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峠を越えて


 エンゲルベルクの高山に閉ざされた谷にも、春を過ぎる頃には鮮やかな緑が繁り、高地にも陽気が射して初夏の気配を感じさせ始める。エンゲルベルクの谷の奥には岩を割ったような峡谷が孤を描くように高地まで続き、ウーリへ続く峠への一本道になっている。

 その登り坂を歩く異風の修道女達の姿があった。

 それは亜麻色の修道服のクヌフウタとペルシタ、それに白の修道服のイサベラだった。いつもならアルノルト司祭も付き添う所だったが、今日はあいにく忙しくて来れなかった。そこにはもう一人、修道服ではないアフラも後に続いていた。そして、アフラだけは毛布にくるんだ大きな荷物を背負って持っている。それで山を登るのはきつかったが、幸い中身は服やお土産で重量物は少ない。

 クヌフウタは高山植物の薬草を採りながら、アフラにその説明をして歩いた。


「これはルプレへトスクラウト。切り傷の止血にいいんです」


 クヌフウタは岩に張り付くような小さな薄紅色の花を一つ摘んだ。


「ルペヘトスカート? 舌噛みそうです」

「ルプレへトス・クラウト。クラウトは薬草の意味です。ゼラニウムの仲間ですね」

「ルプレへトス・クラウト。ゼラニウム。覚えてられるかしら?」

「これもある程度高い場所にしか咲かないんです。花をこうして潰して、傷に塗って使います。お肌のトラブルにも大抵は効きます。たくさん咲いてるので少し採って行きましょうか」


 クヌフウタ達はその花を摘んで布に集めた。

 アフラは大きな荷物があって、その手伝いが多くは出来なかった。

 その荷物には、既に貰って来たカモミールやカレンデュラ、セイジが入っている。

 そうして薬草を集めながら、一行は高原を登って行った。

 高原の野は壁のような山と山の間に沿って細く続き、そのなだらかな坂はかなり高地にある峠まで続いている。

 峠を見上げると、上には小さく人がいる。

 果たしてそれは兄達だった。


「おーい!」

「ヤーホッホー!」


 山の上からそう声が響いてきた。

 アフラも大きな声を張り上げて言った。


「ヤッホー!」


 そう言ってアフラは大きく手を振った。

 兄達も手を振って返した。


「聞こえたみたい……」


 イサベラやクヌフウタも大きく手を振っていた。


「あんなところからでも声が聞こえるなんて」

「ここでは声が山に木霊して、遠くまで声が響くようです」


 イサベラの疑問にそうクヌフウタは解説した。


「ですのでまだまだ道は遠いですよ。気にせず焦らず登っていきましょう。山に登るのも最後でしょうから薬草もしっかり採って帰らないといけませんしね」


 クヌフウタ達は再びゆっくりと道を上り始めた。

 登っていくと小さなバラのような赤い花が咲いていた。イサベラがそれを指して言った。


「綺麗な花が咲いてます。これは何ですか?」

「綺麗ですね」とアフラは顔を近付けて匂いを嗅いだ。

 クヌフウタは答えて言った。


「これはアルペンローゼね。これも高い場所にしか咲きませんね」

「これも薬になるんですか?」

「いえ! これは有毒です。食べてはダメ!」

「ええ! こんなに綺麗な花なのに」と、アフラは驚いて顔を離した。


「色の強いものには毒のある植物が多いですから、不用意に食べたりしてはいけませんよ」

「はい!」


 再び一行が登っていくと、青紫色のスミレの花が咲いているのをアフラが見付けた。


「これは強い色! 毒ですか?」

「あ! 良く見付けました! これはスミレね。これはいいお薬になりますよ」


 イサベラが花を見て言った。


「これがスミレ? 綺麗な良い色ですね。初めて見ました」

「花や葉はお茶にもなって頭痛や咳に効きますし、根は腫れものにいいんです」

「これは飲めるんですね!」

「ただ、根は飲むと嘔吐を起こします。前にアフラが毒を飲んだ時にはこれが欲しいと思ったものです」

「じゃあ、根っこごと採っておきますね」


 そう言ってアフラは根っこごとスミレを抜いた。が、根は途中で切れてしまった。

 クヌフウタは残念そうにしている。


「ああ……抜くときはしっかり掘ってね。途中で根が切れると保存があまり出来なくなりますから」

「あーあ。切れてしまったわね、アフラ」

「ごめんなさーい」


 根から土を落としつつ、アフラはスミレをクヌフウタに渡した。


「いいえ。ありがとう。もう一つ根っこを綺麗に取りましょうか」


 アフラはもう一つ根を丁寧に掘り出して渡し、クヌフウタはそれをしっかり腰の布にくるんで入れた。

 さらに進むと、そこには灌木に赤い実が生っていた。


「クヌフウタさん。あの実は何ですか?」

「あれは、ヒムベリーですね」

「ベリー? じゃあ食べれますね!」


 ヒムベリーは高山にだけ生るラズベリーの一種だ。


「もちろん食べられますよ。でもまだ少し早いです。葉は薬にもなりますから、少し採りましょう」


 そうしてクヌフウタがその葉を採っていると、山の上から兄達二人が下りて来た。


「兄さん!」とアフラが小さく手を振った。

 数歩岩を飛んで来て、「やあ、こんにちは」と、アルノルトは挨拶をする。


「こんにちは」と応えたのはイサベラだった。


「お姫様がこんな高い山に良く登ったね」

「薬草を採りながらだし、登りやすい道だったわ」


 後ろからはエルハルトも歩いて下りてきた。


「エルハルト兄さんも! 二人とも来ちゃって、羊は見なくていいの?」

「向こうで見てる人がいる。こんな荷物が大きかったから、アルノルトが手伝おうって言うんでな。迎えに来た」

「ありがとう」


 エルハルトはクヌフウタにも挨拶をする。


「妹がお世話になりまして、ここまでありがとうございます」

「こんにちは。お迎えありがとうございます」


 クヌフウタは二人の兄弟に挨拶をした。手にはヒムベリーの葉を持っている。


「何を採ってるんです?」

「ヒムベリーの葉です」

「おっ。実が生ってますね」

「まだ少し早いようです」

「これくらい大きければ、食べられそうですよ」


 エルハルトは実を一摘まみして食べてみた。


「少し酸っぱ味があるけど……いける! どうですか一つ?」


 と、エルハルトは幾つか実を取ってクヌフウタにも渡した。

 クヌフウタは少し困った顔で笑い、自身は食べず、それをイサベラへ渡した。

 イサベラは一口食べて苦いように顔を崩して言った。


「んーっ。酸っぱいけど、おいしい!」

「私も食べたーい」


 と、アフラも実を貰って食べ、目を瞬かせた。


「甘酸っぱーい!」

「あ、僕も食べたい」とアルノルトも欲しそうにした。


「少し取って帰ろう」


 エルハルトがさらに実を取ろうとすると、クヌフウタは言った。


「あまり取り過ぎてはいけません。程々に押さえて下さい!」

「そ、そうでした。クヌフウタさんとペルシタさん、アルノルトもまだだし、向こうにも待っている人がいるので、あと五つ程取っていいですか?」

「ダメです。実は種になりますから。増えなくなっては困ります」

「まだこんなに実が生ってるのに……」

「鳥も食べますし、根付いてしっかり成長するのは少ししか無いんです……あと一個で締め切りですよ」

「あと一個? アルノルト、お許しが出た」


 エルハルトは実を一つ採って、アルノルトに渡した。


「ありがとう」


 アルノルトは実を受け取ったが、その場では食べず、腰に下げた皮袋に入れた。

 そうしていると、遥か下から声がした。


「何してるんだ!」


 下を見ると、麓の草原から若い牛飼い達が牛を連れて上がって来ていた。

 エルハルトは怒られそうな雰囲気だったので、慌ててヒムベリーから離れた。


「実を取っただろう? 聞こえてるぞ!」


 下の牛飼いの声は大きく響いて聞こえて来た。こちらの声も聞こえる事だろう。


「すいません! もう採るのは止めました!」


 エルハルトはそう叫んだ。


「やっぱり取りやがったか。返せコラー!」


 別の牛飼いも怒ってさらに怒鳴った。


「ここはエンゲルベルク領だぞ! 勝手に採るな!」

「ウーリは出てけ!」

「出て行け実ドロボウ!」


 牛飼い達の怒りはエスカレートして行った。それもそのはず、ここはウーリとエンゲルベルクの双方が領地の主張をしている地域だったのだ。


「ここはウーリだ! この下までのはずだ!」とエルハルトは叫ぶ。この言葉は怒りに油を注いだ。


「何だと! 盗人猛々しい! 隣人愛の精神で放牧は許してるだけだ!」

「これは侵犯行為だ!」

「コノヤロウ! 出て行けー!」


 牛飼い達は石を投げ出した。しかし、それは当然上には届かない。

 アルノルトが前へ出て言った。


「石で脅したってここはウーリだ! まあ届かなきゃ脅しにもならないぞ!」


 すると牛飼いは投石ロープを取り出し、石を乗せて回し始め、音を立てて投げた。

 石はぐんぐん高く飛び、すぐ目の前に落ちた。


「と、届いたよ……」


 牛飼い達三人は、前へと助走しながら投石ロープで石を投げ始めた。

 石はアルノルトのすぐ足元にまで飛んで来た。


「やったな! シスター達がいるんだぞ!」


 アルノルトも作りたての投石ロープを取り出し、石を投げた。まだ殆ど慣れていなかったので、威嚇に投げてみたというのが正しい。しかしそこは山の上の方、思ったよりも距離が伸び、牛飼いの後ろにいる牛の近くに当たり、牛が驚いて逃げ出した。


「あっ! 牛に! コノヤロウ!」


 牛飼い達はさらに怒って激しく石を投げ出した。狙いも判ってきたのか、石がかなり近くに飛んでくる。しかも三人が連投して来るので、間髪無く石弾が飛んで来た。


「怖え!」

「キャア。怖い!」

「怖いわ!」


 エルハルト、アフラ、イサベラは岩影に隠れた。しかし、アルノルトはまだ隠れず、石を投げ返そうとしていた。


「止めなさい。当たれば怪我じゃすまないわ」


 クヌフウタはアルノルトが石を投げ返そうとするのを止めに来た。


「でも! あいつらが投げてくるんだ!」


 そう言いながらもアルノルトは投石ロープから石を落とした。

 ペルシタは牛飼い達に向かって歩き、大きく叫んだ。


「止めなさーい!」


 クヌフウタもそれに続いて叫んだ。


「やめなさーい!」


 クヌフウタと牛飼いは一応の面識がある。牛飼い達は石を投げる手を止めた。 

 そこへクヌフウタの前に、エルハルトが立ち塞がった。


「女性に当たるだろ! 投げるな!」


 牛飼いは叫んだ。


「お前達が出て行けばいいんだろうが!」

「取り敢えずすぐ離れる! だから石を投げるな!」

「離れる前に、認識を改めて行け! 峠までがエンゲルベルクの領地だ!」

「それは、駄目だ! ウーリはウーリだ!」

「そう言う奴は国境侵犯だと言うんだ!」

「大体、峠以外のどこに国境があるっていうんだ!」


 そう言う牛飼いに、アルノルトが叫んだ。


「お前達こそ国境侵犯だ! 国境は木の立て札がある!」


 牛飼いは言った。


「どこだ? 見えないなあ」

「そんなの無いぞ!」


 牛飼い達はそう笑った。

 アルノルトは石を拾い、指を指して言った。


「今、石を投げる辺りだ!」


 アルノルトは投石ロープで高く石を投げた。石の落ちた近くには、石を積んで立てられた木の杭があった。杭には何か文字が刻まれている。


「あれが国境だったのね!」と、クヌフウタにはそれが見えた。

 しかし、石は坂を弾んでまだ転がった。それは牛のいる辺りに落ちて行き、牛が逃げ惑った。


「ヤロウ! また、牛を!」


 牛飼いは怒って投石器を回した。


「止めて下さい!」


 クヌフウタはエルハルトの陰から前に出て来て手を広げ、叫んだ。

 牛飼いが投げた石は孤を描いて、クヌフウタの頭へ落ちて来た。


「キャッ」


 クヌフウタは咄嗟に避けたが、石弾は手に、そして頭に当たった。クヌフウタは崩れるように蹲った。


「クヌフウタさん!」


 エルハルトとペルシタがそこへ駆け寄った。

 クヌフウタは朦朧としたように頭を押さえ、その手には多量の出血があった。


「あ……血」

「しっかり!」


 しかし、クヌフウタからは意識が途切れた。

 エルハルトはクヌフウタを抱き抱え、山を駈け上った。

 アルノルトは怒りにまかせて叫んだ。


「シスターに当たったぞ! ウーリで裁いてやるからな!」


 エルハルトは小さく振り向いて言った。


「いい。アルノルト。クヌフウタさんの怪我が優先だ。峠を越えるぞ!」

「判った。大丈夫かい?」

「かなり酷い……」


 石弾がまだ幾つか飛んでくる中、エルハルトはクヌフウタを腕に抱えて、皆のいる岩の陰まで駆け上がった。

 アルノルトは一抱えもある岩を下に投げて転がし、牛飼い達を大いに慌てさせると、エルハルトを追った。下で牛飼い達は岩が牛に当たると大変だと大騒ぎになり、牛を避難させに走った。


「クヌフウタさん……」


 イサベラやアフラは、クヌフウタを見て顔を真っ青にした。

 ペルシタはクヌフウタのベールキャップを外して傷を見た。


「血がこんなに……」


 クヌフウタの長い金色の髪を染めるように、血が溢れていく。すぐに医者を呼びたいが、この高い山の中では呼びようが無い。クヌフウタ自身が医者ではあるが、自身が倒れていれば処置は出来ない。なんとか気を戻して、指示して貰うしかないと、ペルシタが懸命に呼び掛けた。


「クヌフウタさん! しっかりして下さい!」


 しかし、クヌフウタの目はまだ虚ろだった。


「ルぺ……」と、何かを言っている。

 アルノルトが走って来て言った。


「しばらくは石も大丈夫だ。今のうちに取り敢えず安全なところへ! 峠まで行こう!」


 一同は頷いて山を登り始め、アフラは大きな荷物を楯にするように一番後方を歩いた。

 アルノルトは目覚ましい速さで山を駆け登り、少し峠が近くなると、指笛を吹いた。

 峠の向こうから顔を出したのは、グラウエスだった。


「グラウエス!」


 アルノルトが手を招くと、グラウエスは急坂を小走りで下りて来た。

 そしてアルノルトは馬を引いて兄の所へ戻った。


「兄さん、クヌフウタさんを乗せよう」

「いい判断だが、まだ意識が薄い。クヌフウタさん、馬に乗れますか?」

「ルプレヒ……」


 クヌフウタがそう言ったのをペルシタが聞いて言った。


「ルプレヒトスクラウトですね。この出血では、すぐに手当が必要です。まずは薬草を塗らせて下さい」

「手当てが出来そうです? 少し上の平らな所まで出ましょう」


 エルハルトは少し上った所にある平らな砂地の上に、クヌフウタを下ろした。

 イサベラはクヌフウタに膝枕をして座り、アフラはクヌフウタの足を楽に伸ばしてあげた。

 ペルシタはその隣に座って傷を見つつ、クヌフウタに声を掛けた。


「クヌフウタさん。判りますか?」


 クヌフウタは目を開けて、か細い声を震わせた。


「ペルシタさん……ルプレヒトスクラウトを……」

「心得てます」


 ペルシタはクヌフウタの腰布からヒメフウロの花を取り出し、花を潰して傷に塗った。

 しかし、花を塗っても出血が多過ぎて血で流れてしまうような状況だった。


「クヌフウタさん、血が出過ぎていて、あまり付いてくれません」

「そうですか……じゃあ、さっきのベリーを……」


 エルハルトが「戻って採って来ましょうか」と言うのをクヌフウタは止めた。


「それは、危険です。アルノルトさん……アルノルトさん」


 アルノルトは少し遠い所で馬に草を食べさせていた。


「兄さん! クヌフウタさんが呼んでる!」


 アフラに、否、クヌフウタに呼ばれたアルノルトは驚いてやって来た。


「アルノルトさん、さっきのヒムベリーはありますか……」

「あります。ここに」


 アルノルトは腰に付けた革袋の中のヒムベリーを差し出した。

 クヌフウタはそれをペルシタに渡して言った。


「これをよく練って、傷に塗って下さい」

「はい」


 ペルシタは言われたとおり、ヒムベリーを潰してよく練り、傷を塞ぐように塗った。それによって少しは血が流れ出なくなった。


「針と糸はありますか?」

「あります!」


 ペルシタの腰袋には救急用の一式が入っていた。包帯や針と糸も入っていた。


「縫って下さい」


 クヌフウタにそう言われ、ペルシタは震え上がった。


「私にはとても出来ません……」

「自分では縫えませんし、お願いします。手も酷く怪我をして、無理なんです」


 クヌフウタはそう言って、自分の右手を見た。


「こんなに腫れて……骨が折れてるかもしれません」


 石は薬指と中指の背に当たったようで、クヌフウタの指は擦り剥いて腫れていた。

 ペルシタは針に糸を通し、頭の傷を手で探って刺してみようとする、しかし、ここには痛み止めは無い。頭に針を刺す事はどうしても出来なかった。


「出来ません……私には無理です!」


 ペルシタは目を覆った。


「困りましたね。自分でする事は出来ませんし……。血が多く出て、少し貧血になって来ました。本当に困りました……」


 クヌフウタは万策尽き、祈るような仕草をした。

 このままでは血が出過ぎて死んでしまうことも考え得たが、誰もそれは考えたくない。エルハルトは出血多量で死んだ討伐隊のことを思い出し、そしてそれを思うことすら忌避し、頭を振った。誰もが同じくクヌフウタのその危機を口にすることすら憚られた。

 そこへアルノルトが言った。


「傷口をくっつけていられればいいんですよね? いい方法がある」

「どうするんです?」

「犬が怪我した時の方法なんだけど、毛を結んで傷を合わせるんだ」

「毛を?」


 エルハルトは嗜めるように言った。


「血が止まらないと……大変なんだぞ。犬の治療と一緒にするな」

「獣医兼医者だよ? 傷をしっかり合わせて意外と繊細な処置だった。僕はその処置をしっかり見てたんだ。僕なら多分出来る」


 クヌフウタはアルノルトを眩しく見て言った。


「おお、我が救い主よ。ここでは一番いい方法のようです。お願いします……」


 アルノルトは大きく頷いた。そして傍らに座り、さらに蹲るような姿勢でクヌフウタの傷を見た。しかし、位置が低く、陰になって見えにくい。すぐ隣には膝枕をするイサベラがいた。


「もう少し体を起こしたいな。この辺りで頭を持てるかい?」


 イサベラにアルノルトはそう声を掛け、「はい!」とイサベラはそれに応じる。

 アルノルトは少し楽な姿勢になって、クヌフウタの傷の近くの毛髪を掴み、結び始めた。


「痛ッ」


 とクヌフウタが言った。それはイサベラの手が震えて毛が引っ張られたからだ。それによって傷も動く。


「動かないで…‥と言っても無理そうだな……」


 そっと横からペルシタが膝を入れ、首を支え持ち、クヌフウタの頭は二人でしっかり固定された。その内に二人の服に血が染みを作ったのは言うまでもない。そして次第に足が痺れて辛くなった事も。

 アルノルトはしかし、そのお陰で集中出来た。髪を数本掴んでは、一つ、また一つと結んでいく。あまり格好は気にしていられないので、その結び目は不揃いだが、傷をしっかりと合わせる事は出来た。


「出来た! これで大丈夫かな?」


 アフラが抗議の声を上げた。


「かな? って疑問符を入れないで。大丈夫なの?」

「傷はしっかりくっつけた。大丈夫だと思う。多分……」

「多分……」


 と、息を吐いてかなり疲れた声で言うイサベラも不服そうだ。

 クヌフウタは二人に言った。


「大丈夫です。アルノルトさんは最高の処置をして下さいました……。ありがとうございます。ここからは天の采配と私の自然治癒力です。でも、どうしましょう……貧血で時々気が遠くなって、とても山を歩けそうにありません……」


 エルハルトはクヌフウタに言った。


「馬に乗って下さい」

「馬?」

「連れて来てるんです。これからウーリの山小屋まで行きましょう」

「まあ。良かった……」

「手の応急処置もしましょう」


 ペルシタはクヌフウタの手の怪我にも薬草を浸けて手当てをした。


「骨は大丈夫のようですね」とペルシタが言ったので、こちらは一安心だった。

 手当てが終わるとエルハルトはクヌフウタを持ち上げて、横座りの姿勢で馬に乗せた。アフラの荷物も馬に乗せると、エルハルトは馬を引いて歩いた。

 しかし、少し歩いていると、クヌフウタは目眩がして馬の上から落ちそうになった。


「危ない! 落ちるよ!」


 アルノルトは倒れそうになっているクヌフウタに横から抱き付いて支えた。そしてその体をそのまま横たえるように腹這いにさせて乗せ直した。次にはアルノルトはその後ろに飛び乗って跨がり、クヌフウタが落ちないように支え持った。


「先に小屋に行ってるよ」


 アルノルトは手綱を取って、馬を発した。

 呆気に取られた一行を振り返り、アルノルトは一度手を振り、さらに走った。

 クヌフウタは逆さ吊りのような格好で、視界には馬の足、そして高山の道無き道が飛ぶように流れて行く。恐ろしいとも思ったが、今はそんな気持ちさえ動かす余裕が無かった。

 素晴らしい速度で馬は山小屋へと辿り着いた。小屋の前には羊を見ていたアンドレアスがいた。ヘロンは眼下で草を食む羊の群れのさらに下にいる。


「どうしたんだい? その人は。怪我してるようだ!」


 ノッソリと歩み寄って来たアンドレアスに、アルノルトは馬を下りて言った。


「大怪我なんだ。頭に石が当たった。運ぶのを手伝って」


 背の高いアンドレアスがクヌフウタを馬から下ろした。クヌフウタの歩みは覚束なかったので、アンドレアスはさらに抱えて小屋の中まで運んだ。


「ありがとうございます……。ここはもう山小屋ですね。早かった……」


 クヌフウタは目眩と頭痛がするようで、辛そうに頭を手で押さえていた。


「クヌフウタさん、奥で寝ていて下さい」


 アルノルトの案内で、小屋の一番奥の少し高くなったベッドスペースに毛布を幾重にも敷き、クヌフウタはそこへ体を横たえた。


「ようやく血が止まってきたようです。アルノルトさんのお陰ですね。アルノルトさんが救い主に見えましたよ」

「いいえ。たまたま犬の怪我の治療を見ていたお陰です。もうここなら寝てても大丈夫ですよ」

「そうさせていただきます……」


 そう言うと、クヌフウタは眠ってしまった。

 しばらくすると、エルハルトが山小屋へ到着した。


「クヌフウタさんは無事着いたか?」

「シッ。もう奥で寝てるよ」と、アルノルトは人差し指を口に当てた。

 ペルシタとイサベラ、アフラも少し遅れてやって来る。


「クヌフウタさん!」

「シーッ! 今もう寝てる……」


 入るなり叫ぶアフラをアルノルトは制した。

 ペルシタは努めて静かにクヌフウタの寝床へ上がって行き、その手を取った。

 そして怪我の血を拭い始めた。


「かなり血が止まったようですね。これなら大丈夫そうです」


 ペルシタの言葉にエルハルトやアフラはホッとした。


「よかった……」


 イサベラは涙ぐんでアルノルトの手を握った。


「アルノルトさんのお陰ですね。ありがとう。ユッテならキスしてるところだわ」

「あれは正直恥ずかしい……」


 アルノルトは照れて頭を掻くよりなかった。


 夕方も近付くと、放牧に来ていたエルハルトやアルノルト達羊飼いは帰らなければならなかった。

 深く寝入っているクヌフウタは当然しばらく動かせない。ペルシタは一緒に付き添って山小屋へ泊まる事にした。

 アフラは兄達と一緒に帰る約束だ。イサベラだけは明日にはブルグントへ発つ予定で、ここから一人、エンゲルベルクへ戻らなければならなかった。


「イサベラさんはどうします?」


 アフラはそんな状況を心配して聞いたのだ。

 イサベラは迷った。明日の朝には出発でもあるし、エンゲルベルクに帰って事態の説明をするべきでもあるが、一人でさっきの山道を行くのは嫌だった。何より過度な緊張と慣れない登山で全身が疲れていた。クヌフウタやペルシタと共に残る方が、手伝える事もあるかも知れないと、そう口にした。しかし、それはアルノルトの声で意外な決着となった。


「ここには何も食料が無い。馬で一緒に下りて家に来ればいい。一度ウーリへ来て、明日また一緒にここへ戻って来ればいいさ」


 その誘いは最高に魅力的過ぎた。最後にアルノルト、アフラと共にもう一度ウーリで過ごせる——それはイサベラにとってこの上なく嬉しい誘いだった。加えて、この騒ぎでまだ騎士オスカーの話も聞けていなかった。


「あなたはなんてことを事を言うのかしら」

「何か悪い事言った?」

「ご迷惑で無ければ……そうさせて下さい」

「ウチはもう気心も知れてる。迷惑なんてないさ」


 アルノルトがそう言うと、アフラが喜んだ。


「じゃあイサベラさん! 今日はウチにお泊まり? 嬉しい!」

「私も! もう一日ウーリで一緒に過ごせるなんて!」


 イサベラとアフラは手を握り合った。


「クヌフウタさん達や護衛には少し悪いけど……」と、イサベラは少し肩を竦めた。

 羊飼い達は羊を纏めて準備を終え、イサベラはエルハルトが抱えるようにして横座りで馬に乗り、その後ろにはアフラも荷物を載せ、皆が出発しようとしていると、アフラは荷物から何か取り出して「ちょっと待って」と言って山小屋へ戻った。

 アフラはお土産に貰ったフィノッキオをペルシタに渡した。


「少ないですが、これ、食べて下さい」


 ペルシタはその球根二つを受け取って、和やかに礼を言った。


「お志しをありがとう。炉で焼いて食べてみます」


 囲炉裏にはエルハルトが既に火を灯してあった。

 ペルシタは小屋の外へ見送りに立ち、イサベラとアフラ、そして兄達は手を振って山を下りて行った。

 山を下りる道すがら、イサベラは馬を引くアルノルトに騎士の最期のことを訊いた。


「騎士さんが死んだ時のこと? 僕が知ってるのは馬車で運んでる時に血が出過ぎて死んだ事くらいだ。首を切られてて、薬草を塗ったけど、とても効かないくらいだった。今はクヌフウタさんがこんなことになって、とてもじゃないが思い出したくない」

「そう……」


 アルノルトは先行するエルハルトに呼び掛けて言った。


「エルハルト兄さん、兄さんは騎士さんが怪我をした時に一緒だったんでしょう?」

「ああ……でも、俺も今は思い出したくない……クヌフウタさんの無事を祈れなくなりそうだ」


 エルハルトはその記憶を振り払うように首を振った。


「ごめんなさい……こんな時に……」


 イサベラは今はその事を聞いてはいけない時なのだと、諦めるよりなかった。

 羊達が長い列を作り、道を歩いて行く。羊の列はビュルグレン村の広場を通り、そこでアフラはサビーネの家に寄った。


「おばあちゃん。いるー?」


 サビーネは家の奥から出て来て、目を丸くして驚いた。


「アフラ! アフラなのかい?」

「今帰って来たわ」

「まあアフラ、あのまま帰って来ないなんて、あんまりじゃないか」


 サビーネはアフラを抱きしめた。


「ごめんね、おばあちゃん。いろいろあって……」

「いろいろじゃあ判らない。どこへ行ってたんだい」

「ヴィンテルトゥールへ行って、ラッペルスヴィル城に泊まって、アンンジーデルン修道院でしょう? それから三日ほどエンゲルベルク修道院に行っていたの」

「それはたくさん行ったもんだ。じゃあこれにも行ったんだね」


 サビーネは会報を取り出して見せた。


「あ、またエックハルト先生の記事が出てる」

「やっぱり偉い先生のようだね」


 アフラはその会報の記事を読んだ。


「トエス修道院にエックハルト牧師来たる。明かされた聖母マリアの秘密。エックハルト牧師は子供を産んだ人でさえ、誰も触れ得ない処女性に立ち返る事が出来る。そこに聖母マリアやイエスにも通じる魂の秘奥があると説いた。書いた人偉い! その通りだわ! 素晴らしい講義だったの。その日はトエス修道院に泊まって、夜までエックハルト先生と過ごしたのよ」

「そうかい。それは良かったねえ。難しい字もスラスラ読めるようになったようだ」

「ええ。聖書も読んで勉強したもの。あ! クヌフウタさんの事まで出てる!」

「これかい? 無料診療をするシスタークヌフウタ」

「ええ。その寄付金はベギン会と怪我をした少年に充てられたってしっかり書いてある。これ、私が手伝ったのよ」

「そう! それはいいことをして来たねえ」

「トビーっていう子が怪我してね。お母さんのリリアさんがおばあちゃんの事知ってたの」

「ああ、リリアなら知ってる。チューリヒに実家があってね。よく母親とベギン会を手伝いに来ていたよ」

「おばあちゃんもベギン会に入ってるの?」

「ウーリは聖母聖堂の領で生計を立てる人が多いだろう? そう言う人はみんな聖母聖堂のベギン会みたいなものさ」

「そうなの? 知らなかった」

「ベギン会と呼んでないから殆どそう気が付かないかもしれないね」

「おばあちゃんにお土産があるの。お茶にして飲んでね。まだ作りたてよ」


 アフラはセイジとカモミール、そして水の入った瓶を出してサビーネに渡した。


「これはいいお茶だねえ」

「あとこれは重かったわ。アインジーデルン修道院の聖水なの。万病を癒すんだって」

「それは有難いねえ。これは勿体なくて使えないよ」


 サビーネは瓶を透かして見ながら微笑んだ。

 そしてアフラは幾つかの上等な服を取り出した。


「お婆ちゃん、上等のいい服を貰ったのだけど、ここに置いておいてもらってもいい? お父さんとお母さんがビックリしちゃうから……」

「ああ、これはいい生地だね。いいよ。仕舞っておいてやる」


 家の入り口にアルノルトが馬と一緒に顔を出して言った。


「そろそろ行くぞーアフラ?」

「わ! 待って!」とアフラが慌てた。

 サビーネはアフラと一緒にアルノルトに近付いて言った。


「ちょっとくらいは待ちな。アルノルトは冷たいねえ。帰って来ても顔を出すわけでなし。おや? あなたは」


 サビーネはアルノルトの後ろで馬上にいるイサベラに気が付いた。


「こんにちは、お婆様」


 イサベラは馬上から少し身を屈め、挨拶をした。


「何時ぞやのお嬢ちゃんだね。エンゲルベルクの」

「はい! エンゲルベルクから山を越えて来ました」

「アフラはあなたに会いにエンゲルベルクに?」

「いえ、クヌフウタさんと言うシスターがいまして、薬草の事を習っていたんですわ」

「あの無料診療のクヌフウタさん? そう言うことだったのかい」


 アフラは頷いた。


「うん! でも、クヌフウタさんは峠の方で頭に大怪我をしちゃって。まだ山小屋にいるの……」

「それは大変だ。山じゃあ手当もろくにできないだろう」


 アルノルトが得意気に笑った。


「一応は手当をして来たよ。クヌフウタさんも医者だし、きっと大丈夫さ」

「そうならいいが、医者だって人間さ。面倒を見てあげないとね」

「明日も食べ物や物資を持って行くつもりだよ」

「怪我だと栄養を付けてあげないとねえ」


 アフラが言った。


「お母さんにいい食べ物を頼まなきゃ。じゃあ私、行くわね」


 アフラは手を振ってサビーネの家を出た。そしてアルノルトに替わって馬を引き、先へ行った羊を追い、家へと向かった。




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