朝の一席
しばらくするといい匂いが小屋の中に漂った。
匂いを嗅ぎつけたように、羊飼いの二人が階段を下りて来た。
「いい匂いだ」
「これは朝からご馳走だ」
アンドレアスとヘロンは炉端までやって来て火に当たった。
美味しそうなスープを掻き混ぜているエドフィーユは、慈母の笑顔のままに言った。
「もうすぐ出来るわ。少し待ってね」
アンドレアスとヘロンがうっとりとそれを見ているのも束の間、二人は外にいたエルハルトに呼ばれ、羊達の放牧へと出て行った。
とは言え羊達を囲いから出して高原牧草地の野に放てば、後は外にあるテーブルから見ているだけでいい。
「山を上がらなくていいなんて!」
「今日の仕事は何て楽なんだー」
アンドレアスとヘロンはそう言って、テーブルに座り羊達を見ていた。
その横でエルハルトは含み笑いをして言った。
「夏の間は牛達も連れて来てここで泊まるので、毎日こんな感じです。その理由が判るでしょう」
「楽すぎて、何をしようか困るくらいだ」
「ただ、池を過ぎて行くと崖や滝があるので、そっちへ行かないように注意が必要です。あとは何か時間つぶしを考えておく方がいいですね。羊達をほったらかさない程度にですが」
「何しよう?」
「山菜採りが良さそうだ」
「後で食べられるしな」
「後で何が料理にいるか、エドフィーユさんに聞いておくといいですよ」
そうしていると、エドフィーユが出来上がったスープを表のテーブルへ持って来てくれた。
「スープが出来たわ」
「待ってました」
「ありがとう」
男達は拍手でエドフィーユを迎えた。
「山菜と山芋のパンスープよ。もうパンが入っていて、古いパンも軟らかくて食べやすいでしょう?」
男達三人はそこで朝食を食べた。
「これもおいしいですね」
「朝からこんなご馳走。ありがたいです。ここは天国じゃないだろうか」
「いやあ、ぼくは幸せだなー」
エドフィーユはそれほどでもと笑って言った。
「こんな風景を見ながら朝食だなんて、ここは特等席ね。セネカが起きてこないし、私もここで食べようかしら」
「どうぞどうぞ」
「奥さんなら大歓迎です」
アンドレアスとヘロンは一つ空いた席を勧めた。
エドフィーユは外のテーブルに自身のスープを持って来て、そこで朝食を食べた。
高原の風景を見ながらの朝食は、やはり贅沢な気持ちになれた。
「この風景がご馳走ね。雨が上がって良かったわ。今日のこの後のお天気は如何かしら?」
エドフィーユはエルハルトに聞く。
「今日は曇りのち晴れですね」
エルハルトは事も無げに言うが、空を見ればまだ曇り空だ。
「曇でも?」
「だんだん雲は晴れているでしょう?」
「そうね。でも曇でも判るなんて少し驚きだわ」
「今は空が落ち着いてますからね。でもお昼過ぎはあまり保証出来ません」
そうして食事を終えた頃、ペルシタがカモミールティーを持って来てくれた。
「お飲み物をどうぞ」
「お気遣いをありがとうございます」
「いただいてばかりでは申し訳ありませんからね」
ペルシタの後ろからはクヌフウタもやって来て、小さく伸びをして景色を見た。服は普段なら修道服の下に着るような、白い素服を着ている。
「大分元気になったようね」とエドフィーユは声を掛けた。
「お陰さまで今日は調子がいいです。鹿のスープがとても良かったようです。心から感謝を」
クヌフウタはテーブルに近付いて、心を込めて礼を取った。それは自然でいて上品で、エレガントな仕草だった。
そのあまりに高貴な雰囲気に当てられた羊飼い達は、飲み物を辞退して「ここをどうぞ」と席を譲った。
クヌフウタとペルシタは礼を言ってテーブルへ座り、そしてそこでカモミールティーを一服飲んで風景に浸った。
「ここはやっぱり最高の一席ですね」
席に残っていたエルハルトもカモミールティーを貰い、少し飲んでから言った。
「クヌフウタさんが元気になったら、言おうと思ってたことがあるんです」
「何ですか?」
「実は、ローマへ連れて行ってくれる人を手配しました」
「早速探して下さったんですね。どんな方かしら?」
「村に来ていた行商人です。他にもいます」
「他には?」
「オレとアルノルトです」
「まさか!」
クヌフウタは目を丸くして驚いたが、平静に戻って言った。
「有り難過ぎるお話ですが、ご無理はなさらないで下さい」
エルハルトは断られた気になって、悲しげに言った。
「嫌だと言うなら引き下がるよりありませんが……用心棒に信用出来る人がいた方がいいでしょう?」
「嫌なはずが無いではありませんか。また一緒に旅が出来ればどんなに楽しいかとは思います。でも、これは私の個人的な使命です。そんな遠くまで付き合っていただくわけには……」
「例の乗って来た馬車を、その行商人に貸すんです。その代わりに我々もそこに乗り込むという算段です。商売も勉強して、旅も出来て、いいことずくめなんです。一応自治州の用事もあるんです。教皇様に親書を届けるというね」
「そうなんですね。でも巡礼ですから、ローマとは言え彼方此方回るつもりなんですよ? アッシジにフランチェスコ派の本拠がありますし」
「その人は一旦シチリアまで里帰りして商売を立ち上げるそうですから、戻りの出発までには少し時間がかかります。巡礼にはちょうど良いのではありません?」
その言葉にクヌフウタは目を輝かせ、身を乗り出した。
「シチリアへ行くんですか? なら、サレルノも近いです?」
「シチリアも広いですから、よくは知りませんが、送ってもらえると思いますよ」
クヌフウタは次には泣きそうな目をしている。
「そこには歴史有る最高の医学校があって、行きたかった場所の一つなんです。遠いので半ば諦めてましたが……。これは……主のお導きかもしれません」
「それは良かったです。彼にはもう準備をして貰ってます。一週間を目処にしてましたが、この怪我でそれは少し伸びそうですね」
「こんなことがあっていいのでしょうか……」と、クヌフウタは泣きながらペルシタと頷き合っている。
エルハルトは話が纏まりそうになって安心し、内なる心に微笑んだ。
エドフィーユがそれを見て言った。
「すごい話ね。愛しのお姫様をローマやシチリアまでエスコートだなんて」
エルハルトは慌てて打ち消した。
「嫌だなあエドフィーユさん。それは違いますよ」
「違うの?」
「クヌフウタさんはシスターですから。誤解を招きますから!」
「シスターだからって、心に嘘を吐いてはいけないわ。心に正直に命を燃やす事が、幸せの道なのだと思うわ」
「心に正直に命を燃やす……いい言葉です」
クヌフウタは感じ入るようにそう言い、何かを思うように天を仰いだ。
逆にエルハルトは正直になれば壊れてしまうようなことがいくつも思い浮かび、内なる心で煩悶するのだった。
「どうかした?」
「いいえ。正直者はいいですね」
「あなたも正直者になりなさい」
エドフィーユに背を叩かれて、咳き込むエルハルトだった。
一夜が明けて、狼の罠を見て、アルノルト達は驚喜した。
落とし穴は丸太の衝撃で崩れ、その中には半ば泥に埋まるように狼が四匹もいて鼻を鳴らしていた。
そして所々にある狼の血の跡は、ヴィルヘルムの罠の石礫によるものだ。森へ続く血の量は、怪我の深さを物語っている。
そして菜園の中の木の枝には、一匹の狼がロープでぶら下がっていた。これはイェルクの罠だった。人が近付くと、狼は吊されながらも狂ったように吠えた。
「俺の罠にも掛かったぞ! どうだ!」
イェルクは自慢気に言うが、アルノルトはさらに自慢気だ。
「でも一匹? 僕らはジェミと二人で割って二匹ずつだね」
「二匹だ! でも考えたのはアルノルトだね。全部アルノルトと言ってもいいよ」
そう言うジェミはとても謙虚だ。
ヴィルヘルムはそれに頷き、笑った。
「俺の罠は追いやっただけだし、ここはアルノルトの勝ちだな」
イェルクは落胆して言った。
「負けた……しかも村の子に……負けた……」
「まあ勝負はさて置き、これなら狼も懲りて当分は来ないだろう。それが今回の一番の目的だったろう? 首尾は上々だ」
恐る恐る後ろを歩いていたビルゲンは言った。
「ありがとうな。退治してくれた事もだが、皆んなでいてくれて心強かったよ。わしゃあもう恐ろしくて縮み上がってしもうてな」
ヴィルヘルムが意外そうに笑って言った。
「そんな気弱な事を言って、らしくないじゃないか。一人で狼の群れに立ち向かったのに?」
「狼なんて犬だと思っとったが、実際に戦うとやっぱり違うぞ。数匹で囲んで来て、死角から襲って来るからな。知能犯なんじゃ」
「それで良く無事でした……」
「そりゃあ儂も若い頃はハルバートで慣らした身だ。すかさず棒を振り回したさ」
アルノルトはさらに意外な言葉に顔を上げた。
「ビルゲンさん、ハルバートが上手なの?」
「上手か下手かと聞かれれば、上手な方だろうな」
「ちょうどハルバートを習いたかったんだ。今度教えてよ」
「ちょっと待て、扱うだけでも危険なものを、そんな細っこい体で習う気か」
「駄目かな?」
「体に合ったものが要るな。まずは小振りのものを仕立て直してやろう」
「本当?」
「ああ。ついでに基本くらいは教えてやろう」
「ありがとう!」
「今日のささやかなお礼じゃ。かなり助かったからな」
ロープにぶら下がった狼は、依然噛みつかんばかりに吠えている。イェルクが近付くとさらに牙を剥いて唸り、ほとほと手を焼いた。
「危ないぞ。こいつをどうする?」
「いつもの締めだな」
イェルクは木の棒を取って来て、狼の頭を叩いた。狼はぐったりとしたが、ロープが揺れ、一周回って、また帰って来る。そこで狼は再び牙を剥いて来たので、イェルクは慌ててさらに棒を振り下ろした。狼はしぶとくその棒に噛みつき、食らいついた棒を易々とは離さなかった。
「離せ!」
イェルクが狼の首に手を伸ばすと、狼はその腕の端に牙を寝かすように噛みついた。
「痛って!」
ヴィルヘルムが駆け寄って棒で狼を叩き、イェルクを助け出した。
「大丈夫か! 病気が不味いな……」
イェルクは腕を押さえ、顔を真っ青にして言った。
「油断した……俺が病気になっちまったら、娘は……」
「すぐ水で洗うんだ」
ヴィルヘルムはイェルクの肩を抱き起こすように水場へ行った。
アルノルトは周囲に薬草が無いか探した。
「何を探してるの?」とジェミがやって来た。
「黄色い花だ。薬草になりそうなのをね」
「あそこに黄色いのがあるよ」
菜園の横の叢にカレンデュラの花が咲いていた。アルノルトはそれを採って、イェルクの所へ持って行った。
「これ、傷に効く薬草なんだ。使って下さい」
イェルクはヴィルヘルムに水をたっぷりと腕に掛けてもらいつつ、花を受け取った。
「ありがとうよ。どうやって使うんだ?」
「花を潰して塗るだけでいいんだ」
「そうか。何でもやってみよう。出来ればジェミと二人で締めるのを頼めるか。狼はまだ生きているだろう。噛まれた俺が言うのも何だが、絶対噛まれないよう注意を万全にな」
「判った」
アルノルトはジェミと狼を挟み撃ちにし、二人で何度も棒で叩いた。
「死んだかな?」
「今ピクッと足が動いたよ」
そう言ってさらに二人で狼を叩いた。
そうしてようやく狼は動かなくなるが、ぶら下がったロープを切るのはまだ怖かった。
「しばらくこのままぶら下げておこう」
そう言うアルノルトにジェミは頷いて、次は落とし穴を指差した。
「落とし穴の中の狼はどうしようか?」
落とし穴を覗いていたビルゲンが言った。
「危険だから放っておくがいいさ。餌をやらなければ時期にくたばるだろう」
「毒花でも食べさせてやりたいよ」
「うむ。腹が減れば毒キノコでも食うかもしれん」
不意に家の方からイェルクの叫び声が聞こえて来た。
慌てて家に戻ってみると、ヴィルヘルムが焼けた火掻き棒を持って、イェルクの傷を焼いている所だった。
「ぐああー! 熱ぢいーっ!」
イェルクは苦悶しながらそう叫んでいた。
そこへジェミが駆け寄った。
「お父さん止めてあげて!」
ヴィルヘルムは火掻き棒をイェルクから離した。
「よし。これで大丈夫だろう」
「うぅ…‥長いぞ……」
イェルクは腕をふうふうと吹いて、熱さを冷ました。
「しっかり奥まで焼いておかないと、病原が残るからな」
「ひどい火傷跡になりそうだ。でも、ありがとうよ」
ジェミは首を傾げた。
「ありがとうって? いい事したの?」
イェルクはジェミを撫でて言った。
「心配しなくていいぞ。これは手当てだ。狼が病気持ちだとしても病気にならないようにな。予め傷口を焼いておくんだ」
「村の噛まれた人もこうしておけば良かったんだがな……」
ヴィルヘルムは火掻き棒を持ち、鎮痛な顔をしていた。
アルノルトは近くにあった薬草の花を取って潰しながら聞いた。
「今からでも傷を焼けば間に合うかな?」
ヴィルヘルムは首を捻った。
「時間が経つと駄目だが、広めに焼けば少しはましになるかもしれないな」
アルノルトはビルゲンに布を貰い、イェルクの傷に黄色の花の汁を染み込ませた布を当てた。
「沁みる……でも効きそうだ」
さらにヴィルヘルムは布を裂いて包帯にし、湿布の上からそれを巻いた。
そうしてイェルクの手当てが終わると、アルノルトは思い付いたように言った。
「じゃあ僕、帰るよ。放牧を空っぽかしてるんだ」
ヴィルヘルムは頷いた。
「そうか。俺達はまだここの柵を作る仕事がある。兄貴に結果報告をよろしくな」
「うん」
イェルクは神妙な目をしてアルノルトに手を差し伸べた。
「少年、とても助かった。ありがとうよ」
「こちらこそ。自治州の仕事でこんな怪我をさせてしまって、すまない気持ちです」
アルノルトとイェルクは握手をした。それはイェルクと初めて心が通った瞬間だったかもしれない。
そしてジェミとビルゲンが戸口で見送る中、アルノルトは手を振って家路を歩き出した。
グラウエスは狼の危険を避けるために父に連れ帰ってもらったので、家までは徒歩で帰らなければならない。
太陽も昇りきった今では、今日はとても放牧には間に合いそうにない。
アルノルトは気になる場所へ行くことにした。
湖を望む広い草原と、そこに聳える大きな修道院。その二つの並ぶ棟には聖ラザロ修道騎士団の宿舎が併設されている。アルノルトはそこにヨハンを訪ねた。
ヨハンは以前と同じように、病室の戸口に出て来て話しをした。
「こんにちは」
「やあ、犬の抜糸には早いな。どうしたんだ?」
「実は狩人達と狼を退治して来ました。罠で五匹くらいですが」
「おお、そうか! 狼を退治してくれたそうだ」
ヨハンが病室にもそう言うと、部屋の奥にいた男達から喜びの声が上がった。
「おお! やってくれたか!」
「仇を討ってくれてありがとう」
アルノルトは部屋の奥にも笑って言った。
「いえ。これも自治州の仕事ですから。怪我の具合はその後どうですか?」
「経過はあまり良くない。傷口が化膿して熱を持っているし、普通より酷く痛むんだ」
「もし狂犬病だったら、治療法が無いと聞きました」
「ああ……。その通りなんだ」
「山の狩人に聞いて来たんですが、狼に噛まれてすぐ、傷口を焼くといいそうです。鉄を焼いて傷口に当ててました」
「なるほど……。それはやった事が無いな。まだ病気かどうかも判らないのに火傷させるのか?」
「ええ。噛まれてすぐでないといけないそうでしたから……。時間が経っている場合は広めに焼くといいかもしれないと言ってました」
「まだ病気か判らないうちにそんな酷い火傷を負わせるのはどうだろうな。医者とは言え我々は不自由でな。勝手な方法をする事は禁じられているんだ。昨日十字に切って血を抜いたばかりだしな」
「血を抜く?」
「ああ。神のご加護を得て悪い血を抜けば、悪いものが出て行く。出て行けば治る」
「余計に悪くなるんじゃ……」
ヨハンの顔色は蒼白だった。血を抜いて貧血気味のようだ。
「出て行かなければそう言う事もあり得る。だが騎士団ではそういうエビデンスなんだ。全員勝手な方法をすれば医療現場は混乱するからな。規則があるんだ」
「試す余地くらいはあってもいいと……」
「そうだな。自分でやるくらいの自由はある。だが医者としては病気が未確定なうちから患者に大火傷させるような事は出来まい」
「自分ででもいいので、やってみて下さい。これは山のやり方ですから。ローマに入ってはローマ人のするようにせよですよ」
「俺は怪我が首だから少し無理そうだが……、皆には伝えておこう」
そう言うヨハンはあまり乗り気ではないようだ。いい方法を紹介したつもりだったが、病気の確証が無いのに大火傷を負わせるのは、確かに医者の権限を越えている。
「病気が判った時は、任せましたよ」
あとは当人であるヨハンに任せるよりなく、後ろ髪を引かれるように、アルノルトは病室を去った。




