14話 想いにギュッと蓋をして
「……ふぅーーーーっ」
自分の部屋に戻るなり、良悟は泥のようにベッドへ突っ伏した。
その途端、自覚していなかった疲労感がドッと押し寄せる。枕に顔を埋めたまま胸に手を当てると、心臓が未だに早鐘を打っていた。
「ご、ご主人……? 大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込んでくるナホに、良悟はゆっくりと顔を上げた。
「ナホ……俺、誘っちゃった……。美原さんと、二人きりで、ご飯」
「わあぁ……!」
ナホの表情がパッと華やぎ、胸の前でパチパチと手を叩いた。
「すごいですご主人、凄い進歩です!」
「ありがと、ナホ……」
良悟はのそりと起き上がり、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
嬉しさはもちろんある。だがそれ以上に、伊織がいなくなってしまう現実への焦りと、デートで大人の女性を満足させられるのかという不安が混ざり合い、脳内は完全キャパオーバー状態だ。
「服、何着ていけばいいんだ? どこ連れてったら喜んでくれる? 大学生が行くような安い居酒屋じゃダメだよな……。あーどうしよ、緊張で死ねる……」
良悟はクローゼットを開け、ブツブツと独り言を呟きながら当日の服装を吟味し始めた。
そんな恋する男子の後ろ姿を見ながら、ナホは――
(――よかったですね、ご主人)
そう、心の底から思っていた。良悟の恋がようやく動き出してくれたことが、嬉しくてたまらなかった。
なのに――。
(あれ……? なんでこんな、胸が痛いんだろう……)
ドクドクと脈打つ心臓が、まるで万力で強く締め付けられるように痛む。ご主人の幸せを願う気持ちに嘘偽りはないのに、どうしてか、熱い涙で視界がじわりと滲んでいく。
良悟にその涙を気づかれないよう、ナホはそっと自分の胸元を両手で押さえた。
そのとき自分の指先に、冷たい感触が走った。
「え……?」
裾の隙間から覗く白い手首、そこから指先にかけて、うっすらと透けていた。
ディルの身に起きていたのと同じ現象が、自分の身体にも確実に訪れている。
「あ……っ」
ナホは息を呑み、慌ててぶかぶかの袖の中にその手を隠した。
好きな相手を食事に誘うという、大きな一歩を踏み出した。それは、ナホが人間の身体を与えられた時の使命――主人の恋の成就というゴールに近づいたことを意味していた。
「なぁナホ、どっちのシャツがいいと思う? こっちの青か、それとも無難に白かな」
必死な顔で服を身体に当てながら、良悟が振り返る。
あとどれだけ、その傍にいられるのだろう――ナホの心の中に、痛いような、熱いような、冷たいような感情が込み上がる。
「こ、こちらの青い方が、ご主人にはお似合いだと思います!」
ナホは溢れそうになる涙を必死に引っ込め、いつも通りの明るい笑顔を作ってみせた。
大好きな主人に、もうすぐ自分は会えなくなる。二度と、その名前を呼んでもらえなくなる。
その残酷な事実は、ナホの心に深く冷たい杭のように打ち込まれ、彼女の胸を激しく苦しめ続けた。
◇
約束の週末。街は穏やかな陽気に包まれていた。
良悟と伊織は、少し背伸びをしたお洒落なイタリアンで食事を楽しみ、その後は静かな公園を散策した。普段のバイト先で見せるお互いの姿とは違い、私服で並んで歩く時間はどこか新鮮で、会話は途切れることなく弾んだ。
仕事の話や、良悟の大学の話。そして、お互いの居候の話。伊織は何度も声を上げて笑い、良悟はそのたびに胸をときめかせた。
夕暮れが近づき、楽しかった時間の終わりが迫るにつれ、二人の間にはどこか切ない静寂が流れ始める。
オレンジ色に染まる並木道で、良悟は歩調を緩めた。
夕日に照らされた伊織の横顔に、心臓が爆発しそうなほど激しく脈打つのを感じる。ここで言わなければ、もう二度と伝えるチャンスはないかもしれない。
「美原さん」
良悟は、伊織の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺……美原さんのことが好きです」
その言葉に伊織は、小さく息を呑んだ。
良悟は震えそうになる声を必死に堪え、ずっと胸に秘めていた想いを言葉として紡いでいく。
「最初は、ただキレイな人だなっていう憧れだけでした。でも一緒にご飯を食べたり、色んな話をしたりしていく内に……」
脳裏に浮かぶのは、狭い食卓で笑い合った記憶。
「美原さんの優しいところとか、たまに見せる可愛い笑顔とか……そういうの全部、もっと好きになりました」
一呼吸置き、良悟は小さく一歩、彼女へと踏み出す。
「俺……大学を卒業したらすぐに美原さんを迎えにいきます。だから、俺と――」
「ごめんなさい、高江くん」
その先を言わせないように、伊織は良悟の言葉を静かに遮った。
夕暮れの光の中で、伊織の瞳が悲しげに揺れている。彼女は視線を少しだけ伏せ、自分に言い聞かせるように言葉を選ぶ。
「高江くんはまだ若いし、これからもっと素敵な人にもたくさん出会うと思うから……」
そう言って伊織は、いつもの優しい、だがどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「でもね、好きって言ってくれて本当に嬉しかった。ありがとう」
大人の余裕というよりは、これ以上踏み込ませないための、どこか必死な拒絶のようにも聞こえた。
フラれたのだと理解した瞬間、良悟の心はガツンと痛み、視界が歪みそうになった。けれど彼は自分の感情をグッと堪え、無理に笑顔を作って軽く頭を下げた。
「……分かりました。突然困らせるようなこと言って、すみません」
そして顔を上げ、もう一度だけ、伊織としっかり目を合わせた。
「でも、伝えられて良かったです。俺、女性にちゃんと告白するの、人生で初めてだったんです」
良悟は少しだけ照れくさそうに頭をかき、心からの感謝を伝えた。
「……真剣に聞いてくれて、ありがとうございました」
「高江くん……」
どこまでも真っ直ぐで、フラれた後でさえ自分を気遣ってくれる良悟の優しさと誠実さ。
その純粋さに当てられて、伊織は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
けれど今日この後、二人がそれ以上お互いの本音を言葉にすることは、なかった。




