アインジーデルンの奇跡
馬車は湖を渡る架け橋のようなフルデン半島を越え、対岸の市街を抜け、山道へと入って行く。しばらく登った所で大きな岐路があり、そこで先行する馬車が停まった。
アルノルトはその馬車に横付けにして幌馬車を停めた。
「どうしたんです?」
高い御者台にいたピエールが言った。
「ルートを確認したい。ここからこの道を真っ直ぐ行けばシュウィーツを抜けてブルネンの港だ。そこから我々は船で湖を渡ってベッケンリートへ出るのが最短なんだが、ウーリへ寄るのか?」
ベッケンリートは湖の対岸のウンテルヴァルデンの港町だ。アルノルトは言った。
「それで大丈夫です。僕たちもこのままエンゲルベルクへ行く事にしましたから」
「そうか! なら良かった。姫が言うにはここを左に曲がるとアインジーデルン修道院領なのだそうだが……」
後ろのドアが開いて、イサベラが呼び掛けた。
「クヌフウタさん。アインジーデルン修道院に寄りますか?」
クヌフウタが幌馬車から顔を出して言った。
「最大の巡礼地ですから一度は行きたいと言っていたのですが、ご迷惑ではありませんか?」
イサベラとピエールは互いに頷きつつ言った。
「船に乗るなら時間に余裕が出来るそうです。そうですね?」
「道は少し経由するくらいですし、馬を休めるには、アインジーデルンは良い場所です。大丈夫ですよ」
エルハルトとアルノルトも頷いた。
「僕らももう焦ることも無くなりましたし、いいですよ」
クヌフウタは礼を取ったが、幌馬車から半身を乗り出しているので、エレガントに片方の裾を摘まんだけだ。しかしその一瞬は王女の雰囲気が漂った。
「ありがとうございます。では寄らせていただきたいと存じます」
一行はアインジーデルンへの道を左へ曲がった。少し行けばそこはもうアインジーデルン領内に入る。
アインジーデルン修道院は独立自治の領を持ち、その守護権者をラッペルスヴィル家が長年務めてきた。それが少し前に、ハプスブルク王家の預かりとなり、そして先日、ゲッティンゲン家へと移った事になる。
「嬉しいですわ。アインジーデルン修道院は巡礼者は誰もが行くような、この辺りでは一番の巡礼地なんです。それに山の上で独立した自治領ですから、エンゲルベルク修道院にも似ているんですよ」
クヌフウタがそう言うと、アルノルトが振り返って言った。
「へえ。自治領なら仲良くしておかないとね」
エルハルトは首を傾けつつ言った。
「ラッペルスヴィルとは関係が深い修道院ですし、また魔女と言われないよう、ハーブの事は言わない方がいいかもしれませんね」
クヌフウタは首を振って言った。
「いいえ。必要なら私は諦めません。せっかく神様が用意してくれた薬草を、魔女のだなんて……」
「魔女って言うのも、実態の無い蔑み言葉に過ぎないんですよ。オレ達は実際に魔女と呼ばれる人を知っています。家でたくさんの薬草を育てていて、色々な物を混ぜて自分で特効薬を作ってしまうんです。それがまたとんでもなく効くんですよ。アフラの熱病はその人の薬で劇的に治ったんですから」
「そうだったんですか!」
クヌフウタはアフラを振り返り見たが、アフラはあまり記憶が無いので目をぱちぱちとさせた。エルハルトが言葉を続けた。
「ええ。それは賢女と言った方が相応しいくらいで、魔女なんてバカにした言葉に過ぎない。本人はキリストより古くからのローマの伝統を信じているだけだから、魔女じゃないと言ってましたがね」
「そうですか。その方に是非一度お会いしてみたいですね」
アルノルトが振り返って言った。
「その人の子供には山小屋で会ってますよ。ジェミのお母さんですから」
「そうでしたか! とても賢い良い子でした。お母さんもさぞ良い方だろうと思ったものです」
「いい人ですよ。あの峠の辺りには、よく山菜を取りに来る事があるそうですよ。通っていれば会えるかもしれませんね」
山道がなだらかになって来ると、森が開けた。森の向こうには広い牧草地が開かれていて牛達が草を食んでいる。さらにその向こうには大きな瓢箪形の湖に抱かれるように、大きな集落が見えた。その一角に高い塔が二つ聳えているのが遠くからも見えた。
「大きい修道院だ。あれを目指せばもう迷わないね」
「そうだな」
町並に入ると多少道が入り組んで来て、時々塔が見えなくなるが、取り敢えず塔を目指して近付いて行けば道に迷うことは無かった。
修道院前の広場は巡礼者達で溢れていた。広い広場の中心には泉があり、古びた小屋のようなものが建っている。巡礼者の団体が幾つも列を成していて、案内人が何人もそこで解説をしているような混み合い様だった。
「山の中にどうしてこんなに人がいっぱい……」
アルノルトは道に溢れ返る人で馬車を進めるのにも困りつつ、ゆっくりと馬を進めた。先行する馬車はようやくのことで停める場所を見付け、アルノルトもそこへ馬車を並べて停めた。
エルハルトは「着きましたよ」と後ろに声を掛けた。そしてすぐに降りて馬を労い撫でてやり、アルノルトもそれに習い、グラウエスを撫でた。
「大分慣れて来たようだな」
「そうだね。小さいのに良く頑張ったな」
ここまで長い登りの道だったので、馬もかなり疲れているのが伺える。
それはブルグント側の馬も同じだった。ピエールも馬を撫でて労っている。
「馬も休憩させなければな。飼葉と水を貰って来よう。そちらの分もかな?」
「オレも行きます」
そう言ってピエールとエルハルトは何処かへ出かけて行った。
馬車から降りた女性陣は合流し、修道院を見上げて一様に驚いた。
「これは大きいですね!」
「あれを見て下さい、高くて上が雲の中です」
クヌフウタとイサベラがそれに圧倒されていると、アフラとマリウスも隣に加わった。
「まるでお城みたい! 山の中にあるとは思えないです」
「おっきくて、たっかーい」
アインジーデルン修道院はあの大きな聖母聖堂とエーテンバッハ修道院を足してもまだ余るくらいに大きかった。聳え立つ二つの尖塔は上に雲がかかるほど高く、二つの塔の間に建つ礼拝堂もまた高く、その横にも城のような建物が連なって翼のように広がっている。加えて隣の湖から漂う霧が神秘的な雰囲気を纏わせていた。
それを見上げつつ、一同は広場の入り口にある泉へと歩いて行った。そしてそこにいて通りの良い声で解説をしている修道士の話を聞いた。
「暗闇の森に隠棲した聖マインラートは、この泡立つ泉を見付け、その傍に小さな小屋のような礼拝堂を建てました。そしてチューリヒの聖母教会の大修道院長から頂いた木彫りの聖母子像を収めました。その聖母子像は今では蝋燭の煤で黒ずんで、黒のマリア像と呼ばれ、今も修道院の祭壇に安置されています。この泉は奇跡の癒しが顕れるという聖なる泉です。是非感謝の祈りを捧げてから飲んでみて下さい。決してコイン等は投げ入れないように。不浄のものですので」
クヌフウタが案内をしている修道士に聞いた。
「ここで水を汲んでもいいんですか?」
「もちろんです。皆やってますでしょう」
見れば皆、泉にかかる小さな桟橋から水をコップに掬って飲んでいた。
「この小さな小屋は昔の修道院なんですか?」
修道士は大袈裟な手振りで言った。
「いいえ、これは後にそれを模して建てた水汲みポンプの小屋に過ぎません。聖マインラートが建てた古い礼拝堂は、あの大聖堂の中にあります。古い礼拝堂は彼が二人の盗人に殺された後、八十年の間は巡礼者の場所となります。その後、聖エバーハルトがシュトラースブルクからやって来てこれを囲むようにして修道院を建て、初代修道院長となりました。それが完成すると、献堂の儀式の為にコンスタンツの司教だった聖コンラートがやって来て、その時にかの奇跡が起こったのです」
「どういった奇跡ですか?」
「それを知らずにここまでいらっしゃった? 今や教皇様にも認定された有名な奇跡です。少し話が長くなりますが、皆さんも聞きたいですか?」
「はい」とイサベラが頷く。
「聞きたいです!」とアフラが手を上げると、皆も頷いていた。
「皆様ご要望とあらばお話しましょう。この地に聖エバーハルトが修道院の建造を終えて、時の王女や高位の騎士や司教達、そしてコンスタンツ司教の聖コンラートをここに招いて献堂の儀式をしようとしていたその前夜のことです。聖コンラートが出来たばかりの修道院を訪れて、真夜中に祈りを献げていると、闇夜であるのに祭壇は太陽のような光に照らされ、どこからか天国のようなメロディーで聖歌を歌う声が聞こえ始めました。そしてミカエル大天使が率いる天使群が行進をするように天から降り下って来るのが見えたのです」
アフラが驚くように言った。
「天使様! やっぱりいるのかしら?」
修道士が頷きつつ言った。
「きっといる事でしょう。話はさらに驚くべき続きがありますので、遮らずに聞いて下さいね。天使群の行進の後には聖歌隊や名だたる聖者達が続き、そして最後には輝きのうちにイエス・キリストが御姿を現され、この修道院を彼の母であるマリア様に献げる儀式を始められました。それは献堂の儀式を擬えるものであったそうです。聖コンラートは恍惚とそれを見て、朝になってもその観想の中でそこに跪いていたそうです。やがて招待した人々と修道院長が集まると、聖コンラートはその事を話し、夜の間に儀式は神によって既に行われたと主張しましたが、多くの人は聞き入れません。そして、献堂の儀式を始めようとすると、やめよと三回、既に礼拝堂は神によって献堂が済んでいるとの声が多くの人に聞こえました。後にこの事は教皇様にも伝わり、しっかり調査をした結果、本当の奇跡だと認定されたのです。そしてここは神によって奉献された礼拝堂として、世界から巡礼にやってくる修道院となったのです」
「まあ! 天使群の行進だなんて! それにイエス様自らマリア様に奉献されたなんて! 素晴らしい奇跡です」
クヌフウタが感動していると、アフラが言った。
「光に、天使様……それって、クヌフウタさんに起こった事も似てますね」
クヌフウタは思い出したように言った。
「そう言えば……歴史上にも同じような事はあったのですね」
修道士は驚いたように目を丸くした。
「貴女様はまさか、聖女様?」
「いえ。その……駆け出しの修道院長です……」
「その若さで修道院長! 見ればその生成りの修道服、フランチェスコ派の正統の御姿ですね。是非私に中を案内させて下さい。当修道院の修道院長にもご紹介致しますから。どうぞどうぞ」
と、一行は半ば強引に修道院の中へと連れて行かれた。
「待ってくれ! 僕も行く」
アルノルトは馬を動けないように柵に結び付け、走ってそれを追った。
護衛としてオーギュストも一緒に走って来て合流し、一行は修道院の中へと入って行った。
「わあ……」
高い天井は美しい天空の風景のような青い装飾画で満たされ、ロマネスク様式の柱には色も鮮やかな装飾が凝らされていた。その壮麗さは見たこともなく、言葉にならない。中が静かだった事もあり、皆、言葉さえ出なかった。修道士が静かに言った。
「この聖堂の部分は比較的新しく、祭壇に近付くにつれて古くなっています。その奥にはマインラートが建てた礼拝堂の部分さえも残っているのです。ここにその鍵もあります。さあ参りましょう」
修道士は鍵を握りしめ、椅子の並ぶ礼拝堂の真ん中を歩いて行き、奥へ奥へと歩いて行った。そして、一見祭壇のように見えた美装の階段を上り、装飾された鉄格子の扉の鍵を開けて中へと入って行った。
一行は天井に見とれて足元が危なくなりながら、それに随いて行った。柵の扉はすぐに閉じられ、少し離れて歩いていたオーギュストは駆け寄ってももう入れなかった。
すぐ後に遅れてエルハルトもその場所へやって来た。そして締め出されて扉を覗いているオーギュストを見付けた。
「既に向こうに入った。肩を貸せ」
エルハルトは鉄柵の前に屈み込むと、オーギュストはその肩に乗った。立ち上がると二人とも背が高いのでかなりの高さになる。
オーギュストはそこから高い柵を登った。柵は上まで登れば空いている場所がある。
巡礼者達はそれを見て、神をも恐れぬ行為に響めいた。
しかし、肩を貸したエルハルトは置いて行かれてしまう。
「オレも!」
柵の上に座ったオーギュストは仕方ないという顔でロープを垂らした。
祭壇の中の空間は、かなり古い石造りになっていた。
クヌフウタがそれを見回して言った。
「ここは古いですね」
「ここは二百年程前に作られたものです。その壇から先はさらに古く、その床石は、聖エーバーハルトが建てた頃のままだと言われています」
「ここが聖コンラートの奇跡のような奉献があった場所ですのね!」
「その通りです」
「ここには、まるで聖霊が満ちているようです」
クヌフウタとペルシタはその場に跪き、十字を切り、しばし祈った。
アルノルトは何故か目を丸くしていた。イサベラがそれを悟って言った。
「聖コンラート。アルノルトさんの洗礼名と同じですね」
「ああ、そうなんだ。エーバーハルト先生も名前が出たね」
クヌフウタは祈りを終え、立ち上がって言った。
「同じコンラートですか。いい洗礼名ですね」
修道士は振り返り言った。
「それは、良い名前をお持ちです。さあ、ここが慈悲の礼拝堂です。神が御姿を現され、献堂の儀式を自らなさったので、出来るだけそのままを維持しているのです」
そこにあったのは不思議な光景だった。天井の高い礼拝堂の祭壇となるべきその場所に、小さな古い礼拝堂があった。扉は全て開放され、中の祭壇には真新しい装飾が施され、中央に聖母マリアの聖母子像が数多くの蝋燭で照らされていた。
修道士はその小さな礼拝堂の前で言った。
「このマリア像はチューリヒの大修道院長ヒルデガルドより聖マインラートが頂いて、この場所で奉祭したものです。木で出来ているのですが、蝋燭の煤を帯びて今では黒ずんで、黒のマリアと呼ばれるようになりました。こちらでご礼拝下さい」
一同は祭壇前に設けられた椅子に座り、しばしの祈りを捧げた。マリウスはしかし一人歩いて行き、小さな礼拝堂の横に回って周囲を一巡りして帰って来た。
「勝手に入っちゃダメよ」
アフラが注意すると、マリウスが言った。
「入ってないよ。なんだかすごくいい景色だった」
「どれどれ?」
そう言ってアルノルトとアフラも同じコースを歩いてみた。後ろには再びマリウスも続いた。小さな礼拝堂は高い壁で囲まれ、高い窓からは幾筋の光が差している。聖堂の高い天井までその窓が連なり、振り返るとその向こうにはそうした窓の光が入り口まで連なって見えた。あまり見られない荘厳な風景だった。
「マリア様に蝋燭を奉献されますか? 蝋燭を中で灯す間だけこの礼拝堂の中へ入る事が出来ます」
修道士はそう言って蝋燭を勧めた。
クヌフウタとペルシタ、そしてイサベラは蝋燭を取り、礼拝堂の中で蝋燭を灯してマリアに一礼をし、蝋燭の奉献をした。クヌフウタはここでも跪いてしばしの祈りを捧げた。
それが終わった頃にアフラ、そしてアルノルトが帰って来た。そして指を差して言った。
「すごく綺麗ですよ」
「確かにいい景色だ。行く? 行きます?」
「では、修道院長にご紹介を……」
和やかに修道士が振り返った時にはクヌフウタ達の姿は無かった。
既に小さな古い礼拝堂の周囲を巡っていたクヌフウタは、足を止めて言った。
「ここは聖霊の想い出の場所なんですね」
イサベラが首を傾げた。
「どうしてそうお思いになるんですか?」
「どうしてと言われましても。そう心に想いが浸みてくるのです」
イサベラは微笑んだ。
「さすがクヌフウタさんです。聖マインラートはそれだけ素晴らしい方だったんですね」
「そうだと思います。二羽のワタリガラスを友にするだなんて、まるで神話にも似ていて素敵ですものね。私もそんな風に、想い出に残る人にならなければ」
「想い出ですか……私もなれるかしら?」
イサベラはそう言うと、ここしばらくの想い出に想いを馳せた。
「こっちだよ」
「ここです」
マリウスとアフラが呼んだ。
「ここから向こうを見てみて」
アルノルトは手で入り口側を差してそう言う。
行って見てみると、そこからは修道院の高い窓から差し込む光の群れが見えた。
ロマネスク様式の柱が林立し、そこに霧が漂い、巨大な神殿に雲間から天使が降りて来る風景画のようにも見える。
「なんて美しいんでしょう……」
クヌフウタ達は感嘆の声を漏らした。
イサベラは、光に舞う霧に一瞬、天使の姿を見た。
「あれは、天使!」
「本当。天使みたい!」
アフラもそれを見て驚いているが、霧の形はすぐに崩れていく。
その声に、天使に身をやつす私が見つかったのかと思って思わず身を隠した。
しかしそれでなくともここには天使達がとても沢山飛んでいた。その天使達も驚いて姿を隠して行ったのだった。
イサベラは、漂う雲の全てが天使に見えた。その一瞬の幻にあまりに感動して涙すら流した。
「私はとうとう天使を見たわ。この修道院は世界でも一番美しい。ここへ皆で一緒に来れた事は、私にとってもいい想い出になりました……」
「私も……」
アフラとイサベラは頷き合って、もう一度その美しい風景に見とれた。




