3話 早すぎた求婚
夕方、良悟は冷蔵庫の中にある食材の在庫を見てため息をついた。あるのは賞味期限の怪しい納豆と、カピカピになった生姜のチューブだけ。
先日ナホがやらかした暗黒のオムライス事件のせいで、買い置きの食材の殆どが跡形もなく消滅していた。
「夕飯の食材を買ってくるから、ナホは大人しく部屋で待っとけよ」
「待ってくださいご主人、私もいきます!」
そう言ってナホは、外出の準備をする良悟のシャツの裾をきゅっと掴んだ。
「えー……お前を連れて歩くの、色んな意味でリスクが高すぎるんだけど」
「そんなこと言わずに! せっかく人間の身体になれたのですから、もっとたくさん外の世界を見たいです! ダメ、ですか……?」
ぶかぶかの黒パーカーから首をすくめ、潤んだ瞳でじっと見つめてくる。この捨てられた子犬のような瞳に幾度となくやられっぱなしの良悟は、またしても盛大にため息をついた。
「……わかった、わかったよ。その代わり、外では絶対に余計なことを喋るなよ?」
「はいっ分かりました、ご主人!」
嬉しそうに跳ねるナホを見ながら、良悟は密かに脳内で計算する。
(伊織さんは今日、確か早番シフトだったはずだ。もうとっくに退勤してる頃だろうし、今からいつものスーパーに行けば鉢合わせることもないはず……)
だが、そんな童貞大学生の浅知恵は、無残にも打ち砕かれることになる。
◇
良悟の勤務先でもあるスーパー『ヤスヒデ』の、精肉コーナーの前。
「あ、高江君、ナホちゃん」
豚バラ肉のパックを手に取ろうとした良悟の耳に、よく知る声が届いた。振り返ると、そこには私服姿の伊織が買い物カゴを腕に下げて立っていた。
「あ、伊織さん、こんにちは!」
ナホが元気に手を振る。
「み、美原さん!? ど、どうもっす……!」
良悟は上手く言葉が発せなくなっていた。なぜ早番のはずの彼女がまだここに。
焦る良悟の内心を察してか、伊織は苦笑交じりに言った。
「今日、急にレジのシフトに穴が空いちゃって、さっきまで残業してたの」
「あっ、あー、そうだったんスね」
「今日は二人でお買い物? 本当に仲が良いのね」
「あはは、まぁ、従妹なので……」
冷や汗を流しながら取り繕う良悟。とそこへ、ナホがとんでもない爆弾を投下した。
「そうだ! 伊織さん、今からご主人の部屋で、三人で一緒にご飯を食べませんか?」
「えっ」突然の申し出に固まる伊織。
「ちょ、ちょ、ナホ! いきなり何を言い出すんだお前は!」
「だって、伊織さんも今からご飯ですよね? 大勢で食べた方が絶対に美味しいです!」
「いやいや美原さん、気にしないでください! コイツ、本当に世間知らずというか距離感がバグってて――」
すると伊織は、「ふふっ」と小さく微笑んで、おっとりした口調で続けた。
「私は全然構わないよ? 高江くんさえよければ、だけど」
「えっ、あっあっ――」
予想外の快諾に、良悟の脳内は大パニックに陥った。
(美原さんが俺の部屋に!? 変なモノは無いよな? オナホは……、そうだ今は人間になってるんだった)
「決まりですね、ご主人!」
ナホの無邪気な一言で、運命の晩餐会が確定してしまった。
◇
スーパーからの帰り道、三人は並んでアパートへの道を歩いた。
夕暮れ時の穏やかな風が吹くなか、ナホは見るもの全てが新鮮な様子。
「あ、ご主人! あの猫、いま私と目が合いましたよ!」
「伊織さん、あの看板の文字、なんて読むんですか?」
終始はしゃぎ倒しているナホ。伊織はその一つ一つに「あれはね……」と目線を合わせて優しく答えており、その光景はまるで、歳の離れた仲の良い姉妹のようだった。
良悟はその一歩後ろを、食材の入った袋を両手に抱えながら、どこか緊張の面持ちで歩いていた。
アパートに到着し、狭いワンルームに伊織を迎え入れる。
緊張で手を震わせながら良悟が作ったのは、無難だがハズさない小ネギたっぷりのチャーハンと、中華風玉子スープ。
「美味しい! 高江くん、ちゃんと料理できるんだね」
「い、いや、レシピサイトの通りに作っただけですから……!」
伊織がスプーンを口に運ぶたび、良悟は自分の心臓が口から飛び出そうになるのを必死に抑えていた。
ナホも「ご主人のご飯は世界一です!」と、どこか誇らしげな顔でモリモリ食べている。
狭い部屋に広がる、温かい空気と笑い声。憧れの女性が自分の部屋で手料理を食べているという現実に、良悟はどこか夢を見ているかのような浮遊感があった。
――しかし、平和な時間は長くは続かない。横ではナホが、本日二発目の爆弾を用意していた。
ふぅ、と満足そうに息を吐いたナホが、口元の米粒を拭いながら、真っ直ぐに伊織の方を向く。
「ご主人はとっても、とっても良い人なんです! 私のこともすごく大切にしてくれました!」
「ふふ、ナホちゃんはお兄さんのことが大好きなんだね」
「はい! だから伊織さん、ご主人と結婚してください!」
「ぶっっっ!!!???」
漫画のように、盛大に玉子スープを噴き出す良悟。
伊織もまた、持っていたスプーンを皿の上にカチャンと落とし、目を点にして完全にフリーズしている。
あまりにも段階を飛ばし過ぎた結婚の提案に、ワンルームの空気は一瞬にして凍り付く。
(ご主人! 私やりましたよ!)とでも言いたげに、沈黙の流れる部屋でナホだけが目を輝かせていた。




