自然のお医者さん
山小屋へ帰ったアルノルトとアフラは、クヌフウタに白い花の束を渡した。
「クヌフウタさん、これ、峠で採って来ました」
クヌフウタはアフラに花を貰い、貧血を忘れる程に喜んだ。
「これは稀少な花を! これだけは採っておきたかったのです。ありがとう、アフラ」
「私は少しだけで、兄さんが採ろうって言ったんです」
「ありがとう、アルノルト」
「いえ、お役に立てればと。今のクヌフウタさんに効く薬草だと善かったんですけど、腹痛草ですからね」
「でも、これも貴重な薬になるんですよ。そういえば!」
クヌフウタは荷物から、ヒムベリーの葉を取り出した。
「ヒムベリーの実やこの葉は貧血にも効くんです。煎じてお茶にするには乾燥させないといけないんですけど……」
「実でいいなら、前の場所で採って来ましょうか?」
アルノルトがそう言うが、クヌフウタはそれは止めた。
「行ってまた争いになってはいけませんし……争いを防ぐ知恵を持たなければと、さっき言ってましたね?」
「そうでした……」
ペルシタがその葉を見て言った。
「生葉のままでも小さく切ってお茶にしてみましょうか。十分出るでしょう」
ペルシタはそう言って葉を包丁で小さく切り、漉し布に入れていった。
アフラは再び薬缶のお湯を沸かし、ペルシタが出来上がった茶漉しをカップに入れると、そこにお湯を注いだ。
「いかがでしょう? クヌフウタさん」
ペルシタはそう言ってクヌフウタにカップを渡す。
「ありがとう。もう少し待ちましょうか。よいお薬になりそうです」
四分ほど蒸らし、クヌフウタはその葉を飲んでみた。
「濃い草の汁のよう。これは効きそうです。気持ちだけ落ち着いた気がします」
「よかった」
ペルシタは安心したように微笑んだ。
アフラがそこへ来て言った。
「他にも治りがよくなりそうな薬草があれば、採って来ますよ」
「そうですね。切り傷ならばルプレヒトスクラウトがあれば、それで大丈夫そうですね。幸い昨日採ったのがありますが、もう少しあるといいですね」
「薄紅の花ですね。少し探して来ましょうか?」
クヌフウタは「正解です」とルプレヒトスクラウトの見本を取り出して見せた。
アルノルトがアフラに言った。
「探さなくても、小屋の前にたくさん生えてたよ」
「兄さんがどうしてそれを! 必死で覚えたのに!」
「父さんがここで怪我した時に使ったからね」
「見てくる!」とアフラは外へ飛び出して行った。
クヌフウタはアルノルトを呼んで言った。
「アルノルトさん。怪我を診ましょうか。あの時はこの薬草を塗ってませんし」
アルノルトは長い上衣を脱ぎ、猿股パンツ一丁の姿で手当てを受けた。
クヌフウタはアルノルトの肩の包帯を解き、傷を診た。縫い跡が少し裂けて、傷が開いた箇所があった。
「ひどい。一部傷が開いて……何をしたらこうなるんですか」
「スイマセン……叩かれたり、狼と戦ったり、馬から落ちたり……心当たりはいろいろ……」
そこへアフラが帰って来た。手には薄紅の花を幾つか持っている。
「いっぱいありました! アレ? 兄さん裸……」
「それは助かりますね。採れたてのそちらを使いましょう」
クヌフウタはアフラから花を受け取って、花弁を手で丸めるように潰し、傷に塗っていった。
それを興味深く見詰めながら、アフラが言った。
「潰して塗るだけでいいんですね?」
「そうよ。花の汁が傷に付けばそれでいいんです。実際使うところを見れて良かったですね。これは新鮮な花が一番です。保存するには一度乾燥させてハーブのようにしますが、少し薬効は落ちますからね。ペルシタさん、針と糸を下さい」
そう言われたペルシタは腰の袋から針と糸を取り出し、少し火で炙ってからクヌフウタに渡す。
「まさか……縫うんですか?」
アルノルトはおどおどしている。
「動かないで下さいねー」
クヌフウタは縫った糸の隣り合った二つを糸で結んで、少し弛んだ分を引っ張り寄せて、開いた傷を合わせた。
「イテ」
「引っ張るだけで縫ってないですから、我慢ですよ」
「でもかなり痛いです。イテ」
かくして糸を寄せて傷を接着させる処置を終え、クヌフウタは汗を拭った。
「完成です。やっぱり貧血で手術風の事をするんじゃありませんでした。汗は吹き出るし、目眩がして今にも倒れそうでした」
「危なくないですか? それ……」
「あなたが気を付けないからです。治りが少し遅くなりましたよ」
「スイマセン……」
「ふう、少し目眩が」
クヌフウタがこめかみに手を当てているので、包帯を巻くのはペルシタが代わり、アルノルトの手当ては終わった。
「少し痛くなくなったようです」
アルノルトは腕をグルッと回転させたが、空かさずクヌフウタが言った。
「あまり動かさないように……」
「スイマセン……それに、ありがとう」
そう礼を言うと、クヌフウタは寝床へ戻って少し横になった。
アルノルトは外へ出て、羊を見ているエルハルトに言った。
「これからヴィルヘルム叔父さんの所へ行って来るよ」
「ああ。今からで降りる時間に戻って来れるか?」
「もし間に合わなければ先に行ってて。馬ならすぐ追い付けるよ」
「判った。狼に気を付けてな」
「狼は、ここも危険なんだっけ……」
「そうだな。何か罠でも考えるか」
「叔父さんやジェミに、罠のことも聞いてくるよ」
アルノルトはグラウエスに跨がり、ヴィルヘルムの家に向かった。
「グラウエス。今日は大活躍だなあ」
アルノルトは馬に乗って、首を大きく撫でてやった。
グラウエスはいつもの通り、小刻みな早歩きをする。
「それでいい。山の勾配は疲れるからな」
高原から道を南に折れ、一つ山を巻いて降りるとそこはエルストフェルトだ。案外近い事が走ってみると判る。ヴィルヘルムの家はさらに山の奥、森の奥だったが、グラウエスがいれば近い道のりだった。
ヴィルヘルムの家の前に来て、アルノルトは気が付いた。そう言えばジェミは森の広場に狼の罠をしかけていた。
馬を下り、アルノルトはその罠を探した。果たしてそれはすぐ見つかった。細い紐の先にクロスボウがあり、そこに布が被せてある。紐に引っかかれば矢が飛び出る仕組みだ。
「これは羊が引っかかるな……。人も危ない……」
そうしていると、犬の声と共に家からジェミが出て来た。マッシュと子犬達も後ろから続いて来る。
「アルノルト? アルノルトじゃないか!」
「やあ、ジェミ。久しぶりだね。子犬達も来た。かわいいね」
アルノルトはよちよち歩きで歩いて来た子犬達を撫でてやった。
「お前達大きくなったなあ」
「だいぶ大きくなったでしょう。成長が早いんだ」
「そうだな。マッシュも大きいから、大きくなるよ」
「今日はどうしたの?」
「ヴィルヘルム叔父さんに用があって来たんだ。いるかな?」
「まだ猟に行ってるよ。夕方には帰るんじゃないかな」
「そうか。じゃあ待ってよう。ところで、ここの罠は犬は危なくないのかい?」
「危ないねえ」
「じゃあ外した方が……」
「矢はもう付いてないんだ。狼は一度引っかかればこれを避けて行くよ」
「本当かい? 他の場所でも避けてくれるかな」
「まあ一度引っかかればそうだろうね」
「そうか……。試しに矢無しでやってみようかな。実は狼が出て、困っているんだ」
「お父さんも最近出るって言ってたよ。もしかして用ってその事?」
「そうだよ。狼退治を頼みたいんだ」
「そうなんだ。罠の作り方なら教えてあげられるよ」
アルノルトはジェミに罠の作り方を詳しく教えて貰った。
「クロスボウをしっかり重いものに取り付ける事だね。今は矢の代わりに、砂袋を詰めた古い服を置いてるんだ」
「服?」
「匂いで人が出て来たと思うからね」
「それはいいね」
「試しに引っかかって見てよ」
アルノルトは紐に恐る恐る足を掛けてみた。
すると音と共に頭巾を被ったローブ服のお化けのような姿が頭から飛び出した。
「わーっ! 驚いた」
アルノルトは大きく斜め後ろへ転んだ。
犬たちも揃って驚いて逃げ出した。
ジェミはしてやったりと大笑いをしている。
「どうだい?」
「これは狼も驚くよ」
しかし、子犬たちは飛び出した服を匂ったり噛みついてしている。
転んだアルノルトにも子犬が群がって、乗っかったり、口や手を舐めたりした。
「こらこら。起きれない」
ジェミはお腹を抱えて声を上げて笑った。
家の方から声が聞こえた。
「ジェミ? お客さん?」
「うん! アルノルトだよ!」
エドフィーユが家の戸口から歩いて来た。
「あなたね? こんにちは」
「エドフィーユさん……」
アルノルトは駆け寄って、さっきの名残で騎士風の礼を取って言った。
「お久しぶりです。お礼がまだでした。アフラの薬を作って届けていただいて、ありがとうございました……」
エドフィーユは拒絶するように顔を背け、手を前に出して言った。
「そんなお礼やめて? 騎士みたいなのは苦手なのよ……」
アルノルトは慌てて立ち上がって、エドフィーユの手を取った。
「すごく効くいい薬をありがとう! お陰様で妹は助かりました!」
「そう。すごく感謝しているのはよく判ったわ。でもいいのよ。助かってくれた事こそが私達の喜びだから」
「お陰様で妹は薬を飲むとすぐ元気になってしまって、今やもう時々手に負えないくらい元気です」
「それは何よりだわ」
「エドフィーユさんはお医者さんでもあるんですか?」
「医者とは言えないけれど、伝統的な治療法があるの。遥か昔からのね。私達は草花を色んな事に使うわ。ここの花もそうだし、窓にもたくさん育てているでしょう?」
伝統と聞くと、アルノルトは何か奥深いものを感じた。
見れば森の広場は花で溢れているし、窓の鉢植えは今も花で埋まっている。
「ちょっとした薬ならすぐ身近にあるの。自然の知恵を味方にすれば、この自然がお医者様なのかも知れないわ」
「それって素晴らしいですね。もし、頭に大怪我をして、血が出過ぎたら、山の人ならどうしますか?」
「そうね。鹿の心臓をハーブで煮込んで、少しの秘術を込めて……まあ、スープを作るわ。それで無くても鹿の肉を摂ると傷にはいいわね」
「鹿の心臓?。確かに鹿の肉は傷にいいって聞きますね。でもあの人は肉は食べないかもな……」
「誰か怪我をした人が?」
「今、山小屋に頭を大怪我した人がいるんです。その人はお医者さんなので、なんとか処置は出来て無事ではあるんですが、頭痛と貧血が酷いみたいで……」
「それは心配ね。マッシュがこの子達を産んだ山小屋?」
「ええ。そうです」
「山小屋を借りてお世話になったそうね。ありがとう」
「いえ。あの場所は避難には使っていいんです。今怪我をしている人もそうですし。そういえばその人は、その時に子犬を取り上げてくれた人なんですよ」
ジェミが首を傾げて「クンフータさん?」と聞く。
「そう、クヌフウタさんだ」
「大怪我しちゃったの?」
「ああ、峠の向こうの奴らに石を投げられてね。かなり酷いんだ」
「え! ひどいね」
「知ってる方なの?」とエドフィーユがジェミに聞く。
「逆子でなかなか生まれなかったクロを取り上げてくれたんだよ。マッシュがお別れを言うくらい感謝してたんだ。心配だね」
「そう。お世話になった人なのね。薬草を採るついでに行ってみようかしら」
「その人も薬草に詳しい人なんですよ。医者ですから」
「あら、それは会ってみたいわね」
「クヌフウタさんも同じように言ったら会ってみたいと言ってました。だから話は合うと思いますよ」
「本当? それは楽しみね。鹿の肉が手に入ればいいのだけど」
そこへヴィルヘルムがイェルクを連れて帰って来た。肩には雉子を担いでいる。
マッシュと子犬達は飛び付くようにヴィルヘルムに纏わり付いた。
ジェミもそこへ駆けて行った。
「おかえり!」
ヴィルヘルムは、雉子をジェミに渡して言った。
「今日の夕食だ。最近獲物がめっきり減っていてな」
「雉子だね。アルノルトが来てるよ!」
ヴィルヘルムはジェミの指す方向にアルノルトを見付けて破顔した。
「おお、アルノルト! よく来たな」
「ヴィルヘルムさん! お久しぶりです」
「犬のお産以来か。世話になったな。お陰でこんなに育ったよ」
「かわいいですね」
アルノルトは纏わり付いてくる子犬を撫でた。
「もう懐いてるようだな。大きくなって来たはいいが、こんなにいると騒々しくていかん」
「いい猟犬になるんじゃないですか?」
「そうだな。しかしこんなにいても仕方ない。もう少し育ったら一匹貰ってくれないか」
「いいですね。でも僕だけでは決められないので、父さんに聞いてみます」
「そうか。兄貴は元気か」
「ええ。今日もここへ連れて行って欲しそうでした。今度一緒に行こうって……ダメですよね……」
「立場上を気にしてるんだな。こっちの人は兄貴の事なんて判らないし、俺の兄貴だと言えばまるで問題無い。今イェルクもお前にダメとは言ってないだろう」
そう言われてイェルクは笑う。
「ヴィルの兄貴や甥なら歓迎さ」
「じゃあ、いいんですね!」
「ああ、いつでも来てくれ。ただ罠には気を付けて」
「良かった。今日来たのも、父からの頼み事なんです。いや、ラントからの依頼になるでしょう」
「うん? 何だ?」
「実は少し前に狼の群れが出て何人も被害に遭っていて、僕等も羊が襲われて、追い払ったんですが、犬が噛まれてしまって……」
「狼か……確かに最近多くなっている。何処で出た?」
「エルストフェルトのアルプです」
「そうか。近いな。だんだん山から下りて来ているようだ」
「それに、実は狼を退治にしに行った騎士団が、返り討ちにされて帰って来て、しかも噛まれた傷に熱が出て、伝染病の疑いがあるそうです」
「伝染病……それはまずいな。死に至る病のこともある。周りに気を付けておこう」
アルノルトは続けた。
「そのことを伝えたかったのもあるんですが、夏場は山小屋で羊達はずっと外で過ごすので、その前に狼を退治したいんです。でもこの状態では討伐退治するのも危険なので、罠を仕掛けようと言ってるのですが、ヴィルヘルム叔父さんの力を是非貸して欲しいのです。もちろんウーリからも人を出すとの事でした」
「すいぶん危険な仕事だな……顔も村人に見られるだろうし……」
「今のところは罠だけで捕らえる予定です。来る人もオイゲンさんとかですし、動くのは山ばかりですから、あまり見られる事は少ないと思います」
「なるほど。報酬は弾んでくれるのかな?」
「報酬は……まだ決まってませんが、父さんに言えばそれなりに出ると思います」
後ろで聞いていたイェルクが言った。
「それは、俺のような者がやっても出るのかい?」
アルノルトはイェルクに首を傾げつつ言った。
「イェルクさんも? ヴァリスの人でもたぶん出せると思います。狼退治に人を集めるつもりでしたし。身元がわからないと駄目と言われるかも知れませんが……」
「俺は元々ウルゼレンの者さ。ウーリに雇われていた事もある」
「なら多分大丈夫じゃないかと」
イェルクは親指を立てて言った。
「俺はやるぜ。ヴィルは?」
「うむ……最近獲物が減っているし、病気持ちの狼が狩り場を荒らしては人も危険だ。ここは協力し合って退治しておこう」
「そう来なくちゃ」
アルノルトはホッとした。
「良かった! 正直断られたらどうしようかと」
イェルクは少し不満気だ。
「俺だけじゃ不安というわけだ?」
「いや、そうじゃないですけど……少しはありますかね?」
「あ、言ったな。罠ならヴィルにも負けないさ。何なら何匹捕まえるか、競争するか?」
「大人げないぞイェルク。まあ俺もそうそう負けないがな」
「それはやる気十分って事でいいな?」
アルノルトは宥めるように言った。
「あとは明日、父を連れて来るので、詳しい事はその時に話し合いましょう。イェルクさんとも直接話せますし。捕まえる方法を考えておいて貰えると、人の数や予算も出しやすいと思います」
雉子を家に置きに行っていたジェミがやって来て言い出した。
「お父さん、鹿を捕って来よう」
「鹿? どうしてまた急に」
唐突なのでヴィルヘルムも驚いた。
「見たら鹿肉はもう無くて。怪我した人がいるんだ」
「怪我人?」
アルノルトが言った。
「クヌフウタさんが頭に大怪我をして、血が出過ぎて貧血が酷いので、山小屋で回復を待っているんです」
「クヌフウタさん? 山小屋に来ているのか?」
「ええ。しばらくはそこで回復を待つそうです」
「お父さん、クヌフウタさんの怪我には鹿の心臓があるといいんだって」
ヴィルヘルムは空を見て言う。
「まだ日が落ちるにはあるが、鹿もそうすぐには見つからないぞ」
ジェミが縋るように言った。
「前に一緒に罠を張ったところを見て来ようよ」
「それくらいなら行けそうだ。ちょうどイェルクもいるし、行ってみようか。もし鹿がいれば夕食も豪華になると言うものだ」
「ああ、行こう」
イェルクも頷くと早速ヴィルヘルムと二人で一緒に歩き出した。
アルノルトはすかさず馬に乗って追った。
ヴィルヘルムとイェルクの山を歩くペースは速い。道はほぼ獣道で険しく、馬でも追い付くのが時に困難になるほどだった。
「待って」
とアルノルトが呼ぶと、二人はしばらく止まってくれた。
「ジェミもいたか」
さらに後ろの茂みからはクロスボウを持って、ジェミもやって来た。
「そんなの持って来たのか」
「罠の近くは鹿の通り道だからね。いるかもしれないよ」
「罠の場所は遠いんですか?」
アルノルトが聞くとヴィルヘルムが答えた。
「もうすぐ近くだ。ここからは静かに行こう」
アルノルトは馬を下りた。
そして忍び足で静かに歩いて行くと、罠のある場所に着いた。
「何か罠に掛かってるよ?」
「これは……」
そこには鹿がいた。が、それは残骸のように食べ散らかされた後だった。
「シャモアだ。まだ新しいな」
「罠に掛かっていたのを、狼に食われたようだ……」
ヴィルヘルムとイェルクは、鹿の死骸を罠から外し、穴を掘って埋めた。
「まだ肉があるのに。勿体ないね」とジェミは嘆いた。
「病気の疑いのある狼の噛んだ肉は当然食べられないし、他の動物が食べるとさらに感染してしまう。埋める方がいいんだ」
「この辺にも狼がいるのか……」
アルノルトは狼が出ないかと、しきりに周囲をキョロキョロと見回した。
すると、少し離れた所に縞模様のある子鹿がいて、こっちを見ていた。
「子鹿がいる」
とアルノルトは静かに指を指す。
「あ、本当だ。シャモアの子だ」
シャモアはカモシカの一種で、顔や体に黒い筋があり、二つの短い角がソリのようにカーブを描く。子鹿とは言え大人にも近い大きさだった。
ジェミはクロスボウで狙いを付けた。
子鹿は鋭く逃げ出したが、放たれた矢は足の付け根に当たった。
「当たった!」
子鹿は片足を上げて跳ねるように歩いたが、すぐに蹲ってしまう。
「やったよ!」
ジェミとヴィルヘルムは獲物へと走った。
「小さいが獲物には違いない。ジェミとアルノルトの獲物だな」
子鹿は人が来てももう逃げようとしない。逃げられないと観念しているのだろうか。
アルノルトも馬を下りてそこへ行くと、近くで見るシャモアは神秘的な程に美しかった。
「大方罠に掛かったのが親鹿で、ずっと見ていたんだろう。狼によく捕まらなかったものだ。いつもは子鹿のうちは狩らない事にしているんだが、ここにいればいずれ狼にやられるだろう。それよりは我々でいただくとしよう」
ヴィルヘルムとイェルクは子鹿の頭を木の棒で叩いて止めを刺すと、首をナイフで切り、その場で血抜きをした。アルノルトは少し惨く見えて顔を背けたが、それは猟師の日常生活だった。
森の広場の家に帰ると、ヴィルヘルムとイェルクは鹿を解体した。
「これが鹿の心臓だ」
ヴィルヘルムは手を血に染めつつ紡錘形の塊を取り出し、ジェミに渡した。
「うわ! 大きい」
「こんなに大きいんだ」
アルノルトはしげしげとそれを見た。それをどうやって食べるのか、見当もつかない。
そして大きな肉の塊をイェルクに分ける。
「家族に土産が出来たな、イェルク」
「感謝するよ。セネカがお腹を空かせて待ってる」
「僕の獲物だよ」とジェミは得意気だ。
「ああ、ジェミもありがとうよ」
イェルクは毛皮を貰って肉をくるみ、「また明日」と手を振って、肉を抱え帰って行った。
「アルノルトも発見者だ。これから鹿を食べていけ。美味いぞ」
ヴィルヘルムがそう言うと、アルノルトは遠慮して言った。
「山小屋で兄が待ってるかもしれないんで、早めに帰ります」
「まあ焼くくらいはすぐだ。少し食べて行け」
そう言ってヴィルヘルムはアルノルトを家の中へ案内する。
家の中で鹿の心臓と肉を受け取ったエドフィーユは満面の笑みで喜び、上機嫌に鹿肉を焼いてくれた。食べているうちに様々な山の料理も出してくれて、アルノルトはいつしか大いにご馳走になった。そしてすっかり遅くなってしまった。
そして、帰る時には鹿肉を一塊分けて貰った。
「これは家族皆んなで食べてくれ」
「半分程は、クヌフウタさんにあげてもいいですか?」
「ああ。それはむしろ嬉しい」
エドフィーユとジェミも見送りに出て言った。
「明日、私達も山小屋に行ってみるわ。鹿の心臓の特製スープを作ってあげましょう」
「それは喜ぶと思います……鹿の肉を食べられればだけど……」
ヴィルヘルムが言った。
「明日はいつ頃家へ来るんだ?」
「お昼くらいでしょうね」
ジェミは言った。
「じゃあ、明日は山小屋に行ってもアルノルトはいないの?」
「たぶん……父さんを連れて行かないと行けないからね」
「じゃあ、僕は家で子犬のめんどうを見ていようかな。まだ遠くへは連れて行けないし」
エドフィーユは寂しそうに言った。
「私一人なの? 知らない人ばかりだと寂しいわね」
「山小屋には僕の兄貴がいますから」
「ああ、あの大きい子? なら大丈夫ね」
「じゃあ、そろそろ。もう暗くなるので……」
アルノルトは手を振って家を出た。
馬に飛び乗り、そこを駆けだした。
ジェミは「かっこいいなあ」と手を振りながら感心していた。
山道を下るうち日は沈み、あたりは夕闇に包まれていく。
山小屋へ一度帰るつもりだったが、もう間に合わないだろう。
アルノルトはしかし、鹿の肉をクヌフウタに届けたかった。鹿の肉が大丈夫かどうかも訊いておきたかった。アルノルトはビルゲンの水車小屋へ寄った。
「ビルゲンさん、いるかい?」
水車小屋へ声を掛けると、声は上の方からした。
「ああ、こっちだ」
ビルゲンは家の裏手にある菜園にいた。
アルノルトは菜園の方へと馬で行き、身軽に飛び降りた。
「アルノルトか。馬に乗って登場とは見違えたぞ」
「こんにちはビルゲンさん。もう暗くなりそうだから、ランプを借りたいんだ」
「すぐ戻るのか?」
「明日持って来るよ」
「じゃあいいよ」
ビルゲンは一旦家に戻り、ランプを貸してくれた。
「お礼と言っては何だけど、少し鹿の肉をお裾分けするよ」
そう言ってアルノルトは馬の背から鹿肉を毛皮の袋から取り出して見せた。
「おお! これはどこで?」
「秘密の家から貰ったのさ」
「おお、お前はヴィルの家を知っているんだっけな」
「秘密と言われてるけど、でももうすぐそんなの無くなる気がするよ」
「そうだな。もうそろそろ良かろうにのう」
「村に狼の群れが出てね、退治のために罠の相談と、噛まれたら病気が移染るから気を付けるように言って来たんだ」
「時々遠吠えしとるわ。ここも気を付けんとな」
「そうだね。気を付けてね」
「なんだか他人事と思っとらんか……こんな人里離れた所に来られたら、堪ったもんじゃないぞ」
「ドアと窓は閉め寝てね。いつも開いてるから。火を怖がるから消さないで点けとくといいかもしれない」
「そうしよう。窓は壊れてたな」
アルノルトはナイフで肉を切り分け、ビルゲンにも分けてあげた。
「夕食にちょうどいいな。ありがとうよ」
「じゃあ、また明日ね」
アルノルトは手を振って家を出て、再び馬に跳び乗った。こうして飛び乗れるのはグラウエスが少し小さいお陰だ。そう思ってアルノルトは馬に感謝を示して撫でた。
山道は既に暗くなっている。アルノルトはランプに火を点け、来た道を辿った。
山小屋へ着く頃にはもう真っ暗になって、山の上には満天の星が見えた。
「こんばんは。アルノルトです」
アルノルトが夜になって山小屋へ入って来たので、クヌフウタとペルシタは驚いて言った。
「アルノルト? こんな遅くにどうしたんです?」
「エルハルトさん達はもう随分前に帰りましたよ?」
二人は囲炉裏に火を点けて、灯りと暖を取っていたようだ。
アルノルトは鹿の肉を出しながら言った。
「遅くなってしまいました。クヌフウタさん達は、鹿の肉は食べてもいいもの?」
クヌフウタはとたんに目を輝かせた。
「鹿の肉は好きですね。羊の肉もそうですが、少し甘味があっていいですね。大好物です」
「あれ? 修道院の人はそんなに肉食べていいんだっけ……」
「ええ。金曜日には食べないというくらいで、禁止はされてないんです。エンゲルベルクの人達は自然死の時にしか食べないんですが、たまに食べるともうご馳走で、取り合って食べてます」
「へえ、修道院でも取り合いが……。それはちょうど良かった。鹿の肉を貰ってきたので、お裾分けです。鹿肉は貧血や傷にいいそうだから」
「ありがとう。山のご馳走ですね! ちょうど夕食時ですし、ここの囲炉裏で焼こうかしら」
ペルシタは料理道具を取って言った。
「串で立てて炉端で焼きましょう。いただきます」
早速ペルシタは肉を受け取って、良い大きさに切り、串を打ち始める。
「ジェミのお母さんに、怪我をして貧血だったら鹿のスープがいいって聞いて来たんです」
「確かに良さそうですね。ジェミのお母さんって、あの薬を作る?」
「そうです。エドフィーユさんって言って、家の窓や庭に薬草をたくさん育てていて、本当に詳しいんです。自然を味方にすれば、自然がお医者さんなんだって言ってました」
「やっぱり素晴らしい方なんですね。鹿の肉まで使うなんて、私達以上です」
「ここに明日来てくれるそうですよ」
「本当ですか? お会いしたかったんです!」
「薬草採りのついでに、鹿の特製スープを作ってくれるそうです」
「怪我もしてみるものです。それは今から楽しみですね」
ペルシタも「ご馳走ですね」と頷いている。
「一応薬ですから、ペルシタさんの分があるかは判りませんが……」
「それは残念です……」
ペルシタは少し悲しそうな顔をする。
アルノルトは苦笑いをして言った。
「鹿の肉は全部置いて行きますから、ペルシタさんはこちらをどうぞ」
「こんなにいいんです? ありがとうございます」
肉が焼けるとペルシタはその串をクヌフウタに渡し、自身も取って、それを美味しそうに食べた。
しばらくここにいる二人には、この肉はちょうど食べやすくて良さそうだ。
家族に持って行けないのは少し残念だが、これでいいとアルノルトは思った。
「最近は狼が出るんだ。窓と扉はしっかり閉めてから寝てね」
「狼が?」
「山向こうで出てね。しかも病気持ちみたいなんだ。狼退治に行った聖ラザロの医者が噛まれてしまって、伝染病の疑いがあるそうなんだ」
そう聞いて、クヌフウタの顔色が変わった。
「もしや……狂犬病……」
「それは大変なの?」
「治療法が無いんです。発症したらほぼ助からないと言われています……」
「そんなに怖い病気だったなんて!」
「だんだん脳神経に感染して、水を見て痙攣したり、狂ったようになるんです」
「うちの牧羊犬も噛まれたんだ。犬も危ないのかな?」
「犬には感染します。それは経過に注意しなければいけませんね」
「何も無ければいいんだけど……狂犬病……」
アルノルトは帰り道、急に不安になって家路を急いだ。
家に帰って小屋の仕切りの中のベルの様子を見てみるが、いつも通りしっぽを振って寄って来たので、ひとまずは安心するのだった。




