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13話 テンキン? 何それ美味いのか

 辞令通達の日の夜。帰宅した伊織は、上着を適当に脱ぎ捨ててベッドの端にぽつんと腰掛けた。


「おい伊織、遅いぞ。今日の飯は何だ?」

 いつも通り、不遜な顔をしたディル。伊織は少しだけ躊躇った末、静かに口を開いた。


「……ねぇディル。私、来月になったら、ここからずっと遠い場所に転勤しなきゃいけなくなっちゃった」

「テンキン? 何だそれ」

「別の場所でお仕事をすることになったの。だからもう、このアパートにはいられなくなるんだよ」


 伊織の言葉をじっと咀嚼するように、ディルは沈黙した。

 彼女の暗い表情から、それが決して楽しいお出かけではないことだけは、ディルは直感的に察した。



 翌日の昼下がり。

 良悟が大学の講義へ出かけ、伊織が仕事で留守にしている時間帯。良悟の部屋のベランダで、二人の付喪神が密かに顔を合わせていた。


「なぁ、ナホ」

 ディルはベランダの手すりに背を預け、どこか釈然としない顔でナホを見下ろした。


「なんですか、改まって?」

「なんかよく分からないけどさ、テンキンってやつで伊織が遠い所に行くらしいんだよ」

「遠い所……?」

「もうこの部屋には戻ってこないって」

「それって、もうご主人とも会えなくなるっていうことですか!?」

「さあ? とにかくあいつ、昨日すげえ暗い顔してた」


 ぶっきらぼうな、だがどこか焦りを含んだ言葉。ナホは胸が引き裂かれるような、キリキリとした痛みを感じた。


(このままじゃ、ご主人の恋が……!)



「ただいまー……」と、帰宅した良悟がカバンを置いた瞬間、ナホが涙目になりながら良悟の服の裾を掴んだ。


「うおっ!? 急になんだよナホ」

「ご主人、大変です!」

「落ち着けって。何があったんだよ」


 良悟が苦笑しながらナホの肩を押さえようとするが、ナホはそれを振り払うようにして、大声を張り上げた。


「お姉さんが、てんきん? というもので、遠い所に行ってしまうらしいですよ!」

「え……?」

 良悟の身体が、一瞬で硬直した。


「もう、このアパートには戻ってこないって、ディルが言っていました……! 来月にはいなくなっちゃうんです!」

「美原さんが……転勤……?」


 良悟の脳裏に、あの優しい微笑みや、一緒に夕飯を食べた時の光景が、走馬灯のように駆け巡る。

 突然突きつけられた残酷な現実に、良悟はただ、言葉を失って立ち尽くすことしかできなかった。



 良悟たちが勤務するスーパーのバックルーム。売り場に繋がる通用口から店内放送の軽快な音楽が流れて来る。

 そこで伊織と二人になるタイミングを見計らい、良悟は意を決して、頭の中で燻っていた疑問をぶつけた。


「美原さん……転勤って、本当ですか?」

 驚いたように目を丸くする伊織。すぐに全てを察したように、困ったような苦笑いを浮かべる。


「もしかして、ディルが何か喋っちゃった?……ごめんね高江くん、隠すつもりはなかったんだけど」

「具体的に、いつ行くんですか?」

「来月の一日づけ。急な話だったから、高江くんにはちゃんと心の整理がついてから話そうと思ってたの」

「そうですか……」


 良悟の視線が、所在なさげに床へと落ちる。分かっていたこととはいえ、本人の口から直接突きつけられると、胸の奥が鉛のように重くなった。

 引き止める権利なんて、自分にはない。まだ親の仕送りやバイト代で暮らしている大学生の自分と、正社員として責任ある仕事を任されている大人の伊織とでは、背負っているものが違いすぎる。

 けれど、このまま何もできずに彼女を見送るだけというのは、どうしても耐えられなかった。


「あの……もし嫌じゃなければなんですけど」

 声が上ずりそうになるのを必死に我慢しながら、良悟は平静を装った声で伊織と真っ直ぐ目を合わせた。

「最後にどこか二人で、食事でも行きませんか?」


「えっ……」

 伊織の瞳が、かすかに揺れる。

 突然の誘いに戸惑うかのように、伊織は言葉を詰まらせた。良悟の心臓が痛いほどの音を立て始める。


 断られるかもしれない――良悟がそう覚悟した瞬間、伊織はいつもの優しい微笑みを浮かべた。

「……うん。私でよければ」

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