エンゲルベルクの薬草園
細く深い谷の奥のさらに奥、そこに奇跡のように広がる広い高原の只中にエンゲルベルク修道院はあった。
エンゲルベルクはその奥深い谷全体が独立した修道院領として成り立っており、修道士達は人里離れた山の中で自給自足の生活をしていた。
それはアインジーデルン修道院と同じと言っていいが、少し違ったのは、他領の人が入るのを嫌い、訪れる人もまた少なく、物資が寄付される事も少ないという事だった。つまり、足りない物資は自給自足するか、いつまでも足りないままだったと言っていい。
アフラが行った時、予想していた通り毛布が足りなかった。幸いにして来る時に被っていた毛布で荷物をくるんでいたので、寝るときには荷を解いて使う事が出来た。
修道院の朝は早い。まだ暗い内から修道女達と一緒に起き出し、クヌフウタやイサベラと一緒に、アフラも夜明け前の礼拝堂で聖書の詠唱や聖歌の合唱、そして朝のミサにも出席し、いきなり修道女達に混ざって生活をすることになった。それ自体はエーテンバッハ教会でも時に見ていた事でもあったが、全てがラテン語で行われ、部外者には理解することすら難しい。服装はエーテンバッハから貰って来たスモック着を着たので、白い修道服のイサベラと少し似た雰囲気で隣に並んでいた。
「ラテン語なのによく慌てもせず乗り切ったわね、アフラ」
イサベラはアフラを褒めた。
「さっぱり判りませんでした。殆ど口パクですから」と、アフラは笑った。
二人で笑っていると、クヌフウタが言った。
「この後は早速行きましょうか。私達の薬草園に」
朝の一連のお勤めが終わると、クヌフウタはアフラを薬草園に連れて行った。手には鍬やバケツを持っている。イサベラやペルシタも当然一緒にそれらを持った。最初は手ぶらだったアフラも途中でイサベラの持つ鍬を持った。とても王女様の持つ物ではない。
薬草園は修道院裏の少し高い場所の一角に、木の柵を巡らせて作られていた。
そこには既に中年の修道士がいて、柵を見て回っている。クヌフウタらを待っていたようだ。
「おはようございます司祭様。留守の間もお手入れをありがとうございます」と、クヌフウタはその修道士にお礼を言った。
「ああ、お早う。私も同じ薬草のチームだし、後に残って世話するのは私さ。気にすることは無いんだよ」
修道士はそう言って笑った。修道士はよく見ると豪華で白い司祭服を着ている。先程のミサでも司祭を務めていたのだ。
「おはようございます、アルノルト司祭様」
イサベラも司祭に挨拶をする。
アフラはその名前に驚いて言った。
「アルノルトって兄さんと同じ名前!」
アルノルト司祭はアフラを目に留めた。
「おや、こちらがお客様かな?」
アフラは小さく裾を摘まんで言った。
「初めまして、アフラです。クヌフウタさんに薬草を習いに来ました」
「そうか、それはいい。とても為になるから大いに教えて貰いなさい。私もこんな立場ながら大いに指導して貰ってますから」
クヌフウタが謙遜して言った。
「そんな。私の薬草の浅学など、司祭様からすればほんの僅かなものですわ」
「そのお陰でどれだけの病人が助かっていることか。高貴な出身でありながら、施薬から栽培までもしていただいて、皆も感謝してますよ」
「いえ、司祭様のご厚意でこの薬草園が出来つつあるんですわ。心より感謝しております」
「こちらこそ、とても良いものが残る。誠にありがたいことです」
「いえいえ、置いて頂いているご恩を少しでもお返し出来れば幸いです」
「いやいや、こちらはもうずっといて欲しいくらいだ。皆で引き留めているくらいなんですからな」
そんなお互いに讃え合うようなやり取りが続いて、アフラは横で聞いていてこそばゆくなった。
司祭は指を指して言った。
「ところで、旅の間に牛が入ったようでな。あそこの柵が壊れている。直さなければならないんだが」
「そうですか。では今日はそこを直しましょう」
「直すついでに柵を広げたいと思っておるんだ。場所をもう少し広げておこう。また農夫から種を貰ったんだ」
そう言って司祭は種の入った袋をクヌフウタに渡した。クヌフウタはそれを開いてみる。
「何の種です?」
「これはサルビアの種だそうだ」
「まあ。でも、サルビアなら少し撒く時期が過ぎていますわ。急いで蒔きませんと」
「今頃なら大丈夫だとその農夫は言っていたよ?」
ペルシタがバケツに水を汲んで持って来て言った。
「まずはクヌフウタさん、水をあげませんと」
「そうですね。すいませんつい長話をして。まずはみんなで水を撒きましょう」
クヌフウタ達は手分けして薬草に水をあげた。ジョウロなどは無く、誰かがバケツを持って歩き、もう一人が柄杓で水を掬い、上手に水を散らして撒かなければならない。柄杓も数が少ないので、アフラは水を撒くクヌフウタにバケツを持って移動させつつ随いて歩く。
「あっ。この黄色い花知ってる。牛の花」
アフラは既にお馴染みの黄色い花、キンセンカを見付けた。ウーリ辺りでは牛の花とも呼んでいる。
「これはよく使っているカレンデュラです。ウーリでは牛の花と呼ぶんですか?」
「はい。牛が好きでよく食べてるので、そう呼ぶんです」
「牛もこの花が薬だと知ってるのかしら? これは傷や腹痛、風邪にも効く、万能薬ですね。マリーゴールドと似ているので、見間違えないように色と形をよく覚えてね」
水を撒いて歩きながら、クヌフウタのハーブの講習は既に始まっていた。
「この黄色い花はフェンネルです。種が胃の薬になるのよ」
それは黄色の芹のような花だった。クヌフウタは根を少し掘り起こした。
「球根があって、これも貴重な食べ物になります。タマネギみたいでしょう?」
そこにはタマネギに茎がいくつか生えたような球根があった。
アフラはそれに見覚えがあった。
「美味しそう。これ、店で時々見たことあります」
「フィノッキオとも呼ばれてスープによく使いますね。せっかく畑で育てるなら、食べられて一挙両得を得ようかと。少しお家に持って帰る? 美味しいから」
「いいんですか? 家族が喜びます。お土産を持って帰れば少しは怒られないかな? なんて」
「じゃあご家族の分も、帰る時にあげましょう」
「ありがとうございます」
その隣には雑草のようにタンポポが生えている。
「これはタンポポ」
「それくらいは私も知ってます」
「そうね。でも葉や根がいい薬になるの。体全体を浄化して、むくみや炎症が良くなります。お腹に違和感がある時にも良いんです。内臓の全体に良いようです」
「え。タンポポもお薬なんですね」
「葉は栄養豊かでサラダにして食べられますし、根はお茶にもなるのよ」
「食べ物にもなるなんていいですね」
「なので畑で育てています。決して雑草ではありません」
「ちゃんと育ててるんですね!」
次には、紫の鈴生りの花があった。
「花が咲き始めているわ。これがさっきのサルビアの一種、コモンセイジです。種類によって色の違う花を咲かせるわ。でも一番飲むのに良いのがこのコモンセイジで、いわゆるセイジ茶はこれよ」
「ふうん。セイジ茶苦いけど好きです」
「セイジは病原を遠ざける働きがあるの。伝染病や食当たりにも効くし、化膿した怪我にも効く。肉が腐りにくくなるからソーセージにも使われるわ。昔はこれがある家は病気にならないと言われたくらいで、これも万能薬よ」
「何でも効くなんてすごいですね」
「ええ。でも効き目は少し緩やかね。葉を使うので、花が咲く前頃、ちょうど今頃が収穫期なの。これは後で採りましょう」
「はい。これでセイジ茶が飲めますね」
「葉を乾燥させてから飲むので、残念だけど、まだしばらくかかるの。今飲めるのはあれね」
そこには白い小菊のような、カモミールの花がたくさん咲いていた。
「わあー綺麗。時々見る白い花ですね」
「カモミールよ。これも似ている花が多いわね。風邪で熱がある時や喉が痛い時に飲むとよく効くわ。これは既に採って干しておいたものがあるから、あとで飲んでみましょう」
「これ、飲めるのね!」
アフラが喜ぶと、畝の向こうで水を撒いていたイサベラが言った。
「カモミールは美味しいのよ。私は好きだわ。クヌフウタさん、少し花を貰って帰ってもいいですか?」
「種を取る分以外は採ってもいいわ。もう採り頃ですから、後でこれも収穫しましょうか」
次には背丈の大きいブロッコリー状に咲いた花があった。
「これ大きいですね。花がお花の冠のよう」
「これはアンゼリカ。この根が重篤な伝染病に効くんですよ。風邪の酷いものにも効いて、食あたりや傷にも効いて、さっきのセイジに近いようだけど、もっと効き目が強いわ。ただ、短所もあって、病種によって全く効かないこともあるし、副作用で肌に過敏反応が出ることもあるわ」
「これは気安く飲めないですね……」
「そうね。でも、お薬は使う側も試されます。このアンゼリカには逸話があって、ある修道士の夢にミカエル大天使が現れて、伝染病のペストに効くと告げられたと伝えられているの。花もほぼミカエル大天使の日に咲くので、それで天使の名を冠するんですよ」
アフラは感心してしまった。
「凄い! 大天使様のくれたお薬なんですね!」
「そうよ。これだけじゃなくて薬草はみんな創造主が自然の中に作り、人に与えて下さった薬です。使う人は主によく感謝して、自然から稀少なものを分けていただくような謙虚な姿勢でなければなりません。薬の知恵だけあっても、この感謝がなければ、あっという間に取り過ぎて、自然からの簒奪者になってしまう事でしょう。十分に残して採らなければ、来年からは実らなくなりますからね」
「取り過ぎないよう、気を付けます」
後ろで聞いていた司祭が言った。
「私も気を付けよう。いやあ勉強になりますね。アンゼリカがそんな天使に由来するいい薬だとは。我がエンゲルベルクにも相応しい」
「ここで育てると少し標高がありますから、これは低い所にも蒔いた方が増やしていけますね」
「年を取ると、山を行ったり来たりするのは大変だな……」
「司祭様はまだ、お若いでしょう」
そう言うと二人は笑った。
薬草への水やりが終わると、一同は集まって、次は牛よけの柵の立て直しを始めた。
柵の支柱は引っ張れば地面から簡単に抜けたので、あとはそこから移動して、地面に穴を掘って支柱を埋め直すだけだ。穴は司祭が掘ってくれたので、あとは皆で一気に数本を繋がったまま移動し、支柱を埋めて足で固めた。そして外れた横木を釘で打ち付ければ作業は終了だ。普段なら高貴な方々がこんなことまで行った。
それが終わると覆い繁っている草を抜き、そこを耕して一列の畝を作る。女性にはきつい作業だが、クヌフウタとペルシタは一心に耕し、司祭もこれを手伝って、大人三人でやると案外早く終わった。鍬は三本しかないのでイサベラとアフラは見学だ。
「ではここに、このサルビアの種を蒔きましょう。サルビアはイタリアの呼び名でセージと同じ種類です。セージにも実に色々な種類があるんですよ」
クヌフウタは種を取り出して、一人一人に配った。
「満遍なく蒔いて下さいね」
これも五人で手分けして種蒔きをし、薄く上から土をかけ、サルビアの畑が一列出来上がった。
クヌフウタは腰を伸ばして伸びをしつつ畑を眺めて言った。
「立派な畑が出来ましたね。花が咲いて見ないと種類が判りませんが、開花時期は春から今頃です。花が咲くのは来年です」
「種蒔きは遅過ぎたというわけだね?」
司祭は腰をさすっていた。少し無理をしすぎたようだ。
「セイジ茶には葉を使うんです。必要な時にいつでも採って行けますよ」
「それは助かるねえ」
「一週間乾かせばいいお茶になります。ただ、種類によっては苦みがあって飲むに適してないものもあります。コモンセイジだといいですね」
ペルシタが言った。
「コモンセイジならここにもうありますから、少しお茶にしてみましょう」
「それはいいね」
「でも、余らせてしまうといけませんし、今採るのは少しだけにしておきましょう」
そう言ってクヌフウタはコモンセイジを一株だけ根っこごと抜いた。
イサベラが言った。
「カモミールも採っていいですか?」
「イサベラさんの分を採って行っても構いませんよ。咲き切って花が反り返ったものが採り頃です」
「こういうのかしら?」
アフラは茎に付くほど花片が反り返ったものを見付けた。
「そうね。いいんじゃないかしら?」
イサベラとアフラは二人でカモミールを収穫した。と言っても花を枝の所から摘み取るので、嵩は少ない。採った分は二つの花束になった。
アフラはその花束の香りを嗅いだ。
「フゥーン、いいにおい。甘い香りがするわ」
「そうでしょう? 種を国に持って帰って向こうでも植えたいわ。どうしたらいいですか? クヌフウタさん」
イサベラがそう言うので、クヌフウタは少し考えてみた。
「種が出来るのはもう少し後ですね。花の標本を取っておいて、向こうでも見つけられるんじゃないかしら? どう思いますペルシタさん?」
ペルシタが言った。
「似た種類もありますし、場所によって開花期が違っていて、山は遅い方です。おそらくタイミングが過ぎてしまっていると思います。それより、早いものなら種がもしかして、この中にあるかもしれません。おしべが大きく膨らんでいれば、中に種が出来ているんですよ」
「これかしら?」
アフラが一つ花を採って大きく膨らんだ黄色いおしべを押さえると、それが崩れて毀れ落ちた。
「キャー壊れちゃった。でも落ちたのはおしべ?」
イサベラが駆け寄って、おしべの下に種を見て言った。
「あ! 種! これですね!」
ペルシタがそれを見て言った。
「そうです。今採った中で真ん中が膨らみ過ぎているのはみんなそうです」
クヌフウタがイサベラに言った。
「それは飲むには適さないので、種として大事に持って帰るといいですよ」
「そうします! 帰ったら庭をカモミールで一杯にしますわ!」
「それは大変」とクヌフウタは笑った。
ペルシタは言った。
「種から育てるのは少し大変です。ある程度芽吹いて来たら、苗にして植え替えるのです」
「カモミールのお茶のためなら、そんな手間暇も惜しみませんわ」
「まあ。そんなに好きなのね。じゃあこれから休憩しながら飲んでみましょうか。カモミールは一週間前から乾かしておいたものがあるので、ちょうどいい頃でしょう」
「待ってましたわ!」
「わーい。飲めるのね!」
イサベラとアフラは大いに喜んだが、司祭は少し落ち込んだように言った。
「私はそう言う時にいつも飲めない……」
いつも女子修道院の棟でお茶を飲むので、司祭はそこへは入れなかった。
「では、後ほどお茶を届けに伺いますわ」
クヌフウタがそう言ってくれたので、司祭の表情は明るくなった。
「それは助かるよ」
一同はそこで解散をして、修道院へ戻った。司祭だけは別の棟へと帰って行った。
帰っても道具を洗ったり、片付ける作業がまだ残っている。そしてクヌフウタは採ったばかりのコモンセイジやカモミールを水で洗った。
「時々虫が付いているから、良く洗ってね」
「何か小さいのがいる……」
アフラはそれを必死に水の中で振り落とした。
イサベラも「ここにも」と一緒になって洗い出した。
それでも虫は取れず、とても触れなかったので、結局庭の木の葉で突いて落とした。
そして洗ったカモミールの花を再び束にして持ち、クヌフウタに随いて行く。
渡り廊下を抜けると板張りの山小屋のような棟があり、食堂がそこにある。その厨房の窓先に乾燥用の棚があり、日当たりが良く風通しのいいその場所に籠に入れられたカモミールが乾かしてあった。その棚はクヌフウタが窓の柵に上手く取り付けたものだ。
クヌフウタはそれを取り込んで、乾いて丸くなったカモミールを見せてくれた。
「これくらいしっかり乾けば完成ね。時々湿気で黴びるのだけど、変色も無いし、これなら大丈夫。あとはお湯で煎じるだけよ」
「わあ、花がそのままお茶なんですね」
「コップに浮かべてもいいのよ。刻んだりせず、手を加えずにそのまま使えるからお手軽ね」
クヌフウタは乾いたカモミールを窓越しに厨房のペルシタに渡し、代わりにイサベラとアフラは今洗ってきたカモミールの花をその籠に並べて入れた。そしてクヌフウタは籠を元にあった窓辺の乾燥棚に戻した。セイジの葉もその下に逆さにして吊った。
「ここで一週間ほど乾燥させます。でもこれはイサベラさんは飲めないわね」
「そうですね。代わりにこの乾いたのを少し下さいません?」
「ええ。いいわ」
厨房でペルシタはお湯を沸かしつつ、乾いたカモミールから枝を取り、その幾つかをポットに入れ、そこに沸いたお湯を注いだ。ペルシタはそれを食堂へと持って行き、そこで待っていたクヌフウタとイサベラ、そしてアフラの前にポットを置いて、ポットの蓋を開けて言った。
「さっきのお花にお湯を注いで、このまま三分程蒸らして待ちます。四分くらいの方が濃くて私は好きですね」
アフラはポットを覗き込んだ。
「花がだんだん開いて来てる。四分……待ち遠しいですね」
「この間にコップと蜂蜜を用意していれば、それくらいはすぐです。コップが足りない事もここでは良くありますし、どうかしら?」
そう聞いて一同は厨房へ行き、競うようにコップを用意した。加えてクヌフウタは蜂蜜の瓶を出して来た。
「コップちょうどありましたね。蜂蜜を入れるととても美味しいの。これはウーリでシュッペルさんに頂いたんですよ」
「お父さんに?」
「シュッペルさんには他にもいろいろご寄付を頂いて。このカップやポットもそうでしたね。それまでは薬缶しかなくて大変でした。コップも木を削ったものでしたし。お陰様で少しはお茶会風にハーブを飲めるようになりました。心から感謝をしているとお伝え下さい」
「そう言えば見覚えのあるカップ。お役に立てて良かったです」
アフラは笑って「私のカップもあって良かった」と付け加えた。
そして待つ事三分少々、出来た黄金色のカモミールティーをペルシタがカップに注いでくれた。
華やかな香りがあたりに漂う。
「良い香りですね」とアフラが鼻を近付ける。
「蜂蜜はどれくらい?」とクヌフウタはスプーンと蜂蜜を手に取った。
「えーと、山盛り一杯くらい?」
クヌフウタは蜂蜜を山盛りでカップに入れてかき混ぜてくれた。他の人はスプーン半分くらいのようだったので入れ過ぎたようだ。どうかと思って一口飲んでみると、未知の領域の甘味が広がった。
「んーッ! 甘ーい! でも、おいしーい! これはまるで異世界の味です!」
カモミールの独特の香りと蜂蜜の甘味はとても合い、甘過ぎる事は無かった。
イサベラがさも可笑しいように笑って言った。
「異世界って凄い表現ね」
「何かこう、お花と蜜の世界が口に広がるよう。ああ、幸せ……」
「ウーリでも育てたくなった?」
「ええ。牧場で育てます!」
クヌフウタも笑顔で言った。
「そんなに気に入って貰えて光栄だわ。ウーリは牧場が広いから、たくさん出来そうね」
「淹れた甲斐がありますわ」と、ペルシタも笑った。
「後で司祭様にも蜂蜜たっぷり入れて、持って行きましょうか」
「ええ」
そう二人は笑い合った。
イサベラはそれに不満げに言った。
「私は蜂蜜無しでもいいくらいです。好みは分かれると思いますが、司祭様にはどうでしょう?」
「じゃあ……分けて持って行った方がいいかしら?」
「それがいいと思います。でもカモミールには蜂蜜が合いますね。私も帰ったら蜂蜜を買って貰わないと。たくさん買って、クヌフウタさんにも送りましょう」
「私は旅の身ですからいいんですが、ここに送ってあげて下さい。花を残して行きますから、きっと他の方も飲まれるでしょう?」
「そうですね。そうします」
アフラはイサベラに聞いた。
「イサベラさんはもう帰ってしまうんですよね? いつここを発つんですか?」
「明日には離れる予定だったのだけど、実は少し問題が起こったので、伸びそうなの」
「問題って?」とクヌフウタが聞いた。
「朝になって言われたんですが、討伐隊で残った騎士が、亡くなっていたそうなのです……」
「主よ御許に……アーメン。あっ、もうお祈りは昨日しましたね」
「兄さんが懺悔するわけですね……」
「皆そこで知ってたのかしら? 知らないのは私だけね? 隠されていたので少し怒ってピエールにはまず詳細を調べに行って貰っています。何も知らないでは遺族に合わす顔がありませんから」
クヌフウタは苦笑いをするよりない。
「そう言う事でしたか……」
アフラが思い付いて言った。
「明後日に兄さんが山に迎えに来てくれるから、その時になら直接見たことを聞けるんじゃないかしら」
「それはいいわね。どうせ伸びるなら、いっそそこまで伸ばそうかしら」
「じゃあ、私がいる間はイサベラさんもまだいるという事ですね!」
「そういう事になるのかしら? 帰りに寄ってもらって、正解だったわね」
「これもアルノルト兄さんのお陰ね」
「アルノルトさんの?」
「ウーリに寄らず、そのままここに来ようって言ってくれたの。馬車が別れる時も、エルハルト兄さんは連れて帰るつもりだったけど、アルノルト兄さんは乗せてもらって行けばいいって言ってくれた……」
アフラはそう思うと感謝が溢れて来た。
クヌフウタはイサベラに言った。
「じゃあ、山から帰って来て、帰るのは三日後になるわね? そう司祭にお伝えしていいかしら?」
「はい。そうします」
それからペルシタはもう一杯のカモミールを淹れた。今度はカップに花の塊を三つほど入れ、直接お湯を注いだ。それにクヌフウタが蜂蜜を入れた小瓶を添え、共にお盆に載せて司祭のところへ運んだ。ペルシタがお盆を持ち、クヌフウタがその長い道を先導する。歩く間に蒸らされて、お茶の成分が出て来る算段だ。イサベラとアフラもそれに随いて行った。
司祭のいる部屋は修道院の棟とはまた少し離れた聖母堂にあり、その中にあった。言わば奥の院のような所だ。
クヌフウタはノックをして部屋へ入って言った。
「お茶をお持ちしました」
司祭は一同を迎えて言った。
「やあやあ皆で来てくれたのか。ありがとう。待ち遠しかったよ」
ペルシタがお盆を持って言った。
「こちらですわ」
「ありがとう。ほのかに甘い香りがするね。花が浮かんでいる!」
「蜂蜜がありますので、お好みでどうぞ」
「ああ、どれくらいがいいんだろう?」
「山盛りです!」
アフラが思わずそう勧めると、イサベラは対抗するように言った。
「素材の風味を味わうのなら、蜂蜜が無い方が良いかもしれませんわ」
「ほう、そうか、じゃあ半分は入れないで、その後で一杯入れてみようかな。どうぞ座って下さい」
司祭はそう言って壁際の長椅子を勧め、自身も執務机に座り、一口のカモミールティーを飲んだ。
「これは薫り高い! 実に美味しいね」
クヌフウタはまだ執務机の前に立っていて、晴れやかな笑顔を返した。
「お気に入って頂けましたら幸いです」
「これはとても気に入ったよ。入れ方を教えて貰えるかな?」
「一週間乾燥させた花にお湯を注ぐだけです。三分蒸らすとこのように出来上がります。あとは蜂蜜をお好みで入れて、よくかき混ぜて下さい」
「それだけ? これは人気になりそうだ。もっとたくさん作って貰いたいが、そう長くも引き留められないだろうね」
クヌフウタはそこで改まって言った。
「実はその事なんですが、あと一週間後にローマへ出発しようと思っているんです。イサベラさんも離れてしまう事ですし」
「そうですか。それは残念ですな。本当に薬草園の世話は私がしなきゃいかん」
「お世話を押し付けてしまうようで、大変申し訳ありません」
「いえいえ、お気に召さるな。それは判っていた事。我々も笑って送り出しましょう」
「イサベラさんの離れる日にも変更があるようです」
クヌフウタに言われて、イサベラは立ち上がって言った。
「実は連れに不幸がありまして、あと三日延長しようと思います」
「そうですか。不幸とは何がありましたかな?」
「騎士が一人、盗賊の討伐隊に参加して、亡くなったそうなのです」
「それは悼むべき事です。アーメン……」
「アーメン……」と、皆でしばし黙祷を捧げた。
そうしていると、ウルリッヒ修道院長がやって来た。
「司祭様。大変です。ウーリの執行官がやって来ました」
「ウーリの? それはまた何の用ですか?」
「それが、牛が盗まれたものかも知れないと言うのです。しかも国際犯罪だとか」
「それはまた不穏なことだ」
「代償の牛を一頭しかよこさないし、大きさもゼンメル程に闘牛に参加出来る程ではないし、それでも我慢していたら、今度は調べるから返して欲しいと言う。目茶苦茶です!」
「まあ、本当に盗まれたんなら返すよりないが、その代わりを貰う事だな」
「取り敢えず少し見に来て下さい。皆が抗議して、騒ぎになっているんです」
「そうか。お茶がまだ途中なのが気掛かりだが……」
「お茶なんて飲んでる場合ではありません!」
「どれ、行ってみよう」
そう言って、司祭と修道院長は出て行った。
「司祭様って実は修道院長より偉いんですか?」
アフラがクヌフウタに聞いた。
「何でも司祭様は神に祈るのにお金を扱えば純粋になれないとの事で、今の修道院長に雑務一切を任せたそうです。なので実質は代行なのかもしれません」
「そうなんですね」
イサベラはアフラに言った。
「ゼンメルの事ならば、私達は無関係ではないわ。行ってみましょう?」
「ええ」
イサベラとアフラは司祭の後を追った。
牛小屋の中に人々は集まっていた。執行官のルーデンツとその助手が一頭の牛を調べて絵を書いていた。そこはエンゲルベルクの牛飼いが囲むようにしていた。
取り囲む人々にルーデンツは言った。
「これは事件の調査だ。調べて何もなければ返すので、押収とは違うのだ」
牛飼いの一人が怒って言った。
「元の持ち主が見つかれば、返さないかも知れないじゃないか!」
「そうだ! ウーリに牛を渡す義理はない!」
「これから繁殖に働いて貰おうという所なんだ! お断りする!」
牛飼いは口々に言った。
ルーデンツはさらに言った。
「国際犯罪の場合は、他国であっても合意の下でなら司法権を行使出来る。どうかご協力をお願いしたい」
「それは司祭様が決めるだろう」
そこへウルリッヒ修道院長に連れられ、アルノルト司祭がやって来た。後ろからはイサベラとアフラも追い付いていた。
「ああ、司祭様!」
「司祭様だ」
牛飼い達は司祭に歩み寄って集まった。
「司祭様、ウーリからの執行官が、牛を持って行くと……」
「また返らない事になると大きな損害です。どうぞきつく断って下さい……」
司祭はルーデンツの前に来て言った。
「主任司祭のアルノルトです。この牛が盗まれたものの可能性があるとお聞きしましたが?」
ルーデンツは頷いて言った。
「ウーリの執行官、ヨセフ・ルーデンツと申します。これは国境を越えた犯罪の捜査でして、規模の大きいものになる可能性があるのです。ここは一つ、捜査にご協力いただけませんか?」
「牛が盗まれたものという証拠があるのですかな?」
「この牛の主であった罪人の牧場自体が急に現れたようなおかしなものでして。それに以前牛を盗んだと見られる男が付近で何度か目撃されていたのです。罪人はずっと仲間の存在を隠していますし、どうやら繋がりがあるようなのです」
「そうですか。しかし、今回牛を無理して闘牛に出して失う結果となったので、牛は領外に出さない事と決めたばかりなのです」
「しかしこれは犯罪捜査のためです。残された手掛かりは今やこの牛しか無いのです。是非とも一時お借し願いたい」
「困りましたな。今や規則になっていますから。連れて行かずに調べられないものでしょうか」
「これは国際的な犯罪で、盗まれたのはアインジーデルンの牛なのです。そこから人に来て貰う予定ですが、この山までとなると、日帰りとは行きませんから……」
「ほう、アインジーデルンの? しかしここに来られぬ事はありますまい。アインジーデルンは兄弟、出来れば共に話し合いたい。宿泊でも歓迎致しますので、どうぞお連れいただければ宜しいでしょう」
司祭がそう言って十字を切ると、もうその答えを動かせない雰囲気になった。
「そうですか……では一度そう持ち帰らせていただきますが、先方も遠いと来るのが無理だと言われる可能性もありまして……」
「向こう様の事情もございましょう。どうしても連れて行きたいと仰るのでしたら、代わりの牛を連れて来て貰いましょう。一時交換という事ならば規則に触れませんし、アインジーデルンの方にもそのままお返しできることでしょう。その二つの方向でご検討頂けますかな?」
「はい。良き采配かと。感謝申し上げます」
ルーデンツは深く礼を取った。
「司祭様は流石に聡明でいらっしゃる」
「素晴らしい采配だ!」
牛飼い達は賛意を示して拍手をした。
「かっこいい司祭様ーっ!」
アフラもそこへ加わって拍手をした。
イサベラも並んで小さく拍手をする。
司祭は拍手にそれに応えるように手を振った。
ルーデンツはアフラを見付けて首を傾げた。
「あれ? シュッペルの娘? どうしてそこにいる?」
アフラも首を少し傾げて言った。
「こんにちは。こちらでお勉強中です」
「そうか。良いことだ。お父上に宜しく」
「こちらこそ。お父さんによろしくお伝え下さい」
「姫君もいらっしゃるようで」
「ええ……少しよろしいですか?」
イサベラはルーデンツを一声呼んで、牛小屋の外へ出た。もちろんアフラも隣に寄り添って行く。
小屋の外へ後から追って来たルーデンツと助手は、改めて挨拶をした。
「姫君、ご機嫌麗しゅう。裁判の折りは、貴重な証言をありがとうございました」
「いえ、ここでは一介の修道女ですので。例の犯人はもう追放になったのですか?」
「刑の執行は明日の予定です」
「そうですか。追放の時にこちら方向へは来ないようにお願いしたいのですが、出来ますか?」
「そうですね。なんとか検討してみましょう」
「もっとも、三日後には私はここを離れてしまうのですが。私、本国へ戻る事になりました」
「左様でしたか。では、ほんのしばらくこちらに向かわせなければいいということですな」
「ええ、そうです。ところで盗まれた牛というのは、どういう事ですの?」
「あの罪人から押収した牛ですが、ある事件に関わっている可能性があるのです。三年前の事ですが、ツークにてアインジーデルンの牛が盗まれ、その牛を探していたウーリ出身の修道士が不審な形で死んでしまったのです。周囲の木や服が燃えていたので雷のためと言われましたが、殴られた跡や手にはロープの跡があり、どうも不審なのです」
「その話、知ってる!」と、アフラは驚いたが、すぐに「あ、どうぞ」と話を譲った。
ルーデンツは続けた。
「加えてその時以来、失踪したという男がおり、その男がゼーリスベルクで度々目撃されているのです。それでそこの牛が盗まれたものだと訴える人がいたもので、少し私も調べたんですよ。その時は証拠がまるで出なかったんですが、牧場が急ごしらえだし、どうも怪しい。国境の最果ての立地ですから、罪人の言う通り掛かりの人とはその失踪した男の事かも知れないのです」
「まあ! では、真犯人がいたという事ではありませんか!」
「そういう事になりますな。こちらもまた証拠がほぼ無くて無罪判定になってしまったのですがね。どうやらかなり知能的なようです。ここに引き渡された牛は、最後の手掛かりになりそうなのです。アインジーデルンの人に見て貰えば、そこで判明するかもしれない」
「そういう事でしたか。素晴らしい調査能力です。しかし、あれではみんな反発しますわ。ウーリよりもずっと牛を大事にしていますから」
「そのようですな。少し気を付けましょう」
アフラはポツリと言った。
「ペーテル・フォン・シュヴァンネン……雷じゃなかったんですね」
「おお、確か死んだ修道士はそんな名だ。私はそう、他殺と見ている」
「きっと捕まえて下さい! ペーテルさんの無念を晴らしてあげて!」
アフラは懇願するようにルーデンツの手を握った。
「私もそう願う。しかし舞台が国境をまたぐので大変だ。では、これで失礼する」
ルーデンツはそう言って去って行った。




