17話 美味しいご飯より守りたいもの
「――よし。これで大体片付いたかな」
転勤先への引っ越しを間近に控え、伊織の部屋は少しずつ段ボールで埋まり始めていた。
今夜のメニューは、冷蔵庫に残った食材を文字通り何でも突っ込んだ、強いて名付けるとするなら「何でもアリ鍋」だ。
白菜にネギ、中途半端に残っていたお肉や豆腐、果ては冷凍庫の隅で眠っていた水餃子まで。
大きな土鍋から、出汁のいい香りと白い湯気が立ち上る。
「うまっ! このスープ、色んな肉の味がして最高だな!」
フーフーと息を吹きかけ、ディルは次々と具材を口に運ぶ。
「寄せ集めだけど、美味しくできて良かった」
するとディルは箸を持ったまま、思いついたように立ち上がった。
「なあ伊織! こんなに美味いんだから、良悟たちにも食べさせようぜ」
「えっ、ちょ、ちょっとディル! 待ちなさいって!」
伊織の制止も聞かず、ディルは玄関の扉を開け飛び出していった。
その数十秒後には、半ば無理やり連れてこられた良悟が、目を白黒させながら「ど、どうも」と言って姿を見せた。その隣にはナホもいる。
「ディル君が絶対来いって……美原さん、大丈夫でした?」
「あっ、あー、うん! 折角だから食べてって」
メニューはちょっと恥ずかしいけど――と、伊織は小声で呟いた。
こうしてディルの独断により、伊織の部屋でなし崩し的に鍋パーティーが開催された。
あの告白の日以来、少しだけギクシャクしていた伊織と良悟。だが鍋の湯気と、ディルとナホの騒がしい具材の奪い合いで、自然と笑い声が溢れていた。
「あぁっディル! その水餃子は私が狙っていたのです!」
「うるせっ早い者勝ちだ!」
「美原さんの部屋で暴れるなって……」
良悟が苦笑しながらディルの頭を軽く小突く。その様子に、伊織は嬉しそうに目を細めた。
(……あぁ、やっぱり、楽しいな)
一人の部屋で半額弁当を買っていた頃は、想像もつかなかった賑やかさ。
この日常と、もうすぐ離れなければいけない。その現実が、湯気の向こうからチクリと胸を刺すかのように感じた。
やがて夜が更け、鍋の活気の余韻を残して良悟とナホが隣の部屋へと帰っていった。
静かになった部屋で、伊織は土鍋をシンクへと運び、ふぅと小さくため息をつく。
「伊織」
背後からディルが声をかけてきた。振り返ると、彼はソファの上に座り、どこか真剣な目で伊織のことを見ていた。
「どうしたのディル、まさかまだお腹空いてるなんて言わないよね?」
「……伊織さ、やっぱり良悟がいる時が、一番幸せそうな顔してる」
「え……っ?」
唐突な指摘に、伊織は持っていたスポンジを落としそうになった。
「そ、そんなことないよ。私はいつも通り――」
「俺、いつも伊織と一緒にいたから分かるんだよ」
ディルはソファから立ち上がり、伊織の前に歩み寄った。その小さな身体から放たれる真っ直ぐな言葉が、伊織の胸の壁に穴を空ける。
「伊織さ、やっぱり良悟と結婚しろよ」
「け、結婚って、何言ってるのディル! 高江くんはまだ大学生だし、私はもうすぐ遠くに行っちゃうし……!」
「遠くだろうがなんだろうが関係ねえだろ。あいつと離れたら、伊織はまた一人で寂しそうな顔に戻るんだろ」
覚悟の決まったような目で、強く伊織のことを見据えて――
「俺、伊織にはずっと笑っててほしいんだ」
――例え、自分の身体が塵に還ることになろうとも。
それは、人間として美味しいモノを食べるよりもずっと大事なことに気付いた少年の、大きな決意だった。




