魂の山
ビュルグレンの家に帰ると、アフラは父であるブルクハルトに即座に別室に連れて行かれた。こんな言葉が同時にやりとりされた。
「ただいまー! お土産があるの……。アニエスさんが一緒に来たの……」
「……アフラか。帰ったな……。ワシの部屋へ行こうか……。いいから今すぐにだ!」
「ハイィ……」
アフラが有無を言う間もなく説教部屋へ連れて行かれ、玄関に取り残されたイサベラは挨拶するを間もなく、どこへ行けばいいか判らなくなった。アルノルトとエルハルトはまだ羊の世話が残っていて、まだ帰って来ない。
「あ! いらっしゃい!」
と、出て来たのはマリウスだった。
イサベラは一安心して微笑んだ。
「こんばんは、マリウス君」
「お姉ちゃんの声がしたよ?」
「アフラはブルクハルトさんに連れて行かれたわ」
「あーあ。帰るなりお説教部屋だあ」
「どうしてアフラがそんなに怒られるの?」
「だってお父さんに黙ってチューリヒへ行っちゃうんだもの。怒らない親がいたらおかしいだろうね。あれ? 僕も一緒に行ったんだった!」
「マリウス君はもう怒られたのね?」
「ううん。怒られてない……僕は本当の子じゃないのかも……」
「まさか……」
イサベラは笑った。
マリウスがイサベラを見て言った。
「どうして血がいっぱい付いてるの?」
白い修道服の膝元には大きく血が付いている。これは染みになってしまうにしても、出来るだけ洗っておきたかった。
「これは山で怪我した人がいたの。洗って落ちるかしら?」
「そんなに血が出たんじゃもう大怪我だね」
「そう。クヌフウタさんが頭に大怪我をしたのよ。お母さんはいらっしゃるかしら?」
「うん。夕食作ってるよ」
イサベラはマリウスに厨房へ連れて行って貰った。そして、そこでカリーナに挨拶をすると、イサベラの服に付いた血にすぐ気が付いた。
「どうしたのかしら、こんなに血が付いて。また戦いの跡かしら?」
「これはクヌフウタさんが大怪我をして、今ウーリの山小屋にいるんです」
「大変! 何があったんです?」
「エンゲルベルクの人達と、アルノルトさん達との国境の争いがあって……石を投げられて、頭に当たったんです。この通り出血が酷くて……今は山小屋を動けません」
「そんな事が! それは心配ですね。ウチの子達は? 皆無事ですか?」
「無事です。今帰って来て向こうで羊の世話をしてますわ。アフラさんはさっきブルクハルトさんに連れられて、あちらの方へ……」
「良かった! 無事帰ったのね。服は染み抜きに水に浸けておきましょう。さあこちらで着替えて」
イサベラは客間に通され、そこで服を貸して貰って着替えた。出して貰った服は、何故か古びた黒の修道服だった。
着替えて廊下へ出ると、奥の方からカリーナの声が聞こえる。
「エンゲルベルクの国境で争いがあったんですって。アルノルト達との争いになって。ええ、無事だそうよ。これは早く皆に知らせておいた方がいいと思って」
「そうだな。説教はここまでだ。アルノルト達にも詳しく聞いてみよう」
そう言ってブルクハルトは奥の部屋から出て来た。
後ろから続いてカリーナとアフラが出て来たが、相当泣き顔だ。
「お母さんも、ごめんなさい……書き置きだけで出て行って……」
「とても危ない事をしたのは判る? いい人ばかりじゃないんだから。それに。毒を飲んで死にそうになったって聞いたわ。体は大丈夫?」
「うん。もう大丈夫。盗賊にも遭ったし、国境争いもあって怖かった……」
縋って泣くアフラを、カリーナは思わず抱きしめた。
「無事で帰れて本当に良かったわ」
「私も家に帰れて良かったー」
そう言ってアフラはさらに泣き、それを見ていたイサベラは少し羨ましく思った。
「お母さん、もう夕食は作っちゃった?」
「特製スープを作ってる所よ」
「少しになっちゃったけど、お土産があるの」
「なあに?」
アフラは荷物の中からフィノッキオを取りだした。
「一個だけになっちゃったけど、これ。スープに入れると美味しいんだって」
「これはフィノッキオね。少し間に合わないかしら……」
「どんな味だろう。皆で食べたら少しだけになっちゃうかしら?」
「また明日ね。洗っておいてくれる?」
「うん」
アフラはフィノッキオを洗い、母の見ていない隙を見て、こっそりと煮えているスープの中に入れた。
ブルクハルトは羊小屋へやって来て、エルハルトとアルノルトに事情を聞いた。
「どうしてそんな石を投げてきたんだ?」
エルハルトが父に答えた。
「そこで実を取って食べていたら、実を取るなとか、国境侵犯だとか言って来たんだ」
次いでアルノルトも言った。
「それで兄さんが国境は山の下の方だって言ったら、その後出ていけって石を投げてきたね」
「アルノルトが石を投げ返したからもっと投げてきたんだろう?」
「でも国境侵犯は奴らの方だよ? 僕らがただ逃げ出せば、奴らの不当を正当だと認めるようなものだ。でも、投げなければ良かったのかな……」
ブルクハルトは唸った。
「うーむ。難しい判断だったな。しっかり主張して来たのは褒めよう。しかし互いが領有を主張していて今また裁判にもなりそうな微妙な場所だ。事を荒立てるのは少し良くない。あそこは以前にも領地争いの裁判があってな。隣人愛の精神でお互いに譲り合えばいいと言う、何とも玉虫色の判決が出たんだ。まあそれであの辺りはゼーリスベルクの国境と同じような緩衝地の扱いになっている。現状我々の開拓の実績があるからには有利は揺らいでいないわけだがな」
エルハルトが静かに首を振って言った。
「なら、俺達は間違ってはいないよ。向こうが強硬に譲らない態度で石まで投げてきたんだ。ペルシタさんとクヌフウタさんが身を挺してその場を止めてくれた。それで一度収まったのは良かったんだけど、国境線を示すためにアルノルトがかなり遠くに石を投げたら、いきなり石を投げて来て、それがクヌフウタさんに当たったんだ。大出血する程の大怪我で、今ウーリ側の夏の山小屋で動かせない状況だ」
「それは酷いな」
アルノルトは語気も強く父に問うた。
「ウーリの領内でこんな酷い事をしたのなら、ウーリで裁くべきだよね?」
「そうだな……しかしこれは両方がエンゲルベルクの人だから、ウーリ単独では動き難いな」
エルハルトは何時になく感情的に言った。
「今はウーリ側で保護している! クヌフウタさんはウーリの客だ! 大事な恩人だろう?」
ブルクハルトは小さく笑って頷いた。
「そうだな。第一その石はお前達目掛けて投げたものだし、投石器なら殺人未遂罪が問える。重大な規約違反でもある。エンゲルベルクには協議を申し入れておかねばならんな。しかしこれは一波乱ありそうだ。早速アッティングハウゼンさんと協議して来よう」
ブルクハルトはそう言って家を出て行った。
エルハルトとアルノルトは羊を小屋に入れ、家に帰った。
「ただいま」
カリーナが二人を迎えて言った。
「お帰りなさい。早速だけど、二人も手伝って」
「何を?」
「あの血の付いた布団を洗うの。あなた達昼間はいないでしょう」
「ええ? 今から?」
「まだ日が落ちるまでは少しあるわ。あの量は洗い場に運ぶのも大変なのよ。この方の服も血が付いてて洗うのよ」
エルハルトは頷いて言った。
「やろう。マリウスの馬車で運んだらいい」
「マリウスー。馬車を貸してくれー」
アルノルトが呼ぶと、マリウスは居間からやって来た。
「僕の馬車を使うの?」
「ああ。布団を運ぶんだ。ちょっと手伝ってくれ」
「うん」
マリウスは赤い馬車を出して来て、アルノルトはグラウエスをそこへ繋ぎ、エルハルトは馬車に布団を積んで、それを洗い場へと運んだ。後ろからはアフラとイサベラも随いて来て、盥に入れた洗い物を持って来ていた。
マリウスは馬車に積まれた布団に跨がって言った。
「僕の馬車と兄さんの馬は良く似合うね。時々貸りてもいい?」
馬を引くアルノルトは少し振り向いた。
「目の届く範囲にいるんなら貸してあげるよ」
「それじゃあ、お昼は殆ど家にいないから、ダメじゃないか……」
「この後にはローマへも連れて行くから、しばらくは駄目だな」
「ローマ!」
アフラは驚いて駆け寄って来た。
「兄さんローマへ行くの?」
「ああ、討伐隊に参加してシュウィーツから感謝状と報奨金が出てね。父さんも褒美に何がいいって聞いて来たもんだから、兄さんがローマへの旅に行きたいって言って、それに僕も一緒に行く事になったんだ」
「ええ! すごい。もしかしたらクヌフウタさんの為に?」
エルハルトはそうだとも言えず、ばつが悪そうに言った。
「モランさんをローマに誘ってたら、まあ成り行きだな。ウーリの手紙を教皇様に届ける仕事もあるんだ」
「すごーい! すごいですよねえ!」
アフラはイサベラの方へも言って、凄いを連発した。
「すごい事ですね」
イサベラもこの事には驚かざるを得なかった。
洗い場へ着くと、エルハルトとアルノルトは布団を大樽に漬け込んで、すっかり固まってしまった血を足で踏んで洗い流し、さらに木の柵に掛けてブラシで擦った。
「これはとても落ちないよ、兄さん」
「まあ目立たないくらいにして、上にシーツを掛けよう」
「落ちないね」とブラシを手伝っていたマリウスも言った。
その横では盥に水を入れて、イサベラの修道服をアフラが洗っていた。
「これはとても落ちないです、イサベラさん。白ですし」
「私に洗わせて」
イサベラは布と布を懸命に擦り合わせ、染みを落として行った。
「あれ? 落ちてます?」
「修道院で少しは鍛えられましたもの」
それでも染みは完全には消えない。
「ブラシでこする?」
マリウスがイサベラにブラシを持って来た。
「ありがとう」
マリウスからブラシを借りたイサベラは、叩くように生地を擦り、さらに汚れは落ちて行った。
「これで乾けばなんとか目立たないかしら?」
「明日までに乾くかしら?」
エルハルトは空を見て言った。
「これは夜から雨になりそうだ。蒲団はこのまま一日出しておいて雨で洗おうか」
「それはいいね!」
アルノルトは大賛成だったが、アフラは心配顔だ。
「雨! ダメじゃない。イサベラさんの服も乾かないし、明日山小屋へ行くのに雨じゃあ濡れちゃうわ」
「そうか。朝には雨が止んでくれないと困るのか。朝まで雨は続くかな?」
アルノルトが聞くと、エルハルトはさらに空を読んだ。
「そう長く続く雨じゃない。朝には多分止むだろう」
「多分? 兄さんの多分なら、ほぼオッケーね」とアフラは笑顔で納得した。
イサベラは驚いてエルハルトに聞いた。
「今はこんなに晴れてますのに、どこからそんなことまで判るんですか?」
「木々からは湿気が漂うし、空からは雲の増える気配がする。実際に良く見ていれば、雲が増えてる。湿気と、風向きと、雲の形や膨らみ方、山の全てを一度心に入れて、数時間後を動かして心に見るんだ」
「余程心が大きくないと出来ませんね」
イサベラは驚嘆するよりない
アルノルトが聞いた。
「山の声って言ってたのは? 実際聞こえるの?」
「毎日そうやって山の天気を心に入れていると、自然に雨が来るのが肌で感じられるようになる。それでも風の変わり目を見逃せば時には見誤る事もある。そんな一つ一つのことが山の声になるんだ」
アフラは空を見上げ、山の声を聞くように耳を澄ましていた。ふと風に目を閉じると、心の中の鏡に映すように、夕まずめの空の天気と山々の連なる景色がそこにある。風に心を攫われて、その空へ飛び込んで空から山を見下ろしている気持ちになった。
「まるで魂の『山』ね……」
そう呟いたアフラに、エルハルトは聞き返した。
「魂の山?」
「先生の言葉のもじり。兄さんはいつもそんな凄い事をしてたのね。尊敬するー!」
「毎日放牧してれば、アフラにも出来るかもな。何なら明日も来るか?」
「私、父さんにしばらく外出禁止だって言われた……」
「それは残念だったな」
「でも、クヌフウタさんが心配だし、行きたいから、兄さんから父さんに言ってくれない?」
「まあ言っては見るが、あまり期待はしない方がいいな……」
アルノルトはまた一計を巡らせた。
「何か仕事役をあげれば納得するかも。馬の引き役をすればいいんじゃないかな。ベルがいないと僕も羊を追わないといけないから」
「なるほど。それで行こう」
「兄さん! 頼りにしてます!」
アフラはエルハルトとアルノルトの腰に飛び付くように抱き付いた。
「その代わり朝早いから、寝坊するなよ?」
「判ってます!」
「僕も行っていい?」とマリウスは言った。
「マリウスはダメー」とアフラが言うので、マリウスはこの理不尽を早く大きくなって見返してやると心に誓った。




