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12話 甘えん坊モードの日 ~お隣さんの場合~

 その日、ディルは朝からどことなく落ち着きがなかった。


 部屋のテレビを見ていても、ソファの上で寝転がっていても。数日前、伊織の部屋で一瞬だけ陽炎のように透けた右手の感覚が、頭の片隅から離れようとしない。


(どっかのネジが緩んでるのか? いやこの身体にネジはねえか)


 いくら考えても答えは出ない。ただ漠然とした焦燥感だけが、心の中で燻り続けていた。

 そんなディルの様子を知ってか知らずか、伊織は朝からいつになく張り切った様子で、クローゼットの前で服を選んでいた。


「よし、今日の服はコレ!」

 胸元にレースのリボンがあしらわれた、ガーリーな雰囲気のカーディガンを着た伊織が、姿見の前でキメ顔をした。


「お待たせディル! 今日は看病の時のお礼も兼ねて、ちょっとお高めのステーキ屋さんに行こっか」


 その表情はいつものレジチーフとしての張り詰めた大人の顔ではなく、どこか少女のような純粋な輝きを放っている。

 その笑顔を見たディルの心臓が、不意に鼓動のリズムを早めた。


「ステーキ? なんかテレビでやってたな、分厚い肉を鉄板で焼くやつだ」


 わざとそっけなく鼻を鳴らし、ディルはソファから立ち上がった。

「伊織がそう言うなら付き合ってやるよ」

「もう、素直じゃないんだから。ほら早く準備して、今日はお腹いっぱい食べようね!」


 伊織は嬉しそうにディルの背中をポンと叩く。その手のひらの感触が、なぜだか今日のディルにはいつも以上に心地よく、そして少しだけむず痒く感じられた。



 休日ということもあって、商店街は多くの人々で賑わっていた。

 いつもなら、ディルは伊織の手を振り切って、目につく買い食いスポットへと片っ端から突撃していくところだった。しかし今日は、伊織の斜め後ろから大人しくついて来ている。


「どうしたのディル、今日はやけにお利口さんだね」

 不思議そうに振り返る伊織に、ディルはぶっきらぼうに返した。

「あ? 別にフツーだろ」

 伊織が可笑しそうにクスクスと笑う。


 その笑い声を聞きながら、ディルの胸の中で、これまで感じた事のない種類の熱が広がった。


(……何だ、これ)


 ディルにとって、伊織という存在は『美味いものを食わせてくれる便利な奴』でしかなかった。

 人間になったのも、ただ飯を食うため、世界を楽しむため。神様が言っていた恩返しなどという言葉には、鼻で笑うほど興味がなかった。

 なのに今、隣で楽しそうに笑っている伊織を見ていると、胃袋が満たされるのとは全く違う、奇妙な満足感が胸の奥に広がっていくのが分かった。


「……伊織」

「ん、なに?」

「……やっぱ、なんでもない」


 この感覚が何なのか聞こうとして、やめた。ディルは伊織のカーディガンの裾をちょこんと摘みながら、彼女の後をついていった。



 目的のステーキ屋は、目の前の鉄板でジューシーな塊肉を焼き上げてくれる本格的な店だった。

 じゅうじゅうと激しい音を立て、溢れんばかりの肉汁を乗せたぶ厚いリブロースステーキが目の前の皿に乗せられると、ディルの目はいつも通り爛々と輝いた。


「うおっすげえ! でけー!」

「ふふ、本当に美味しそうね。熱い内に食べよ」


 ディルはナイフで肉を切り分け、大きな塊を口へと放り込んだ。

 暴力的なまでの肉の旨味と、香ばしいガリックソースが口いっぱいに広がる。ディルにとってそれは、至福の瞬間だった。


「うまっ! 最高だな、これ!」


 目の前の肉にはしゃぐディルを見て、伊織が言った。

「私さ、ディルが美味しそうにご飯を食べてるのを見るの、結構好きなんだよね」

 伊織は自分の分のステーキを小さく切り分けながら、幸せそうに目を細めた。


「弟もね、本当に食べることが大好きな子で。私が作ったお弁当とか、一緒に外食したときとか、いつも今のディルみたいに美味しそうに食べてて」

 伊織の静かな言葉は、遠い過去を愛おしむような、そんな響きだった。

「……なんだかあの頃に戻ったみたいで、すごく懐かしくて、暖かい気持ちになるんだ」


「ふーん」

 モグモグと口を動かしながら、そっけない返事のディル。


「ディル。私の所に来てくれて、ありがとね」

 伊織の表情から、なにやら寂しそうな気持ちを、ディルは感じ取っていた。


 以前の彼なら「ふーん」と一言で片付けて、次の肉を口に運んでいただろう。けれど、今は違った。

 伊織の瞳の奥に寂しそうな色が混ざるのを見た瞬間、ディルは心の内側を小さな針でチクリと刺されたような痛みを覚えた。



 夕暮れ時。商店街の帰り道を、二人は長い影を引きずりながら並んで歩いていた。


「ふぅ~、今日はいっぱい食べちゃったねえ」

 伊織は満足そうに伸びをして、隣を歩くディルを見下ろした。


「ねえディル。また美味しいもの食べに行こうね」

「……おう」


 その時、商店街のガラス窓にふと自分の姿が映った。夕暮れの光のせいか、一瞬だけ、自分の足元が背景に溶けるように淡く歪んで見えた。

 ディルは小さく首を傾げたが、すぐに視線を前に戻す。

 今はこの温かい時間の余韻に、静かに浸っていたいと――そんなことを思った。



 翌日の午後。勤務先のスーパーの事務室で、伊織は店長に呼び出されていた。


 机の上には一枚の書類。そこには、太い字で『辞令』と書かれている。

「というわけで、美原チーフ。来月の一日付で、新店舗への異動をお願いしたい」


 ――他県への転勤。正社員である以上、いつかはそういう話もあるだろうと覚悟はしていた。けれど、いざ突きつけられた一ヶ月後という具体的な数字は、あまりにも唐突で重く、伊織の呼吸は浅く乱れた。

 頭に浮かんだのは、住み慣れたアパートの景色。そして何より――隣の部屋の、不器用で優しい大学生と、その周りにいる騒がしい居候たちの笑顔だった。

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