エピローグ 冬の便箋
半年後の冬、猪飼は相変わらず、あの古いアパートで暮らしていた。
事件が世に出てから、猪飼の身辺は大きく変わった。取材の依頼が、以前とは比べ物にならないほど舞い込むようになった。
だが猪飼は、そのほとんどを断った。名声よりも、まだ終わっていない何かが、自分の中に残っている気がしていたからだ。
進士柊真とは、あれから一度だけ会った。 正式に容疑が晴れたあと、進士は静かに職場に復帰してい
た。以前ほど陽気ではなかったが、少なくとも、あの怯えた表情は消えていた。 「あなたのおかげで、人生を取り戻せました」 進士はそう言って、深く頭を下げた。猪飼は、その言葉を、素直には受け取れなかった。
自分が進士を助けたのではない。ただ、たまたま真実に近い場所にいただけだ。そう思わずにはいられなかった。 「お礼なら、多湖さんに言ってください。彼女がいなければ、あなたの無実は証明されなかった」
進士は、少し驚いた顔をしたあと、静かに頷いた。それ以来、二人は連絡を取り合っていない。
それでいいのだと、猪飼は思っていた。 香蓮の裁判は、まだ続いていた。 猪飼は、傍聴席から、彼女の姿を何度か見た。香蓮は、法廷でも、これまでと変わらぬ淡々とした態度を崩さなかった。
ただ、証言台に立つとき、彼女の両手からは、いつも手袋が外されていた。 その理由を、猪飼は誰にも尋ねなかった。
ただ、彼女なりの、何か大きな決断があったのだろうと、想像するだけだった。 判決は、まだ出ていない。
だが、香蓮が逃げることも、罪を否定することもせず、静かにその結果を待ち続けている姿を見るたびに、猪飼の中の、彼女に対する複雑な感情は、少しずつ、形を変えていくようだった。
許しではない。断罪でもない。ただ、一人の人間が、自分の犯した過ちと向き合い続けている姿への、ある種の敬意のようなものだった。
松尾あずさとは、今も定期的に連絡を取り合っている。あの一連の報道のあと、彼女は独立し、自分の
名前で発信できる小さな媒体を立ち上げていた。 「次は、もっと別の切り口で、この社会を見てみたい
んです」 先日会ったとき、松尾はそう言って笑った。その笑顔には、あの喫茶店で初めて会ったときに
はなかった、ある種の解放感が滲んでいた。
稲本と眞弓については、その後、一切の消息が掴めなかった。 警察も、独自に二人の行方を追ったが、
手がかりは見つからなかった。まるで、最初から存在していなかったかのように、二人は静かに、この世
界から姿を消していた。
猪飼は、時折、二人がどこかで、また別の名前を借りて、何かを続けているのではないかと考えることが
あった。だが、その想像を、深く追うことはしなかった。
今はまだ、その答えを追う気力が、猪飼には残っていなかった。
葉山蓮からは、あれから一度だけ、短い手紙が届いた。 *俺なりのやり方で、少しずつ、終わらせていま
す。* *詳しくは書けませんが、心配しないでください。* 差出人の住所はなかった。猪飼は、その手紙を、机の引き出しの奥に、大切にしまっている。
そして、あの日届いた「Lot 1」の封筒――猪飼寛貴が地下オークションを暴露した理由――は、いまだ
に、何の続報もなかった。 もしかしたら、あの封筒もまた、この歪んだシステムが最後に見せた、一つ
の悪戯だったのかもしれない。あるいは、まだどこかで、誰かが、あの続きを準備しているのかもしれな
い。 答えは、まだわからない。
雪の降り始めた夜、猪飼は自室の窓辺に立ち、白く染まっていく街並みを見つめていた。 五年前、猪飼
はある事件を追い、その果てに、自分自身の人生そのものが、大きな物語の一部だったことを知った。そ
の物語には、はっきりとした始まりも、明確な終わりもなかった。 ただ、模倣が模倣を呼び、小さな悪
意と、小さな善意と、無数の人間の弱さが絡み合いながら、今もどこかで、静かに続いているのだろう。
猪飼は、デスクに戻り、取材ノートを開いた。 新しいページの一番上に、猪飼は、こう書き記した。 *地
下オークションは、終わっていない。だが、俺は、これからも、それを見届ける。
窓の外では、雪が、静かに降り続いていた。




