第六話 母ちゃんだって怒りますよ?
就寝三十分前のある日。
子供が悪ふざけで、私の腕をベチベチと叩いて遊んでいた。すかさず捕獲し、なるべく穏やかな声で言い聞かせる。
「ママ、叩かれるの嫌だよ。止めてね?」
たったそれだけで、ギャン泣きが始まった。解せぬ。叩いたのはそっちなのに。
しかし、ギャン泣きしている興奮状態では眠ることなどできない。落ち着かせるために、できることは一通り試していた。
「ほら、お布団に行くとプリキュアがいるよ〜」
「うわあぁぁん!」
「よし!お菓子食べちゃう!?」
「嫌だぁぁぁ!!」
「わかった!YouTube見よう!」
「違うぅぅぅ!!」
母ちゃんにどうしろというのだろう。どんな手段を使おうとも、一向に泣きやまない妹に苛立ちが増していく。そして、最初は私にしがみついて泣いていた妹が、泣きながらじたばたと暴れるうちにだんだん体勢が崩れていく。説得を続けるうち、気づけば床に転がり、私めがけて蹴りを連続で繰り出し始めた。
疲労、眠気、泣き声の騒音、とどめに痛み。
――緒が、ぶちりと切れる音がした。
「痛ってぇな!何してんだ!!あ゙あ゙ん!?」
あ、やべぇ。
妹、泣くのを止めて即逃走。
長男、ご機嫌に並べ遊びをしていたのに流れ弾に当たる。「ひえええぇ〜〜〜ん……」と、とんでもなく悲しそうに泣きだす。
心の中の本音が、そのまま出てしまった。慌てて深呼吸をして言い直す。
「……あー、ごめんね。ちょっとママ、疲れちゃったよ」
長男が泣きながらこちらを見ていた。近づくと恐怖を顔に浮かべる。そりゃそうだ。さっきまで穏やかに話していた母ちゃんが、突然世紀末の住人になったのである。自分が怒られたと思って怖かっただろう。私は長男を抱きしめ、頭を撫でる。
「大丈夫だよ。長男に怒っているわけじゃないからね」
「ひぃぃん……ぐすっ……」
そして、こわごわ顔の半分を物陰から覗かせていた妹も、迎えに行き抱きしめる。
「大きい声出しちゃってごめんね。びっくりしたね」
「うっ……ぐすっ……ママ怒ってない?」
「怒ってないよ。大丈夫だよ」
……いや。怒ってはいた。めちゃくちゃ怒っていた。ただ、怒っていたことと、怒鳴っていいことは別である。そこは母ちゃんも反省する。
しかし、連続の蹴り、トータル二十分のギャン泣き、眠気、疲労、騒音。これらが合体すると、母ちゃんの中の物騒な本音が、かなり元気になる。だから私は今日も、それを丁寧な言葉の奥へ押し込めておく。
「もう少しママのお話し聞いてくれると、ママとっても嬉しいのよ?」
「……うん。分かった。ママごめんね」
「うん。ママもごめんね」
……よし。戻った。我が家の平和は、こうして守られている。
――そもそも、なぜ普段からこうして丁寧な言葉を選んでいるのか。それは、本音をそのまま口にすれば、もっと違う言葉が出てくるからだ。先ほど顔を覗かせかけていたのも、まさにその本音である。
例えば、
「危ないから、そこから降りようね」
(おい、そこから落ちたらどうすんだ)
「お片付けしようね」
(そこに全部ぶちまけたままにすんじゃねぇ)
「お腹が空いたの?何か食べる?」
(腹空いてんだったらはよ食え。騒ぐな)
そう。我が家の言葉遣い教育は、母ちゃんの脳内に搭載されたオッサン語翻訳システムによって成り立っている。
こんな言葉を、言語習得の初期段階で刷り込むわけにはいかない。
大人になってから、自分の意思で口調を変えるのは構わないのだ。現に私自身、少年漫画にどっぷりハマって、すっかり口調が変わってしまった人間である。
でもそれは、自分で選んで身につけたものだ。まだ良し悪しの判断がつかないうちに、母ちゃんの脳内オッサン語をそのまま刷り込んでしまうのは、また話が違う。
だから私は今日も、心の中のオッサンを丁寧な言葉でラッピングして、子供たちに提供している。
そもそも、なぜ子供たちに丁寧な言葉で話しかけようと決めたのか。それは、独身時代に、あるプロ野球選手のお母さんのエピソードを読んだことからなのだ。
そのお母さんは、息子さんを子ども扱いせず、幼い頃から「〜さん」付けで呼び、敬語で接していたという話だった。子どもを一人の人間として尊重する。そのスタンスに、当時えらく感銘を受けたものだ。子供が生まれたら絶対これをしよう、と。
しかし、実際のところ。一人の人間として尊重したくて始めた丁寧語も、こうして疲労困憊の夜には、たまに本音が漏れ出す。
とはいえ、今回みたいな怒鳴り方は論外として、「叱る」という行為自体は、そんなに悪いものだとは思っていない。
最近、こんな記事を見かけた。「ほめて育てる教育」だけでは、困難に耐える力、いわゆるレジリエンスは鍛えられない、という内容だった。
もちろん、何でもかんでも怒ればいいという話ではない。ただ、私は「叱られる」という経験そのものは、子供にとって必要なものだと思っている。
なぜなら、私自身が親からほとんど怒られた記憶がないからだ。別に、それで伸び伸びと素晴らしく育った……というわけでもない。社会に出てから、かなり苦労した。
「これは駄目なことだ」と教えてもらう経験。
「世の中では、こういうことをすると怒られる」と知る経験。
自分の思い通りにならないことがあると知る経験。
そういうものも、生きていく上では必要だったのだと思う。だから私は、子供を叱ることに対して、そこまで後ろめたさはない。多少泣かれても、そこは譲らない。
ただ、大声と痛いのは勘弁してほしいのだ。
……そう偉そうなことを書いておきながら、母ちゃんも人間である。オッサン語翻訳システムには、まだまだ穴がある。
仕事でむしゃくしゃして、疲れて帰ってきた時。
「あー……クソが……」
「くそがー!」
「クソガー!」
「うん、今の聞かなかったことにして。お願い、頼む」
「ん?わかった!」
「ワカッタ!」
「うむ、よろしい」




