りは終了。
わざわざ穴を掘ったりしなくても、ゴミは一晩も放置しておけばいつの間にか消えているというダンジョンの不思議仕様に感謝だ。
あとは蜜蝋が固まるまで大鍋を放置しておくだけでいいし、他に特にやることは……ああ、そういえばすっかり忘れてたけど、ギンに〈騎乗〉する訓練をやろうと思っていたんだっけ。夕食の準備まではまだ時間があるし、ちょっとギンに聞いてみてやる気があるようなら試しに乗ってみようか。
「ギン、あのね……ちょっとギンに乗る練習してみたいんだけど、暇だったら付き合ってもらっていい?」
蜜蝋作りを見物するのにも飽きた様子で、ベッドの前に寝そべっていたギンに声をかける。途端にぱっと跳ね起きたギンが、遊ぶの? 遊ぶの? と言いたげに尻尾を振ってやってきたので、もう一度ゆっくりとした口調で説明する。
「ギンに、私が、乗る練習だよ? もし私がギンに乗れたら、今は行けないような遠い所にも一緒に行けるでしょ? だから練習してみようかと思って……」
ギンは首をかしげて私の言葉の意味を考えている様子。そのあとまるで頭の上に電球が点くエフェクトが見えた感じで、ギンは大きく一声吠えて外に駆け出していった。
っておい、入り口の扉が体当たりで吹っ飛ぶように開いたんですが。お願いだから壊さないでね!
唖然として見送った数秒後、開いたままの戸口の向こうからギンが顔をのぞかせる。
足踏みするその姿は、言語化するなら「早く早く! 練習しよう、練習練習練習~!」といったところか。どこからどう見ても小学校低学年、もしくは幼稚園年長組男子の言動です。
見た目だけは精悍な狼なのに……どこで育て方を間違ってしまったんだろう。いや、この可愛さは間違いなんかじゃないと断言する。我が子育てに一片の悔いなし!
だけど、いつかは見た目と中身が一致する日が来るのだろうかと不安にならないこともない。そうなって欲しいような、欲しくないような……
なんて考えながら、棚に入れておいた騎獣具を取って外で待っているギンのもとへ向かう。ヤシチも野次馬なのか監視役のつもりなのか、留まっていた窓辺からそのまま外へ。
扉の前に立っていたジンガもついてきたので、結局全員で草原へ移動することになった。あんまりギャラリーが多いのも、それはそれで格好悪いところを見せたくないので緊張するな。
まぁ、格好を付けたところで普段の行動をばっちり見られているので今更だ! 潔く諦めることにして、苦心しながら騎獣具をギンに装着する。……早速この有様だし。せめて取り扱い説明書を付けておいて欲しかったです。
現代日本で狼はおろか、馬に鞍を付けた経験だけでも持っている二十代女子がいったいどれだけいると思うてか!
なんとか正しいと思われる状態で騎獣具を装着して、それじゃ乗るね、と声をかけてギンの背中に。全長1,5メートルの狼の背中は、小さめのポニーくらいの高さだろうか。足の長さが違うのでもう少し低いかもしれない。
騎獣具は犬のハーネスのような形で、人が乗る部分だけ鞍というかやや厚みのあるカバーのようなものが掛かっている。
手綱は頭に付ける形ではなく、胴体に付けられたベルトの両脇のあたりから伸びる短めのものだ。しいて言うなら盲導犬のハーネスをちょっと短くしたような形で、握った感じも手綱というよりハンドルに近い硬さ。
鐙などは付いていないので、上体のバランスを保つには両足でギンの胴体をきつく挟むか、でなければ上半身の筋肉をフルに使って直立姿勢をとるしかない。いや、たぶん両方やっても振り落とされないようにするのが精一杯だ。
「ギン、ゆっくり歩いて……ゆっくりだから! 絶対走ったりしないでね! 絶対に!」
押すなよ、押すなよのフリじゃないんです、いや本当に。
伏せの体勢から立ち上がって歩き出したギンの背中で、手綱をきつく握って必死にバランスを取る。前に乗馬体験で馬に乗ったことがあるが、普通の鞍を乗せていない生物の背中がこんなにも不安定だとは思わなかった。おまけに足を踏ん張る鐙も付いていないし!
私の緊張が伝染ったのか、ギンはどことなくぎこちない足取りで慎重に歩いていく。まるで本を頭の上に載せて歩いてでもいるような……いや、むしろピンポン球を乗せたお玉を持って歩いているようなと言うべきか。
しばらくギンにゆっくり歩いてもらって、バランスを取るコツが掴めてきたところで普通の歩き方に変更。と同時に、あっさりギンの背中から転げ落ちました。
綺麗に背中から落ちた上下が草地だったので痛くはなかったけど、一瞬なにが起きたのかわからずぽかんとして空を見上げる。あ~、空が綺麗だな~
やっと我に返って身体を起こすと、ギンが心配そうにのぞき込んできているところだった。ごめんギン、心配かけたね。私は大丈夫だから続きをやろう! 自転車だってスケボーだって転びながら乗れるようになっていくものなんです!
肘とか膝とかに生傷こしらえながら最終的には一輪車まで乗りこなせるようになった私の本気を見せてやる!
そのあとは〈身体強化〉も駆使してひたすら〈騎乗〉の特訓。やる気というか、負けん気に火がついた私を止めるものはいませんでした。
ギンは一緒に遊んでいるつもりなのか無邪気に喜んでいるし、ヤシチは時々応援するようにクッ、とかキッとか鳴きながら見守っているし、ジンガははらはらした様子を見せながらも拳を握ってじっと見つめているし。
でも、おかげで日が傾いてくる頃にはけっこうな速さでギンが走っても、なんとか転げ落ちない程度には〈騎乗〉が使えるようになりました!
〈身体強化〉もフルに使ってやっとではあるけれど、これで必要な時はギンに乗って移動することができる! ギンの全力からいえば半分、いや三割以下のスピードではありますが……そのへんはまだ要練習ということで。
夕陽に照らされる草原をギンたちと一緒に歩いて小屋へと戻る。すでに定番となった小屋の前での夕食を終えたら、あとは寝るだけ……の前に一つだけやりたいことがありました。
ギンたちにしばらく外にいるよう頼んで、一人だけ小屋の中へ入っていく。
そう、蜂の巣の残骸でいっぱいだった鍋が空いたんです。今日は〈騎乗〉の練習でいっぱい汗もかいたんです。ダンジョンマスターは汗をかかない? NO、NO、汗は普通にかきますよ? ただそれが汚れとなって残らないというだけで。
なにが言いたいかというと……せっかく作った大鍋がこのまま台所の不要品か、でなければ地下室で死蔵される不良在庫となるのはもったいないので、お風呂の湯沸かし専用の鍋として第二の人生、じゃなく鍋生を送ってもらおうじゃないかと思ったのですよ。
ええ、無駄にするのはもったいないので。もったいないので!(大事なことなのでry
というわけで大鍋に昼のうちに補充しておいた水甕の水を入れ、ぽいぽいと薪を突っ込んで火力を大きくしておいた竈にかける。
30リットルの水はなかなかの重さだけど〈身体強化〉付きの私の敵ではない! 今日一日でずいぶんスキルのレベルが上がったような気がするし!
お湯が沸くのを待っている間に、DPを使って人が入れるくらい大きなタライ(破壊不能:10p)を作成。子供用のビニールプールくらいの大きさのタライだ。高さはもう少しあって50センチくらい。
肩までつかるのは無理でも、濡らした布で身体を拭くのに比べたらずっとお風呂に入ってる気分を味わえそう。
なんて思っているうちにお湯が沸いてきたので、竈から鍋を下ろしてタライにお湯を注ぐ。これだけでは熱くて入れない、というか確実に火傷をするので、水汲み桶で水甕の水を入れて温度を調整。
というかむしろ先に水を入れておいて、お湯を加える形で温度を調整したほうがやりやすかったかも。
最終的にお湯の量はタライの三分の二くらいになり、いかにも気持ちよさそうな湯気の立ち上るタライに我慢できなくなってさっさと服を脱いで入ります。脱ぐというか消すだけでOKなのであっという間だし。
うっかり外でキャストオフしてしまわないように気をつけたほうがいいかもしれない。さすがにそれは痴女もいいところだ……
あ~、お湯が気持ちよすぎて明後日の方向にテイクオフした思考を引き戻そうという気にもなれません。好きなだけ飛んでいってくれ。私は久しぶりの入浴タイムを楽しむので忙しい。
だって考えてもみたら十日……いや、もう二十日以上お風呂になんて入っていないんですよ! 普通だったらとても人前に出られるような状態じゃありませんよ! スプラッターとはまた別の方向性で「見せられないよ!」な状態だ!
用意しておいた布でざぶざぶ身体を洗い、ついでに気持ち程度だけど髪を洗い、心ゆくまで入浴を楽しんだあと乾いた布で頭と身体を拭いてタライから出る。石鹸とかシャンプーもできたら欲しいところだけど、さすがにそこまでは贅沢が過ぎる。
というわけで、さっさと衣服を身につけたら小屋の外に出てギンとヤシチに声をかける。
「もういいよ~、ごめんね、外で待たせちゃって。入ってきて~」
うん、別に狼と鷹なので気にする必要なんてないといえばないんだけど、一応は男性(雄)なので外に出ててもらったのだ。わざわざ部屋の中にカーテンや衝立を用意するのも面倒くさかったし、そのためにDPを使うのもどうかと思ったし。
特にギンたちは気にした様子もなく、ギンは尻尾を振りながら小屋の中へと入ってきて……タライに張られたお湯を見てなぜか動きを止める。え、まさか思いっきりダイブとかしないよね? と思った瞬間、じりじりと下がってそのまま小屋の外へ。
……ギンさん、もしや自分がお風呂に入れられると勘違いしてはおりませんか? タライの大きさ的に君が入るのは物理的に不可能だと思うんですが?
というか、慌てて小屋から外に出てみれば、すでにギンの姿は影も形もなかったんですが。ちょっと待てギン、いったいどこまで逃亡したんだ!? 家出か、唐突だけど家出なのか!?
ヤシチは呆れた様子ながらもさっさと小屋に入って、ベッドの枕元で寝る体勢。
……うん、外とはいえ地下一層にはギンに危害を加えるような生き物はいないし、気温もそんなに低くはない。どこへ行ったかわからないギンを探して歩き回るにも、肝心の機動力であるギン自身が行方をくらましているわけで……
一晩くらいなら別に戻ってこなくても大丈夫だよね? このまま反抗期に突入してうるせえババア、とか言い出したり、財布からお金を抜き出したり、盗んだバイクで走り出したりする心配はないよね?
ギンは狼だから喋らないしお金なんて持ってないし、ましてバイクなんてこの世界のどこを探してもないと思うけど!
あれこれ気を揉んでいるとジンガが探してこようか? と言いたげにのぞき込んできたので慌てて断り、小屋に入る。あ、お湯の処分どうしよう……?
さすがにこの大きさのタライをお湯入りで持ち上げられるほどの怪力は持ち合わせてない。〈身体強化〉だってそこまで万能ではないのだ。
仕方ないので水汲み桶を使って少しずつお湯をかき出して、洗い場の排水孔に流しました。最後に残ったお湯(すっかり冷めて水同然だけど)は、ぎりぎり持てる重さになったタライを持ち上げて排水孔に捨てる。
あ~、覚悟はしてたけどお風呂に入るのって、準備と後片づけが本当に大変だ。できることなら毎日だって入りたいところだけど、二、三日に一度くらいが精一杯かな。
空になった桶を台所の隅に立てかけて、ヤシチが待っているベッドに向かう。
服を着る時にパジャマを選んでいるのであらためて着替える必要はない。お風呂に入ったあとに普通の服を着るのって、なんというか落ち着かないんですよ。
例外は温泉の日帰り入浴くらいだろうか。それだって時間があってゆっくりできる時は備え付けの浴衣とか着るし。最近は浴衣ではなくダボッとした簡易パジャマみたいなものを用意してるところが多いけどね……あれはよっぽどデザインがよくない限り、情緒もへったくれもなくなるのであまり好きじゃない。
なんてことを考えながらベッドに横になる。ギンがいない分ベッドが広くて、空いた隙間がなんとなく寂しい。ずっと一緒に寝ていたからなぁ……でも、この先ギンがもっと大きくなることがあったらベッドの耐久的にもう一緒には寝られないから、予行演習だと思って我慢するしかない。
いっそ布団でも用意して、床の上で寝ようかと思わないこともないけど。布団の中綿をどうやって手に入れるかが問題だ。
羊っぽい生き物とか綿花っぽい植物とか、地上部で見つかればいいんだけど……
つらつら考えていたところで〈伝達〉の存在を思い出して飛び起きる。
すっかり忘れてた! そうだよ、〈伝達〉を使えばギンに呼びかけることができるし、それ以前にマップを見ればギンがどこにいるかもわかるじゃない! なに大事なこと忘れてるんだ!
慌てて〈伝達〉を使ってギンに早く帰ってきなさい、と呼びかけつつマップを見ると、すぐ近くにギンを示す緑色の点が。ええ、具体的には小屋の扉のすぐ前に。
黙ってベッドを下り、扉を開けると不安そうにちらちらと私を見上げるギンが立っておりました。……うん、今確信した。たとえ反抗期が来ようともギンにはグレるのは無理だ。
ついでにたとえギンがグレたとしても、私にはギンを張り飛ばして更生させるのは無理だ。なにこの可愛すぎる生き物。
「どうしたの、ほら? 入ってきなさい。ギンが恐がるものはもう片付けたから」
手を出して誘うと、おずおずとギンが小屋の中に入ってくる。立てかけたタライにちょっとびくついた視線を向けるものの、私についてベッドの側まで来ると慣れた仕草でひょいと飛び乗る。
ちょっ、勢いよく乗るのは止めなさい! ベッドさんの耐久力にダイレクトアタックが入っちゃうから!
もそもそ動いて寝やすい場所で横になるギン。それ、ほとんど真ん中って言いませんか? 苦笑しながら残ったスペースで横になろうとすると、ギンが飛び乗った拍子に驚いて枕元から飛び立ったヤシチが、降下の勢い付きで空中からげしげしと蹴りを入れてギンをどかせる。
え、ええと、その忠誠心は嬉しいんだけど、ちょっと容赦がなさすぎるんじゃないでしょうか?
それとも半分眠りかけていたところを叩き起こされた私怨も入っていたり? だったら私的には全然OKなんですが。寝入りばなに叩き起こされるのって腹が立つよね! そのあと寝付こうと思ってもなかなか寝付けなくなったりするし。
まぁ、いつもの面子がそろったところで、安心してゆっくり寝られそうです。正直、ギンが外にいると思ったら心配で眠れなくなりそうだったし。
寂しがってないかな、寒い思いをしてないかな、ちゃんと帰ってきてくれるかな……なんて次々と頭に浮かんでくる状況で寝られるわけがない。いっそ探しに行こうかと考えかけていたところだ。
いずれはギンたちと一緒に寝ることもなくなるかもしれないけど、それはまだ先の話。今はまだ、間近で感じられる温もりに心癒されていたいんです。
依存と呼ぶならそれはそれでかまわない。アルコールとか妄想に依存するよりよっぽどマシなはずだ。
私の心はまだ、逃げ込む毛布もないままこの世界と向き合うことができるほど強くなってはいないんです。せめてもう少し、ギンたちがもう少し大きくなるまでは逃げ込む毛布代わりにさせてください。
でないと、ふとした瞬間に頭をよぎる顔も思い出せない家族とか友人とか、そういったもう取り戻せない存在に心が占められてしまいそうだから。




