4話 デートの練習
「す、すみません美原さん! コイツすぐ変なこと言い出すので……! ほんと、忘れてください、マジで!!」
床につくほどの勢いで頭を下げる良悟。全身の毛穴から嫌な汗が噴き出している。
伊織はしばらく呆然としていたが、やがて困ったように眉を下げて微笑んだ。
「ふふ、急に結婚とか言い出すからびっくりしちゃった。高江君は悪い人じゃないけど、まだ大学生だし、ね。これからもっと素敵な人とも、たくさん出会うだろうから」
「いえ、美原さん……本当に、すみません……」
大人の余裕を崩さない伊織の返答は、優しく、どこか残酷だった。
大学生という身分を突きつけられ、遠回しに恋愛対象外だと告げられたように感じた良悟の心は木っ端微塵に砕け散り、ただ消え入りたい気持ちで俯くしかなかった。
そんな二人の様子を見ながら、ナホは不思議そうに首を傾げていた。
「???」
◇
嵐のような夕食が終わり、伊織が自分の部屋へと帰っていった後。
良悟の部屋の空気は、どんよりとした重苦しさに包まれていた。ベッドの端で魂が抜けたようになっている彼の前に、ナホがひょこひょこと近づいてくる。
「あの、ご主人……私、何か余計な事しちゃいましたか?」
「あのなぁ……!」
良悟はガシガシと自分の頭をかきむしった。
「人間の恋愛には段階ってものがあるの! いきなり結婚して下さいなんて言って通るわけないだろ!」
「段階? ご主人が以前、私を使う時に一緒に読んでいた漫画では、そういうの無かったような……」
「オナホだった時の話をするのはやめてくれ!!」
黒歴史を掘り起こされ、良悟の声が裏返る。ナホは反省したように、ぶかぶかの袖に手を引っ込めた。
「では、段階というのは、どういうものなのですか?」
「そりゃまずは友達になって、一緒に出掛けたりデートして仲を深めて、それからお付き合いを始めて、何年か一緒にいてようやく結婚なんだよ」
その言葉を熱心に聞いていたナホは、ポンと手を叩いて名案を思いついたように目を輝かせた。
「ではご主人、次のお休みで私とデートの練習をしましょう!」
「は??」
「段階を踏むお勉強です。そうすればいつか伊織さんとデートする時も上手くいきますよ!」
満面の笑みで提案してくるナホ。ただ自分が遊びたいだけなんじゃ? とは思いつつも、彼女の純粋な熱意に押されて、渋々首を縦に振るしかなかった。
◇
週末。良悟とナホは、電車に乗って少し離れた大きな街へとやってきていた。
いつも良悟の黒パーカーばかりを着ていたナホだったが、今日のために良悟がなけなしのバイト代で買った、淡いピンクのワンピースを身にまとっている。その足取りは、ステップを踏むかのように軽やかだった。
「わあぁ……! ご主人、見てください! お空まで届きそうなお家がいっぱいです!」
「あれはビルだよ。っていうか外では『良悟さん』って呼べって言ったろ」
「あ、そうでした! 良悟さん、あっちにはおっきなテレビがありますよ!」
ビルの壁面に設置された巨大な街頭ビジョンを見上げて、ナホはキラキラと目を輝かせる。
行き交う人々が思わず振り返るほど、今日のナホはどこからどう見ても普通の、否、ひときわ目を引く美少女だった。
(……こうしてちゃんとした格好させたら、めちゃくちゃ可愛いんだよな、こいつ)
隣を歩きながら、良悟は少しだけ誇らしいような、気恥ずかしいような気分になっていた。
二人は駅ビルの中にあるクレープ屋に並んだ。ガラス越しにクレープ生地が丸く焼き上げられていく様子を、ナホが食い入るように観察している。
「お待たせしました、イチゴチョコ生クリームです」
「わぁ……!」
差し出されたクレープを両手で大事そうに受け取ると、ナホは大きく口を開けてパクリと食べた。その瞬間、彼女の顔全体がとろけるような幸福感に染まる。
「んんんーっ! ふわふわであまくて、とっても美味しいです! 人間って毎日こんなに素晴らしいものを食べているのですか!?」
「毎日じゃないよ。ほら、口の横にクリームついてるぞ」
良悟がポケットからティッシュを取り出し、ナホの頬を優しく拭ってやる。ナホは嬉しそうに目を細めた。
「えへへ、ありがとうございます」
――きゅん。
激しい鼓動の音と共に、性愛とは全く違う感情が、良悟の中に芽生えた。
その後、二人はゲームセンターへと足を運んだ。
大音量の音楽と色鮮やかなライトが明滅する空間に、ナホは終始大興奮だった。
とあるクレーンゲームの台の前に張り付き、中のぬいぐるみに熱い視線を送っている。
「良悟さん、あのカエルさん、なんだか寂しそうにこちらを見ています」
「アイツだな? よし、俺に任せろ」
良悟が百円玉を投入し、慎重にアームを動かす。ガシャン、とアームがカエルのぬいぐるみを掴み、そのまま取り出し口へと落とした。
「やった! すごい、すごいです良悟さん!」
ナホは飛び上がって喜び、取り出したぬいぐるみをぎゅっと胸に抱きしめた。
「私、この子をずっと大事にします! ご主人が私を大切にしてくれたみたいに、この子をたくさん愛してあげるんです!」
ぬいぐるみに頬ずりをするナホを見ていると、良悟の胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていく。
人間の身体を手に入れて、自分の意志で歩き、美味しいものを食べ、可愛いものを可愛いと喜ぶ。その当たり前の日常を、全身で楽しんでいるナホの姿が、良悟はどうしようもなく愛おしく思えた。
夕暮れ時。駅前のロータリーにあるベンチに、二人は並んで腰掛けていた。
街を優しく染めるオレンジ色の夕日が、お互いの影を長く伸ばしている。
胸に抱くカエルのぬいぐるみを撫でながら、ナホはぽつりと、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「人間って、本当に楽しいんですね、ご主人」
「……だから良悟さんだって。まぁ、楽しいことばっかりじゃないけどな」
「それでも、風の気持ちよさとか、お日様の暖かさとか……人間の身体にならなければ分からなかったことばかりです」
ナホは良悟の方を向き、そのくりっとした瞳で真っ直ぐに良悟を見つめた。
「私、ご主人に恩返しをするために人間の身体を貰ったけど……今、とっても幸せです」
夕日に照らされたナホの笑顔は、どこか儚げで、息を呑むほどに綺麗だった。
良悟は一瞬だけ言葉を失い、それから照れ隠しのようにくしゃっと破顔した。
「……そうか。なら、デートの練習に来た甲斐もあったな」
「はい! これで段階のお勉強はバッチリですね!」
先ほどまでの儚げな雰囲気が嘘のように、いつもの元気なナホに戻る。良悟は苦笑しながら、ゆっくりと立ち上がった。
「よし、じゃあそろそろ帰るか」
「はい、ご主人!」
並んで歩き出す二人の影が、アスファルトの上で寄り添うように伸びていた。




