13話 テンキン? 何それ美味いのか
辞令通達の日の夜。帰宅した伊織は、上着を適当に脱ぎ捨ててベッドの端にぽつんと腰掛けた。
「おい伊織、遅いぞ。今日の飯は何だ?」
いつも通り、不遜な顔をしたディル。伊織は少しだけ躊躇った末、静かに口を開いた。
「……ねぇディル。私、来月になったら、ここからずっと遠い場所に転勤しなきゃいけなくなっちゃった」
「テンキン? 何だそれ」
「別の場所でお仕事をすることになったの。だからもう、このアパートにはいられなくなるんだよ」
伊織の言葉をじっと咀嚼するように、ディルは沈黙した。
彼女の暗い表情から、それが決して楽しいお出かけではないことだけは、ディルは直感的に察した。
◇
翌日の昼下がり。
良悟が大学の講義へ出かけ、伊織が仕事で留守にしている時間帯。良悟の部屋のベランダで、二人の付喪神が密かに顔を合わせていた。
「なぁ、ナホ」
ディルはベランダの手すりに背を預け、どこか釈然としない顔でナホを見下ろした。
「なんですか、改まって?」
「なんかよく分からないけどさ、テンキンってやつで伊織が遠い所に行くらしいんだよ」
「遠い所……?」
「もうこの部屋には戻ってこないって」
「それって、もうご主人とも会えなくなるっていうことですか!?」
「さあ? とにかくあいつ、昨日すげえ暗い顔してた」
ぶっきらぼうな、だがどこか焦りを含んだ言葉。ナホは胸が引き裂かれるような、キリキリとした痛みを感じた。
(このままじゃ、ご主人の恋が……!)
◇
「ただいまー……」と、帰宅した良悟がカバンを置いた瞬間、ナホが涙目になりながら良悟の服の裾を掴んだ。
「うおっ!? 急になんだよナホ」
「ご主人、大変です!」
「落ち着けって。何があったんだよ」
良悟が苦笑しながらナホの肩を押さえようとするが、ナホはそれを振り払うようにして、大声を張り上げた。
「お姉さんが、てんきん? というもので、遠い所に行ってしまうらしいですよ!」
「え……?」
良悟の身体が、一瞬で硬直した。
「もう、このアパートには戻ってこないって、ディルが言っていました……! 来月にはいなくなっちゃうんです!」
「美原さんが……転勤……?」
良悟の脳裏に、あの優しい微笑みや、一緒に夕飯を食べた時の光景が、走馬灯のように駆け巡る。
突然突きつけられた残酷な現実に、良悟はただ、言葉を失って立ち尽くすことしかできなかった。
◇
良悟たちが勤務するスーパーのバックルーム。売り場に繋がる通用口から店内放送の軽快な音楽が流れて来る。
そこで伊織と二人になるタイミングを見計らい、良悟は意を決して、頭の中で燻っていた疑問をぶつけた。
「美原さん……転勤って、本当ですか?」
驚いたように目を丸くする伊織。すぐに全てを察したように、困ったような苦笑いを浮かべる。
「もしかして、ディルが何か喋っちゃった?……ごめんね高江くん、隠すつもりはなかったんだけど」
「具体的に、いつ行くんですか?」
「来月の一日づけ。急な話だったから、高江くんにはちゃんと心の整理がついてから話そうと思ってたの」
「そうですか……」
良悟の視線が、所在なさげに床へと落ちる。分かっていたこととはいえ、本人の口から直接突きつけられると、胸の奥が鉛のように重くなった。
引き止める権利なんて、自分にはない。まだ親の仕送りやバイト代で暮らしている大学生の自分と、正社員として責任ある仕事を任されている大人の伊織とでは、背負っているものが違いすぎる。
けれど、このまま何もできずに彼女を見送るだけというのは、どうしても耐えられなかった。
「あの……もし嫌じゃなければなんですけど」
声が上ずりそうになるのを必死に我慢しながら、良悟は平静を装った声で伊織と真っ直ぐ目を合わせた。
「最後にどこか二人で、食事でも行きませんか?」
「えっ……」
伊織の瞳が、かすかに揺れる。
突然の誘いに戸惑うかのように、伊織は言葉を詰まらせた。良悟の心臓が痛いほどの音を立て始める。
断られるかもしれない――良悟がそう覚悟した瞬間、伊織はいつもの優しい微笑みを浮かべた。
「……うん。私でよければ」




