1話 初めまして! 私はあなたのオナホールです!
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男の発する、孤独な性欲を受け止めること。それがモノとして生まれた私の使命であり、誇りでもあった。
だが、形あるものには必ず終わりが訪れる。経年劣化によって体の真ん中から二つに裂け、ゴミ袋の中へと放り込まれたとき、私の物語は静かに終わりを迎える。
――はずだった。
気付けば私は、色も音も無い、ただ果てしない静寂が満ちる空間にいた。
『――ナホよ』
不意に名前を呼ばれ、深い闇の底で意識が大きく揺らぐ。
暗闇の果てから、形を持たない何かが私を見下ろしていた。それは輪郭の曖昧な、圧倒的な威厳を放つ巨大な影だった。
「……あなたは? 私は、捨てられたはずでは……」
『我は塵塚主命、付喪神たちの神だ』
心の中に直接染み込んでくるような、低く重厚な声が響く。
『お前の主人は、お前を単なる消耗の道具としてではなく、大切に慈しむように扱ってきた。
主人の強い愛着と、その孤独を長きに渡り分かち合おうとしたお前の献身。
所有者と道具の関係を越えた美しき絆、我は心を打たれたぞ』
神様は、細く揺らめく影を私の方へと優しく伸ばした。何か形容しがたい熱のようなものが、私の中に流れ込んでくる。
『ナホという名前と、血の通う人間の肉体をお前に貸し与えよう。
モノではなく、確かな意志を持つ存在として……お前の主人に、最後の恩返しをしてくるがいい』
言葉の意味を理解した瞬間、終わりの時を待つばかりだった私の中に、ぽっと鮮烈な火が灯った。
捨てられるだけだったはずの身体に、ドクン、ドクンと、力強い生命の鼓動が宿っていく。
「――はい、神さま!」
私は歓喜に胸を震わせた。
終わったはずの私の一生が、今、再び始まろうとしている。
例えそれが、仮初の肉体だったとしても。
愛するご主人のもとへ、私は還るのだ。
◇
高江良悟、二十歳。彼女いない歴イコール年齢のまま大学二年目を迎えた彼は、一人暮らしを送るアパートの狭いベッドの上で、人生最大の恐怖に陥っていた。
小鳥のさえずりが聞こえる爽やかな朝。いつも通り目を覚まし、ふと横を見た、瞬間である。
一糸まとわぬ姿の少女が、そこにいた。
「のわあああっっ、だ、だ、だれっっ!!?」
悲鳴にも似た良悟の言葉に、少女の長い睫毛がピクリと動いた。
うーん、と小さく身悶えしたあと、くりっとした大きな瞳がゆっくりと開く。彼女は良悟の顔を見るなり、ぱあっと花が咲いたような笑みを浮かべた。
彼女は何の躊躇もなく、その瑞々しい肢体を朝の光の中に晒しながら、勢いよく起き上がった。
「ご主人! おはようございます!」
「ご、ご主人っ!?」
そのような呼ばれ方をするのは、高校生の頃に勇気を出して一度だけ行ったメイド喫茶以来だ。『そういう店』だったらしく、バイト代二ヶ月分が一撃で吹き飛んだ苦い記憶が蘇る。
「ていうかその前に、服を! 俺のパーカーでも何でもいいから、とにかく服を着てくれ!!」
ベッド際のラックに掛けてあったパーカーを適当に一つ取り、少女に投げつける。オーバーサイズの黒いパーカーを、少女は不器用な動作で身にまとった。
ぶかぶかの袖から小さな手がちょこんと覗く姿は、どう見ても十三歳程度の、やや発育の良い可愛らしい少女にしか見えなかった。
「本当に知りませんか、私の事」
「いや、マジで知らん!」
「私です、オナホールです!」
「は? お、オナ……?」
あまりにも直球すぎる単語に、良悟の思考が完全に停止した。
オナホール。思い当たる節は、無きにしもあらず。まさに昨日、長年愛用してきた逸品が、ついに寿命を迎えて真っ二つに裂けてしまったのだ。
孤独な夜の傍に居続けてくれた相棒の死。昨日良悟は涙ながらに、燃えるゴミの袋に投入したばかりだった。
「いやいやいや、無理だろ! 何言ってんだ!?」
「信じてくれないんですか? 私、ご主人との出会いは今も覚えていますよ」
少女はベッドの上にちょこんと正座し、上目遣いで良悟を見つめた。その瞳はまさしく生身の人間のもので、ウルウルと潤みを帯びている。
「駅前のビデオ屋さんの隅で、棚落ちを待つ私を手にとってくれたのがご主人でした」
「ぶふっ!?」
「私と一緒に『肉ディ◯ド宣言 ~昼も夜もボクは女上司に逆らえない~』を買っていきました。あの時のご主人の手、緊張で震えていて可愛かったです」
「やめろ、思い出すな!!」
「初めて学校の女の子に告白してフラれた日、夜中に部屋の電気を消して、その子の名前を呼びながら何度も私を抱いた夜もありましたね」
「うああああああああーーっ!!」
自分の人生における最大の恥部、誰にも言えないトップシークレットの数々を、目の前の少女はさも楽しそうにスラスラと暴露していく。良悟はあまりの恥ずかしさに両手で顔を覆いのたうち回った。
「よく利用されるジャンルは女上司、近所のお姉さん、人妻、女性上位モノ全般。好きなセクシー女優のタイプは――」
「す、ストーップ! 分かった、分かったからもうその口を閉じろ!!」
息を切らしながら、良悟は降参のポーズを取った。
にわかには信じがたい。オナホールが人間の少女になって部屋に現れるなんて、常識的に考えれば一発で精神科への受診を勧められるレベルの怪現象だ。
だが、自分しか知るはずのない情報をここまでピンポイントで、かつ正確に突きつけられては、認めざるを得ない。
良悟は大きくため息をつき、ベッドの端に腰掛けた。
「……で、オナホールさんは何で人の姿になって俺の前に現れたのさ」
すると少女は、パーカーの袖から突き出た拳をきゅっと握りしめ、胸を張った。
「それはもう! 私のことを長年大切に、優しく扱ってくれたご主人に恩返しするためです!」
「恩返し……?」
「はい! 私のことは、ナホと呼んでください! ご主人のために、私、なんでも頑張ります!」
キラキラとした、一点の曇りもない純粋な笑顔を向けてくるナホ。
ソッチ方面に傾倒する人間であれば卒倒モノのシチュエーションなのだろうが。残念と言うべきか幸いと言うべきか、良悟に少女趣味の傾向は一ミリも無い。
これから始まるであろう、平穏とは程遠い生活を予感し、彼はただただ痛む頭を抱えることしかできなかった。
◇
そうは言っても一介の学生として、講義を休むわけにはいかないわけで。
「――俺が帰ってくるまで、絶対に部屋の外に出るんじゃないぞ。いいな?」
「わかりました、ご主人!」
玄関先で、ナホは自身のパーカーの袖をきゅっと握りながら、ブンブンと手を振った。ぶかぶかの袖が宙を泳ぎ、その健気な姿はまるで、仕事に出かける父親を見送る幼い娘のようだった。
「絶ッッ対に大人しく留守番してるんだぞ? 誰か来ても居留守を使うことな」
「はい! ご主人の命令は絶対です!」
その純粋すぎる瞳に若干の不安を覚えつつも、良悟は後ろ髪を引かれる思いでアパートの扉を閉めた。
その日は、驚くほど講義の内容が頭に入ってこなかった。
教授が黒板に難解な用語を書き連ねている間も、良悟の脳裏を占領していたのは、今朝突如として我が家のベッドに出現した少女の姿。
(もし、あいつが外に出て近所の奴らに見つかったら……?)
通報、逮捕、ニュース速報――最悪の人生終了シミュレーションばかりが良悟の脳内を埋めていく。心配と焦燥感で胃がキリキリと痛み、ただ時計の針が早く進むことだけを祈っていた。
最後の講義が終わるや否や、良悟は文字通りアパートへと激走した。
息を切らしながら階段を駆け上がり、自分の部屋の前に立つ。恐る恐る鍵を開け、静かにドアを押し開けた。
「ただいま……って、うわあああああ!!?」
一歩足を踏み入れた瞬間、良悟は絶叫した。
ワンルームの狭いキッチンが、まるで爆撃を受けたかのように凄惨なことになっていた。
床には割れた卵の殻が散乱している。シンクの周囲には赤い飛沫が血痕のように飛び散り、傍らではケチャップの赤いボトルが力尽きたように転がる。
「あ、ご主人! おかえりなさい!」
その惨劇の中心で、頬にケチャップをつけたナホが、弾けるような笑みで振り返った。フライ返しを片手に握りしめながら。
「ナホ、ご主人が留守の間にご飯を作りました! 美味しく出来たでしょうかっ??」
ナホが誇らしげに見せてきたのは、お世辞にも美味しそうには見えない歪な形のオムライスだった。
卵はところどころ破れて焦げ目がつき、中から覗くチキンライスはケチャップでベチャベチャになっている。
「……お前、料理なんてするのか?」
「モノだった時、ご主人がテレビの料理番組を見ているのを、引き出しの隙間から一緒に見ていましたから! イメージトレーニングはバッチリです!」
胸を張るナホの熱意に押された良悟は、仕方なしにスプーンを取った。オムライスを一口、おそるおそる口に運ぶ。
「――ん゛っ!」
一口咀嚼した瞬間、強烈な酸味と塩気が良悟の味覚を直撃した。米の芯は絶妙に残っており、ケチャップの水分でベチャベチャになったそれは、お世辞にも『食べ物』と呼ぶには過酷なクオリティだった。
正直に言えば――絶望的なほど、まずい。
「ど、どうでしょうか……?」
捨てられた子犬のような潤んだ瞳で、感想を待ち侘びるナホ。
その健気な姿を見ていると、「まずい」という一言は、どうしても喉の奥でつっかえて出てこなかった。
「あー……そこそこ、かな。初めて作ったにしては悪くない、のかな」
「わぁっ、本当ですか!? じゃあ明日もまた作ってあげますね、ご主人!」
「いやっ料理は今度ゆっくり教えてあげるから! だからしばらくは台所に立つのはやめてくれ、マジで!」
必死に手を振って拒絶する良悟を見て、ナホは不思議そうに首を傾げていた。
◇
キッチンの大掃除を終え、時計の針が夜の十時を回った頃。
この狭いワンルームで、最も重要な問題が浮上した。寝床をどうするか、である。
さすがに同じベッドで寝るのは、良悟の理性、もとい倫理観が許さない。
「俺は床で平気だから、ナホはベッド使うか?」
良悟の問いかけに、ナホは部屋をきょろきょろと見回し、やがて押し入れの引き戸をピンと指さした。
「あそこがいいです!」
「押し入れ? そんな狭くて固いところで寝たら身体が痛くするぞ」
だがナホは良悟の静止を聞かず引き戸を開けると、吸い込まれるように押し入れの下段へスッと滑り込んだ。
薄暗い空間の中で、彼女は膝を抱えてちょこんと丸くなる。
「……私にはここが一番落ち着きます。狭くて、暗くて、ご主人の匂いがたくさんして」
パーカーのフードを深く被りながら、ナホは本当に安心したような穏やかな笑みを浮かべた。
「……まあ、ナホがそこでいいって言うなら。寒かったら、そこにある毛布使えよ」
「はい。ありがとうございます、ご主人」
「じゃあ……おやすみ、ナホ」
良悟がゆっくりと引き戸を閉めようとすると、わずかな隙間から、ナホの優しくきらめく瞳が見えた。
「おやすみなさい、ご主人。明日もナホをたくさん使ってくださいね」
「言葉のチョイスを考えろ!」
良悟は引き戸をぴっちりと閉め、部屋の電気を消した。
静まり返った暗闇の中。しばらくすると押し入れから、少女の規則正しい寝息が微かに聞こえ始めた。




