11話 甘えん坊モードの日
楽しい夕食会が終わり、自分たちの部屋に戻ってから。
寝る支度を済ませ、押し入れの定位置に潜り込んでからも、ナホの心に生じた小さなざわつきは消えなかった。
ディルの指先が、ほんの一瞬だけ透けた、あの光景。
彼自身はまだ何も気づいていない様子だった。けれど同じ神様の奇跡によって人の身を授かったナホには、それが何を意味するのかが痛いほどによく分かってしまった。
終わりが近い。
与えられた使命を達成した時、神様との契約は満了する。付喪神として与えられた人の身体は塵に還り、魂は天へと昇る。
ディルの具体的な使命が何かは分からないが、ナホに課せられたそれは、確信めいたものがあった。
――ご主人の恋を、成就させること。
その恋が実った瞬間、自分の身体と魂は、大好きな良悟の前から消えてしまう。心臓がキュッと締め付けられるような恐怖を覚え、呼吸が苦しくなる。
良悟の幸せが自分の幸せだと、それだけを純粋に信じて疑わなかった。塵に還る定めすら、当然の運命として受け入れていたはずだった。
なのに人間の身体を手に入れて、良悟の作ったご飯を食べて、一緒に街を歩いて、笑い合って――
その温もりを知ってしまった今のナホにとって、「ご主人の前から消える」という未来は、涙が溢れそうになるほどに恐ろしく、切ないものに変わっていた。
「ご主人……」
押し入れの引き戸を、ほんの少しだけ開ける。
部屋の明かりはすでに消えていたが、ベッドの上で静かに寝息を立てている良悟の輪郭が、月明かりに照らされてぼんやりと浮かんでいた。
ナホは音を立てないように押し入れから這い出ると、吸い寄せられるように良悟のベッドの脇へと歩み寄った。床に膝をつき、じっとその寝顔を見つめる。
いつも不器用で、自分の行動に右往左往してばかりいる、大好きなご主人。
誰よりも優しくて、あたたかい人。
(ナホはもっと、ご主人のお傍にいたいです)
抑えきれない愛情が胸から溢れ出し、ナホはそっと、良悟の布団の端を握りしめた。
◇
「うわっびっくりした……! なんだ、ナホか……」
翌朝、良悟が目を覚ますと、すぐ目の前にナホの顔があった。
ナホは良悟のベッドのすぐ横の床に座り込んだまま、じっと良悟の顔を見つめていた。その瞳がいつもより少しだけ潤んでいるように見えて、朝からペースを乱される。
かと思えばすぐ笑顔が咲いて、
「おはようございます、ご主人!」
元気の良い声。いつものナホだ。
「どうしたんだよ、朝から変だぞ」
「ふふっ、なんでもありません」
ナホは普段通りの調子で勢いよく立ち上がった。
「ご主人、今日は大学もお仕事もお休みですよね? 今日は一日中、ずーっと一緒にいてくれますか?」
いつも以上に距離が近く、心なしか必死な様子のナホに、良悟は少しだけ面食らう。
「まぁ、今日は特に予定もないけどさ。なんだよ急に、甘えん坊モードか?」
「はい! 今日はご主人にたくさん甘えるって決めたのです!」
ナホはふんすと鼻を鳴らして、良悟の着ていたスウェットの袖をぎゅっと掴んだ。
その小さな手の強さに、やれやれと苦笑しながら、彼女の頭を撫でた。
「分かったよ。じゃあ午前中のうちに洗濯と掃除だけ終わらせちゃうから、手伝えよ?」
「はい! 何でもやります!」
それからのナホは、まるで良悟の影にでもなったかのように、一歩も後ろを離れようとしなかった。
良悟がベランダで洗濯物を干していれば、狭いベランダに無理やり一緒に出てきて、カゴの中の洗濯物を「はい、ご主人!」「次はこちらです!」と手際よく手渡してくる。
「ナホ、そんなにぴったりくっつかれたら動きにくいんだけど」
「これが私の最適ポジションですから!」
背中にぴったりとくっついてくるナホの体温が、パーカー越しに伝わってくる。女の子特有の、ほんのりと甘い匂いが鼻腔をくすぐり、良悟は気恥ずかしさを感じた。
「お前なぁ……、本当に距離感バグりすぎ……」
「えへへ、だってご主人の近くが一番落ち着くんですもん」
屈託なく笑うナホの顔を見ていると、強く突き放すことなど到底出来なかった。
お昼過ぎには二人でリビングのテーブルの前で、一緒にテレビを見ていた。
良悟がベッドに背を預けて座っていると、ナホがするすると近づいてきて、ごく自然に良悟の太ももの上に自分の頭をぽすんと乗せてきた。
「ちょ、何してんだお前は!?」
突然の膝枕に慌てふためく良悟。
「んむ……ご主人の太もも、ちょうどいい柔らかさで最高です……」
ナホは良悟の動揺などどこ吹く風で、気持ち良さそうに目を細めて足をパタパタと揺らしている。
「おい、俺は枕じゃないぞ」
「ふふん、今日はご主人にたくさん甘える日ってさっき約束しました」
ナホはくりっとした上目遣いで良悟をじっと見つめる。
だがナホの楽しそうな声音が、一瞬だけ不安そうに揺らいだのを、良悟は見逃さなかった。
「ナホ……お前、やっぱり何かあったのか?」
良悟が声を和らげ、心配そうに尋ねる。
ナホは少しだけ視線を泳がせ、それから良悟の大きな手を両手で包み込むようにして握りしめた。
「……ねえご主人。私、ご主人のオナホールだったときも、毎日とっても幸せでしたよ」
「ぶっっ、だからそのワードを不意打ちで出すなよ……!」
「ご主人が優しく触れてくれるだけで、私は世界で一番愛されている道具だって、誇らしかったんです」
ナホは握った良悟の手を、自分の頬にそっと押し当てた。温かい皮膚の感触が、良悟の手のひらに直接伝わってくる。
「人間の身体になって、こうしてご主人の手に直接触れて、お名前を呼んで、笑い合えるようになって……もっともっと幸せになっちゃいました」
ナホはまるで慈しむように、良悟の手をふにふにと触った。
「人間って、欲張りですね。一度この温もりを知ってしまうと、もっとずっと一緒にいたいって、贅沢なことを考えてしまうのです」
ナホの声は優しく、同時にどこか遠くへ行ってしまいそうな儚さがあった。
「ナホ……?」
目の前の少女が何を不安がっているのか、その正確な理由は分からない。けれど彼女が今、猛烈な寂しさと戦いながら、自分への愛情を必死に伝えようとしていることは、痛いほどに伝わってきた。
良悟は深く息を吐き出すと、繋がれていない方の手で、ナホの柔らかな黒髪を撫でた。
「……俺も、ナホがいて楽しいよ」
「ご主人……?」
「だからさ、そんな寂しそうな顔するなよ。ずっと一緒にいてやるから」
不器用ながらもまっすぐで、嘘偽りのない言葉。
それを聞いた瞬間、ナホの瞳から一粒の涙がはらりと溢れ落ち、白い頬をツーッと伝った。
「……はい。はい、ご主人……っ」
ナホは涙を溢れさせながらも、今までにないほど幸せそうな、満開の笑顔を咲かせた。
主人を愛せば愛するほど、いつか訪れる別れが怖くなる。この温もりを失う日が来るなんて、考えたくもない。
けれど、それでも――
(私は最後の瞬間まで、ご主人のことを全力で愛します。ご主人の隣で、精いっぱいの恩返しをしてみせます)
ナホは良悟の手をさらに強く握りしめ、その感触を自分の魂に焼き付けるように、何度も何度も頬をすり寄せるのだった。




