狼の群れ
朝になって、エルハルト率いる羊飼い達は今日も夏の山小屋へと出発した。
今日は自宅謹慎を言い付けられたアフラはその中にはいなかったが、ブルクハルトが一緒に加わっていた。
ブルクハルトは馬に乗り、その後ろに幾つかの荷物を積んでいる。
アルノルトもそれに習い、馬に乗って後ろに荷物を積んでいて、今日は馬車の姿は無い。というのも馬車は昨日から山小屋に置きっ放しになっていた。マリウスはそれを聞いてかなりふて腐れていたようだ。
山道を登って山小屋の下の草場へ着くと、羊達は思い思いに駆けて行き、新緑の草を食んだ。羊達にとっても過ごしやすく、良い草の多いお気に入りの場所のようだ。
「起きてますか? 入りますよ?」
「おはよう、クヌフウタさん」
エルハルトとアルノルトは、昨日よりしっかりと閉まっている山小屋の戸を叩き、ドアを開けた。
開けると香ばしく肉の匂いがしている。
「あれ? この匂い。肉でも焼いて食べました?」
エルハルトがあたりを匂っていると、クヌフウタは言った。
「朝食にも頂きました。昨日は鹿の肉をありがとうございます」
「パンに挟んでも美味しかったですね」
ペルシタもそう笑っていた。
「鹿の肉? 聞いてないな、アルノルト……」
「家では言ってないもの。ヴィルヘルム叔父さんに貰ったんだ。怪我にいいって」
「そうか。しかし匂いが良すぎて狼を寄せて来ないといいが……」
「そ、そうだね……ここは高いから大丈夫だよ。きっと……」
ブルクハルトも山小屋へ顔を出し、クヌフウタの様子を伺った。
「やあ、おはよう。怪我の具合はいかがですかな?」
クヌフウタは立ち上がって挨拶を返した。
「ブルクハルトさん、おはようございます。お二人には大変なところを助けて頂いて、感謝に堪えません。お陰様でこの通り、立って歩けるようになりました」
「それは思ったより元気そうで良かったですな。頭を怪我したとか?」
「はい、頭に石が当たったのです。その寸前に手で庇って、手にも怪我をしました」
クヌフウタはそう言って手の包帯を見せる。
「でも、この手に当たっていなければ正面から当たって、こんな怪我では済みませんでしたわ。不幸中の幸いです」
「エンゲルベルクの人達が石を投げたとか。しかも投石器で。殺人未遂に近い行為ですな」
「昨日アルノルトさんもアルノルト司祭様に、そう言って説明して下さって……。あ、アルノルトさんと同じ名前の司祭様がいまして、その方が昨日ここへいらしたんですよ」
「そうでしたか。司祭様というのは、修道院長よりもしかして……」
「エンゲルベルクでは司祭様は別格に置かれて偉いようです」
「え! あの人はそんなに偉いの? 少し言い過ぎた……」
アルノルトは強い調子で偉そうな口をきいてしまい、少し反省をした。
「何を言った?」
ブルクハルトが聞いたが、アルノルトはもうどこまで言ったか良く覚えていない。
「たぶん、全部……こっちの言いたいことは全部知ってると思う」
「それは……今度説明に行こうと思っていたのだが、何を言えばいいんだ……」
戸口からはエルハルトが「荷物を下ろそう」と声を掛けた。
「まあ、説明が省けると思ってよ」
アルノルトはそう言ってエルハルトに続いて荷物を下ろしに行く。
「やれやれ、過ぎた息子を持ったものだ」
と、ブルクハルトはクヌフウタ達に自嘲気味に笑ってから、馬の方へと歩いた。
エルハルトとアルノルトが馬から荷を下ろし、外のテーブルに並べ置いて整理をしていると、ブルクハルトが声を掛けた。
「あとは何がいる?」
「殆どは揃ったよ」とエルハルトは答えた。
馬に積んだ着替えや洗濯道具を足せば、ここで暮らすための殆どの物資は揃いつつあった。
アルノルトはそれを眺めて言った。
「あとは罠を作る道具とか、狼を倒す武器だね」
「そうか。それはこれからヴィルに聞けばいいという事だな」
「あとは僕等の武器もいる。クロスボウと、ハルバートだ」
「ハルバート? えらく物騒だな。あんな重い物持って来るのか?」
「狼と戦えるし、木を倒す斧にもなるよ? それに、お姫様と約束したんだ。ハルバートで一人前に戦えるようになるって」
「それはかなり気の長い話じゃないか?」
「練習しなきゃもっと気が長くお爺さんになっちゃうよ。その前に死んじゃうかもね」
「まあ夏の山小屋住まいは時間があるだろう。くれぐれも怪我のないように練習してくれ」
「兄さんのハルバートの他にもう一つ、少し小さいハルバートがいる。二人で練習するんだ」
「なんだ。おねだりだったらもう少しらしく言え。後でアッティングハウゼンさんの所に無いか聞いて来てみよう」
「ありがとう、お父さん」
持って来た荷物を整理して小屋に入れると、ブルクハルトとアルノルトはヴィルヘルムの家へと出発した。
「じゃあ行って来る」
「兄さん、エドフィーユさんが今日来る事になってるから」
エルハルトは小さく手を上に向けた。
「エドフィーユさんが? 聞いてない」
「今言ったよ? 怪我と貧血にいい鹿の心臓を持って来てくれるんだ。スープ作り手伝ってあげてね。じゃあ、僕は戻って来るつもりはつもりだけど、昨日のように待たないでいいよ」
「ああ。判った」
「行くぞ。ハアッ!」
ブルクハルトは馬を蹴り、坂を駆け下りた。
「速いよ父さん。馬が疲れるよ」
アルノルトも馬を発し、グラウエスはいつもの早足ペースで歩いた。
途中でブルクハルトはヘロンとアンドレアスにも声を掛ける。
「どうだ。放牧にはいい場所だろう?」
「はい。周りを囲まれてて羊が逃げにくくていいですね」
アンドレアスがそう言うと、少し離れた所にいたヘロンが石を取って言った。
「いい場所です。ここならこんな追い方も出来ます」
アンドレアスは投石器で丸い石を投げ、曲線状に斜面を転がして、羊の裏に転がし、羊を寄せて纏めた。
「おお、子供の頃よくやったな」
ブルクハルトは懐かしげにそう笑った。
「僕知らなかった。教えてよ」
「ああ、つい忙しくてな」
思えばこの十年、ブルクハルトはアーマンの仕事で忙殺されていた。こんな身近な道具さえ教えてやれてなかったという事に反省の念を禁じ得なかった。
ブルクハルトはアンドレアスとヘロンに言った。
「二人とも、夏はここに泊まりでいけそうか?」
「ええ。まあ」
「シスター達も一緒に泊まるんです?」
「さすがにシスターがいる間は泊まらんよ。移ってからだな」
「なら大丈夫と思います。遠慮して今もあまり入れないもので」
「そうか。気を遣わせてすまないな」
「遠慮しないで大丈夫だよ。もっと話してあげてね」
ブルクハルトとアルノルトは、馬を並べて走り出した。
滝の上を渡る道を抜けて、崖際の道を降りればそこにはアルプが広がっている。
道の下の方に二つの人影があった。遠目にも一人は判った。極彩色のトーガを着る女性はエドフィーユだ。もう一人は少女だが誰かは判らない。
「エドフィーユさん!」
アルノルトは大きな声を上げて名前を呼んだ。
エドフィーユは大きく手を振ってそれに応えた。少女もまた手を振っている。
その後ろには、狼が数匹、隠れて追って来るように歩いていた。
「後ろに狼が!」
「危ないぞ! と言って立ち止まっても危険か!」
気が付いて立ち止まると余計に危険だった。ブルクハルトとアルノルトは馬を蹴り、下りの道を走り出した。
エドフィーユとセネカは振り返り、狼に気が付いた。
しばらく見つめ合い、エドフィーユは手に提げた籠から袋を取り出し、セネカに渡した。
セネカは何かを唱え、袋から幾つかのクッキーを投げると、狼はそれを集って匂い、競って食べた。
「フフフ」
セネカは笑って狼たちの背中を撫でた。狼は振り返り、少し逃げるような仕草をしたが、仲良さそうにじゃれ合っている。
いち早く駆け付けたブルクハルトが感心したように言った。
「いやあ、これは狼が犬のようじゃないか」
「あなたはでも、近付かない方がいいわ」
エドフィーユはブルクハルトの馬を止めてそう言った。
「ヤア!」
アルノルトは鞭を出して、地面を叩きつつ走って来た。その鞭の音で、狼達はそこから逃げ出した。
「大丈夫かい? 危なかったね」
アルノルトはセネカの近くまで走ってそう言った。
セネカはしかし、機嫌悪く何かを言っている。しかし言葉は山の言葉なので、さっぱり言ってる事が判らなかった。エドフィーユがその通訳をした。
「せっかく仲良くなれたのに、鞭なんて使わないでって言ってるわ」
「確かに撫でてたけど、人には慣れない狼と仲良くなるなんて、信じられないよ」
「でも見ていたでしょう? 狼もやり方次第で慣れるものなのよ」
「どうやったら慣れるんだろう」
「私の特製クッキーが好きなのだけど、真似しない方がいいわ。信じ合う心があって通じるものだから。ところでこの人が?」
アルノルトは馬上のブルクハルトを紹介した。
「僕の父さんです、父さん、前に話したエドフィーユさんだよ」
ブルクハルトは慌てて馬を下り、帽子を取って胸に置いた。
「ブルクハルトと申します」
エドフィーユは改まって近くにやって来て、笑顔で言った。
「これは初めまして。エドフィーユと言います。ヴィルヘルムの妻です」
「我が弟の? これは美人な奧さんを貰ったものだ。会えて嬉しいです」
ブルクハルトとエドフィーユは握手をした。
「こちらこそお会い出来て嬉しいです。この子はセネカ、友人の子なんです」
「やあ、セネカ。久しぶりだね」
セネカはアルノルトに頷いた。しかし人に慣れない狼のように、村の人にはなかなか懐いてはくれなかった。
「ちょうど遊びに来たものだから、連れて来たの。山菜採りを手伝って貰おうと思って。ジェミはアルノルトに会う約束だって言って、お留守番よ」
「ジェミというのは……」と、ブルクハルトが首を交互に傾げる。
「私達の息子です」
「薬を届けてくれた子だよ」とアルノルトが言う。
「ああ、あの時の子! あの時はなんと助かった事か……あなたにも感謝をしなければ」
ブルクハルトは感激してエドフィーユに頷き、騎士風の礼を取りつつ手にキスをしたので、エドフィーユは大いに戸惑った。
それを余所にアルノルトは言った。
「昨日は鹿の肉をありがとう。早速山小屋にいるクヌフウタさんにも食べさせてあげられたんです。朝ごはんにも食べてました」
「それは良かったわ。あなたが鹿を見付けたと聞いたし、肉は当然もらう権利があるのよ」
「それも伝統のようなもの?」
「見付けた人に一番の権利があるのは村の人も同じじゃない? 狼にだってそういうのはあるみたいよ」
「へえー。意外と人の社会も狼的に出来てるんだ」
「狼もボスがいるしね」
「僕らのボスは、ここにいる父さんだ」
「儂か? もっとボスらしいのがいっぱいいるがな」
アルノルトは少し笑ってから言った。
「山小屋にいるクヌフウタさんに今日エドフィーユさんが行く事を伝えたら、それは楽しみだって言ってましたよ」
「そう? 味はご期待に添えないかもしれませんけど」
退屈したセネカは手を振って歩き出した。
「じゃあお待たせしているようだし、山小屋へ行って来るわ」
「気をつけて」
「あなた達こそね」
エドフィーユ達とアルノルトは手を振り合って、そこで道を分かった。
そこからアルノルトはまず、ランプを返しにビルゲンの家に寄った。
ビルゲンは今日は水車小屋にも菜園にもいない。
「家の中にいるんじゃないか?」
ブルクハルトがそう言うので、二人は家に行った。
家はいつものように窓や戸が開いておらず、堅く閉められている。一カ所の窓は壊れていて、布が貼ってある。
「こんにちは」
家のドアをノックすると、中から声が聞こえた。
「入ってくれ」
アルノルトが中へ入ると、ビルゲンはベッドで寝ていた。
「どうしたんです? 病気ですか?」
「ああもう死ぬかもしれん。死ぬかと思った」
「重病ですか?」とブルクハルトが聞いた。
ビルゲンはベッドから飛び起きた。意外と元気そうだ。
「おお、ブルクハルトも来たか。ならちょうどいい、狼を何とかしてくれ。ワンサといやがる」
「狼が出たの?」
「ああ、出たとも! 昨日の夜の事だ。狼の群れがやって来て、菜園を荒らしててな。棒で脅して追い払うつもりが全く逃げもせん。それどころか吠え立てて家まで追いかけて来てな。わしの方が逃げたわい」
ブルクハルトが宥めるように言った。
「逃げるくらいなら家にいた方が安全ですから……」
「そうは言うが、菜園も生活がかかっとるわい。家に立て籠もろうとしたら奴ら窓から入って来てな」
「窓を開けっ放しはだめだって……」
「狼が何匹も入って来てな、もう逃げる所も無い、わしゃあ死ぬかと思ったわい」
「噛まれたんです?」
「いや。これはアルノルトのおかげだ。ランプを貸していたし、火を狼が嫌うと言っていただろう。囲炉裏の火を点けたままだったんじゃ。囲炉裏の火を持って狼に振りかざしてやったらようやく逃げて行ったんじゃ。おかげで命拾いしたぞ」
「それは良かったよ。本当に良かった」
「どこも噛まれなかったですか? 伝染病もあるので……」
「ああ、大丈夫だった」
「じゃあどうしてベッドで?」
ビルゲンはベッドに倒れ込んで言った。
「菜園がダメになったんじゃ。わしゃ悲しい。わしの心はデリケートなんじゃ」
「そうですか……確かに残念ですね……」
「菜園はまたやりなおせるよ。命が助かって良かったよ」
「共同体でも狼の被害には対策を講じるので、何でも言って下さい」
「ああ、ありがとうよ。まずは狼が来ないように頼む」
「安心して下さい。それは、これからやる予定です」
「今からヴィルヘルム叔父さんに罠を頼んでくるよ」
「そうか。そう言う事か。最高の適任者だ」
アルノルトは借りていたランプをビルゲンに返し、礼を言った。
そしてビルゲンを励ましてから家を後にした。
森の入り口から急峻な山を登り、さらに獣道へと入って行く。
木の根の道は足場の悪い急な坂が続いていて、ブルクハルトは馬からは下りて歩いた。
アルノルトは馬にしがみつくように乗ったまま、坂を上がって行く。
遅れたブルクハルトは馬を引き、森の広場へと入って行った。
「ここは……」
楢の大木が聳え立ち、広い草原に木漏れ日が注いでいる。アルノルトはそこで馬を止めて待っていた。
ブルクハルトはその先に家を見付け、そこへ歩いて行った。
その方向には罠がある。しかしアルノルトは黙っていた。
案の定ブルクハルトは罠に引っかかり、脇からはローブ服のお化けが飛び出て来る。
「ウワー! アイタッ!」
ローブの頭には砂袋が付いていて、それがブルクハルトの頭に当たった。
アルノルトは後ろで密かに笑っていたが、砂袋が当たって少し慌てた。
「大丈夫かい?」
「罠か! ああビックリした……。砂袋で良かった……」
「狼よけの罠なんだ。僕も引っかかって、始めは矢が付いていたから怪我するところだったよ」
「そ、そうか。ここは罠に気を付けなければいけないんだったな」
アルノルトは罠を元に戻しながら言った。
「この罠を狼は覚えていて、一度掛かると避けるようになるんだって。こけおどしでもこれを山に仕掛けてみようと思っているんだ」
「そうか、そういう方法もあるのか。さすが山の猟師だ」
「これはジェミが作ったそうだけどね」
そう話していると、ヴィルヘルムとジェミが出て来た。後ろにはイェルクもいる。
子犬達も出て来てしきりに吠えている。
「やあ兄貴! 早速罠に掛かったか!」
「ヴィルヘルム! いきなりとんだ歓迎だな!」
「アルノルトには罠に気を付けるように言ったんだがな?」
ブルクハルトが振り返ると、アルノルトはさっと目を反らした。
「知ってたな?」
ヴィルヘルムは両手を広げて言った。
「兄貴、我が家へようこそ」
「ああ、いい家だ」
ブルクハルトとヴィルヘルムは軽くハグをして抱き合った。
「いい場所だな! 庭が最高の風景じゃないか」
「楢は山でも大事にされているんだ。古い習わしではオークの大木の下でゲマインデをやったくらい村でも神聖視されたものだ。我々の方こそそうだったのに、いつしか手放しつつある。山の民は我々に失われたものさえも大事に残しているんだよ」
「今だって菩提樹の下で裁判をするぞ。ヤドリギの下で宣誓もする。オークに祈りを捧げもする。木を大事にしてるぞ」
「でもおおっぴらにそう言っただけで、異端審問官が来ることもあるだろう? ここではそう言う息苦しいのは無い。真に自由なんだ」
「おいおい、ローマ聖庁に逆らうなんて止めてくれよ。全ローマ世界が敵になるぞ」
「判ってるさ。でも兄貴には古き良きものを大事に残す、ここの良さを伝えたいな。まあ入ってくれ」
ヴェルヘルムの後ろにはジェミの姿があった。
「罠を仕掛けたのはこの子か?」
「ああ。息子のジェミだ」
ブルクハルトは少し屈んで言った。
「ブルクハルトだ。お父さんとは兄弟だ。だから君には叔父になる。よろしくな」
「アルノルトのお父さんだね」
「ああ、そうだ。いつかは薬を届けてくれてありがとう」
二人は握手をした。
ヴィルヘルムはイェルクも紹介した。
「こちらは友人のイェルクだ。手伝ってくれる」
「イェルクです。元はウルゼレンで悪魔の橋の工事に携わってました」
「兄のブルクハルトです。それはいい仕事を残していただいた」
そう言って二人は握手をした。ヴィルヘルムが加えて言った。
「罠を作らせれば山ではまあ第一人者だ」
「それは頼りになりそうだ」
一同は家に入り、テーブルを囲んだ。そして狼の罠について大いに話し合った。
その中では当然ながら、ビルゲンの家が狼に襲われた事が話題になり、まずはビルゲンの家の周辺の狼対策をする事になった。




