2話 使命の自覚
翌朝、良悟が大学へ向かうためにアパートの玄関扉を開けると、ほぼ同時に隣の部屋のドアが開き、中から一人の女性が姿を現した。
美原伊織。良悟が品出しのアルバイトをしているスーパーで、レジチーフを務める二十四歳。同じ職場で働く二人がアパートまで同じ、それも隣同士というのは、全くの偶然の産物である。
私服姿の彼女は、職場の制服の時とはまた違う、落ち着いた大人っぽさがあった。
「あら、おはよう高江君」
良悟に気付いた伊織は、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。年上の女性特有の余裕のある振る舞いに、良悟の心臓が不意に小さく跳ねる。
「お、おはようございます、美原さん!」
少し声が上ずってしまったのを誤魔化すように、良悟は慌ててペコリと頭を下げた。
「今から講義?」
「はい、今日は二限からで。美原さんはこれから仕事ですか?」
「今日は夕方から新人の研修しなきゃいけなくて、いつもより遅めの出勤なの」
「そうなんですね、頑張って下さい」と良悟が返した、その刹那――背後でカチャリと不穏な金属音が響き、アパートの扉が再び勢いよく開いた。
「ご主人、誰とお話してるんですか?」
ひょっこりと顔を出したのは、先ほどもドアを開けるなと言いつけたばかりのナホ。
今日も黒いパーカーをだらしなく着こなしている。
「あ、こら! 勝手に出て来るなって!」
良悟の顔から一気に血の気が引いた。伊織は不思議そうな顔で、ナホと良悟を交互に見る。
「この子は……?」
伊織の問いかけに、ナホはパーカーの袖を元気よく振りながら、初対面の挨拶をぶちかました。
「初めまして! 私はご主人のオナホ――むぐぐっっ!!?」
間一髪、良悟の手がナホの口を完全に塞いだ。ナホの瞳が不満げに良悟を捉える。
「だああーーっっ!! こ、この子は俺の従妹でナホって言います! ちょっと複雑な家庭の事情があって、今だけ俺の部屋で預かってるんですよ!」
額から滝のような冷や汗を流しながら、良悟は怒涛の勢いで大嘘をまくし立てた。
伊織は一瞬呆然としたものの、すぐに納得したように優しく微笑む。
「あ、あらそうなの……。こんな可愛らしい従妹ちゃんがいたなんて知らなかったわ。美原伊織です、よろしくねナホちゃん」
良悟が恐る恐る手を離すと、ナホはペコリとお辞儀をして、これ以上ないほど明るい笑顔を返した。
「はい、伊織さん! ご主人をよろしくです!」
「……ご主人?」
伊織が再び眉をひそめる。その鋭い視線に耐えかね、良悟は引きつった笑みを浮かべながら後頭部をかいた。
「あ、あはは、なんか、最近そういうアニメにどっぷりハマっちゃってるみたいで……子供の流行りってやつです、はは……」
「あー、そう、なの? 今度そのアニメ教えてねナホちゃん。それじゃ私もう行くから、高江君も学校頑張ってね」
伊織はクスクスと笑いながら、今度こそ階段の方へと歩いていった。その背中を見送りながら、良悟はこの数分の間に縮んでしまった己の寿命について思いを馳せた。
◇
一旦部屋に戻った良悟は、脱力して床にへたり込んだ。
「お前なぁ……心臓が止まるかと思ったぞ……」
「むぅ、すみませんご主人」
すると不意に、ナホが良悟の顔を覗き込んできた。
「ご主人は、伊織さんのことが好きなんですか?」
「な、今度は何を言い出すんだよ!」
「ご主人のことなら何でも分かります。なんてったって、ずっと一緒にいましたから。伊織さんと話している時のご主人の顔を見ればすぐ分かります」
ナホの真っ直ぐな言葉に、良悟は顔を赤くしながら視線を逸らした。観念したように、小さくため息をつく。
「……まあ、優しくて綺麗で、いい人だなーとは思ってるけど。俺なんかじゃ手の届かない高嶺の花ってとこだよ」
「高嶺の花?」
「要は、俺みたいな平凡大学生じゃ相手にもされないってこと」
卑屈に笑う良悟の手を、ナホは小さな両手でぎゅっと包み込んだ。
「ご主人なら大丈夫です! 私はご主人の恋、全力で応援しますよ!」
その手のぬくもりと、一点の曇りもない応援の言葉に、良悟は少しだけ救われたような気がした。
「はは、そう言ってくれるだけでも嬉しいよ」
そう言って良悟はナホの頭を無造作に撫でた。
◇
夜。
良悟が眠りについた後、ナホは押し入れの下段といういつもの定位置で、膝を抱えて物思いに耽っていた。
暗い空間で、自分の小さな手のひらを見つめる。
(ご主人の恋を実らせること……きっとそれが、神様が私に与えた最後のお仕事なのです)
大好きなご主人に、最高の幸せを掴んでほしい。
その純粋な願いだけを胸に抱き、ナホは暗闇の中で嬉しそうに目を閉じた
(頑張って下さいご主人、ナホが全力で応援します!)




