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16話 相反する想い

 翌日の昼下がり。

 良悟は大学へ、伊織は職場へと出払っている。静まり返った高江家のリビングに、ベランダからディルがのっそりと上がり込んできた。


「よお」

「あ、ディル! また勝手に入ってきて」


 不法侵入をたしなめようとするナホだったが、ディルがどこか神妙な顔をしていることに気づき、言葉を飲み込む。

 ナホの正面にどっかりとあぐらをかくと、彼は鋭い瞳を真っ直ぐに向けて切り出した。


「なあ。お前の使命って、何だっけ」


 突然の問いに、ナホは戸惑いながらも静かに答えた。

「……ご主人の恋を成就させること、です」

「ふーん」


 ディルは腕を組み、天井を見上げてふっと息を吐いた。

「昨日さ、俺も急に思い出したんだよ。神様が言ってた言葉」

「ディルの使命ですか?」

「伊織がもう一度前を向いて歩き出せるようにしろって、なんかそんなこと言ってた気がする」


 ディルは組んでいた腕を解き、自分の手のひらに視線を落とした。

 あの時、陽炎のようにうっすらと透けた、仮初めの肉体。その意味が、今の彼は理解出来た。


「俺たちって……使命を果たしたら、消えるんだよな?」

「……」


 ナホは何も言えず、パーカーの余った袖をただギュッと握った。


「ぶっちゃけさ、フツーに嫌じゃね?」

 ディルの口から飛び出したあまりにも直球な本音に、ナホは小さく肩を揺らす。


「せっかく人間の身体を手に入れたんだぜ。飯は美味いし、面白いこともいっぱいある。なのに、主人のために何かをやり遂げたらはい終わりって、なんか凄い損した気分になるよな」

「でも、それが私たち付喪神の役目ですから」


 自分に言い聞かせるように、ナホは声を震わせる。

「私は……ご主人が幸せになれれば、それで十分なんです……」

「嘘つけよ」


 ディルは容赦なくナホの言葉を遮った。その三白眼が、ナホの心の奥底を見透かすように向けられる。


「お前さ。良悟のこと、本当は好きなんだろ?」

「ご主人のことは大好きです! けど……!」


 ナホは声を張り上げた。魂の痛みを、主人への独占欲を、必死に否定するかのように。


「それ以上に私は、ご主人の幸せを願って……ご主人の恋を応援するって、そう決めて――」

「じゃあなんでお前、そんなに泣いてんの?」

「え……?」


 ディルに言われ、ナホは呆然と自分の頬に手を当てた。

 指先に触れたのは、あたたかく濡れた感触。自分の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、床に小さな染みを作っていることに、ナホは言われるまで全く気づいていなかった。


「あれ……? わたし、どうして……なんで……」


 拭っても拭っても、次から次へと溢れてくる。

 ご主人の前から消えたくない。ずっと隣で、あの美味しいご飯を食べて、笑い合っていたい。


 願わくば、ご主人の一番特別な存在になりたい――

 そんな、付喪神としては持ってはいけないはずの想いが、涙となって決壊していた。


「……でもさ。お前の気持ちも、ちょっと分かるんだよな」

「ディルも……?」

「消えるのはフツーに嫌だけどさ、それと同じくらい、伊織に寂しそうな顔してほしくねえんだよ」

 感情のこもらない声音。だがその奥では、伊織への愛情が確かな根を張っていた。


「俺、伊織にはずっと笑っててほしいって、本気で思うんだ」


 ディルは立ち上がり、ベランダの窓へと歩みを進めた。そして一度だけナホに振り返ると、心底めんどくさそうに吐き捨てる。


「なんか、面倒くさいよな。人間の心って」

 そう言い残して、ディルは隣の部屋へと帰っていった。


 一人残されたリビングで、ナホは溢れる涙を袖で何度も拭いながら、夕暮れの近づく空を眺めていた。

 消えたくないという恐怖と、主人の幸せを願う使命感。

 二つの想いに引き裂かれながらも、終わりの時間が確実に迫っているのを、ナホは感じていた。

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