15話 付喪神失格
夜、重い足取りでアパートに戻った良悟は、玄関で待っていたナホの姿を見るなり、力なくヘラっと笑った。
「ただいま、ナホ」
「おかえりなさいご主人、どうでしたか?」
「……フラれちゃったよ」
「そんな……っ!」
ナホは顔を真っ青にして、良悟に駆け寄った。
「ご主人の良さに気付かないなんて、伊織さんも見る目がなさすぎます! こんなに素敵なご主人なのに!」
良悟の傷心を我が事のように悲しみ、憤るナホ。しかしその激しい感情の向こう側で、言葉とは裏腹な小さな思いがポツリと湧き上がった。
(あれ……?)
その自覚は、ナホの心を鋭く抉る。
(私いま……安心、した……?)
もし告白が成功して、ご主人の恋が実っていたら、自分の役目は終わっていた。それはすなわち、良悟の前から自分が消えることを意味する。
フラれたことで、まだご主人の傍にいられる。そう思ってしまった自分に、ナホは強い罪悪感を覚えた。
その夜、良悟はベッドの中で天井の木目を数えていた。告白の瞬間、あれだけ昂っていた心臓は、今では嘘のように穏やかなリズムを刻んでいた。
不意に、押し入れの引き戸が静かに開いた。いつだったかクレーンゲームで獲ってやったカエルのぬいぐるみを抱きしめながら、ナホが不安そうな目で尋ねた。
「ご主人……やっぱり今日は、一緒に寝てもいいですか?」
良悟は少し驚いたが、どこか静寂が寂しかったこともあり、布団を少しめくって優しく笑った。
「いいよ、おいで」
「……ありがとうございます」
ナホは嬉しそうにベッドに潜り込み、良悟の隣にぴったりと身体を寄せた。
「ねえご主人。ご主人ならきっと、諦めなければ上手くいきますよ。お姉さんだって、本当はご主人のこと嫌いなわけじゃないです」
「……だといいな」
良悟は自嘲気味に呟き、ゆっくりと目を閉じた。
その寝顔を見つめながら、ナホもまた目を閉じる。
(ご主人の幸せが、私の幸せ。……それが私の存在する理由、ですよね、神様)
主人の恋を応援するという義務感。
同時に、いつまでも主人の傍にいたいという、付喪神としては持ってはいけないはずの、傲慢なほどの愛着。
様々な感情に引き裂かれそうになりながらも、ナホはただ、大好きなご主人の温もりを少しでも長く記憶に刻み込もうと、その背中にそっと顔を埋めた。
◇
アパートに戻ってきた伊織は、まだ胸の奥で痛みを抱えたまま、玄関のドアを開けた。
「おせーぞ伊織。腹減った、美味いもの食わせろ」
部屋に入るなり、ソファの上で退屈そうに足をぶらぶらさせていたディルが、いつも通りの不機嫌な声で要求してくる。
伊織は小さく息を吐き、その辺の床にカバンを置いた。
「はいはい、パッと準備するから待っててね」
数分後。台所から湯気を立てて運ばれてきたのは、シンプルな素うどんだった。
「うまっ! この出汁最高だな」
ディルは器に顔を突っ込むような勢いでうどんを啜り始める。その相変わらずの食べっぷりを見ながら、伊織は少しだけ心が軽くなるのを感じた。
ディルはひとしきり麺を平らげると、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば今日、良悟とデートだったんだろ? どうだったんだよ」
「……告白されたんだ」
伊織は静かに、隠すことなく事実を告げた。
「ふーん」
「……で、断っちゃった」
「なんで? 良悟はイイ男だぞ。作る飯は美味いし、お前を心配して夜中でも来てくれただろ」
不思議そうに首を傾げるディルに、伊織は膝の上で自分の手首をそっと握りしめた。
「私ね」
良悟の前では決して言えなかった、心の奥底で沈殿するように溜まっていた本音。それをぽつり、ぽつりと溢すように話し始めた。
「大切な人が目の前から突然いなくなっちゃうことが、どうしても怖いんだ」
「……?」
「自分にとって特別な相手が、ある日突然消えてしまうかもしれない、って」
最愛の家族を一瞬にして奪い去った、事故の記憶。
「そう考えたら……最初から特別なんて作らない方が楽な気がしちゃって」
自嘲するような、力のない微笑み。
「だから、高江くんの気持ちには応えられなかったの」
伊織の告白を、ディルはうどんのつゆが染みた箸をくわえたまま、じっと聞いていた。
やがて、いつものように退屈そうに鼻を鳴らす。
「ふーん。人間って、変なの」
「変、かな……」
「変だろ。人間もモノも、いつか壊れて無くなるのは一緒じゃん」
あまりにも直球で、けれど確かな本質を突いた言葉。
「だったら壊れて無くなるまで、自分の近くに置いて大事にした方がよくね?」
伊織はハッとしたように目を見張る。ディルの純粋無垢な言葉で、自分の凝り固まっていた心が、少しずつ解きほぐされていくような感覚を覚えた。
「……ふふ、そうだね。本当に、ディルの言う通りかもしれない」
「なあ。そんな事より、もっとうどん食わせろ。全然足りねえ」
「はいはい。今度はお餅でも入れてあげようか?」
「いいね、それ最高!」
伊織が立ち上がって器をキッチンに運ぼうとした、その時だった。
「……なあ、伊織」
ディルが、いつもより少しだけ低い声で呼び止めた。
「ん?」
「俺さ……伊織が悲しそうな顔してるの、なんか嫌だ」
唐突な言葉に、伊織は思わずきょとんとして、それから耐えきれずにクスクスと声を上げて笑った。
「ふふっ、なにそれ」
「あ、それ」
ディルは伊織の顔を指差し、満足そうな声で言った。
「俺、美味いモノを食うと、嬉しい気持ちで心が満たされるんだけどさ。それと同じくらい、笑ってる伊織を見てる時が嬉しいかも」
ディルの鋭い三白眼が、どこか強い意志を感じさせる光を宿して伊織を真っ直ぐに捉えた。
「だから、もっと笑ってろ」
何の打算も、飾り気も無い言葉だった。
「……なに、それ。私を励まそうとしてくれてるの?」
心がじんわり熱くなるのを感じながら、伊織はからかうように微笑んだ。ディルはすぐにふいっと顔を背け、耳を赤くしながら叫ぶ。
「知らね! 早くうどん持ってこい!」
バタバタとソファの上で暴れるディルの背中を見つめながら、伊織は今度こそ、心からの優しい笑みを浮かべた。




