熱誠
晴れやかに次の朝が明けた。窓から差し込んだ光に、エルハルトは目が覚めた。結局ベッドに行く事無く、客間の暖炉前に動かした長椅子で寝てしまっていた。手には精巧に彫り上げた添え木があった。
そこへ朝の礼拝を終えたローラが入って来た。
「あれ? あなたは! ずっといたんですか?」
クヌフウタとペルシタ、そしてエリーザベトとアフラも後ろにいるようだ。
「はい……勝手にすいません」
そこへアフラが駆け込んで来て言った。
「いないと思ったらここにいたのね。出来上がった?」
「ああ。ちょっと手に当ててみろ」
アフラがその添え木を手に当てると、手の形にしっかりと収まった。内側も、そして外側も、綺麗に表面を整えられている。
「ぴったり! それにばっちくない!」
クヌフウタ達も入って来て言った。
「おはようございます、エルハルトさん。まさか徹夜されたのかしら?」
エルハルトは添え木を上げて言った。
「おはよう。これ、遅くまでやってると眠くなって、ついここで寝てしまいましたよ」
「寒くなかったですか?」
「そう言えば少し。まあ暖炉があったので」
「いいものが出来たようですね」
エルハルトは出来上がった添え木をクヌフウタに渡した。
「熱誠の作です」
クヌフウタは目に輝きを込めて言った。
「すばらしい! なんて綺麗な形に! 焦げ目もあまりありませんね」
「途中から眠くて、焦がすのにも燃やしてしまいそうになって、削るだけにしました。あとは本人の手に合うといいのですが……」
「これは最高の作です! 熱誠とは本当ですね。私も負けていられませんわ」
「いえいえ、それは勝ち負けはありませんから」
「何となく、あるような気がしますよ?」
「それが判れば少しは世の中の不条理が無くなりそうですね」
アフラがエルハルトの手を引いた。
「これから皆でトビーの所へ行こうって言ってたの。兄さんも来て。エックハルト先生も来るのよ」
「大勢で行ってまた追い出されそうだ。俺はいいよ」
「えーっ。こんなにいいの作ったのに……」
「これから馬の世話もある。走る前に食わせてあげないとな。まあ作者の名前だけ伝えておいてくれ」
「うん」
アフラは小さく頷いた。
そうして一行は玄関前に一度集まり、そこへエックハルトが合流すると、トビーの家へと出発した。
トビーの家に着くと、また驚かせるといけないと、まずはクヌフウタとペルシタ、そしてローラの三人の修道女だけがドアに立った。
母親のリリアがドアを開けた。
「昨日のシスターさん! それにローラさんまで!」
ローラがまず口を開いた。
「まずはお詫びをさせて下さい。息子さんが怪我をしたのは、私が不用意に窓を開けたせいです。それのせいで窓から落ちたのです。誠に申し訳ありません」
「いいえ。あなたは悪くありません。私は見ていましたから。あの時に窓を開けるのは誰でもする事ですもの」
「リリアさん……どうか、息子さんにもお詫びをさせて下さい。それに、今日来ましたのは、こちらのクヌフウタ先生が診察をして下さるそうです」
クヌフウタは言った。
「また診察に参りました。息子さんの調子はいかがですか?」
「あれからまた、痛みが酷くなったようで……」
「骨折は数日かけてだんだん痛くなるのです。今日もお手当させていただきたいと思います」
「なんとありがたい事でしょう。どうぞお入り下さい」
「正式にお医者さんには診て貰えそうですか?」
リリアは少し言葉を濁すように言った。
「いただいた寄付の半分はベギン会に寄付する形になりました。正直なところ、それで医療費に足りるかは判りません……」
「やはり……そうですか。今日の処置が上手くいけば、改めて医者へ行かなくて大丈夫かもしれません」
「本当ですか! それは助かります!」
手を固定したトビーは何も出来ず、すっかり悄げてベッドに寝転がっていた。クヌフウタはそんなトビーを見付けて声を掛けた。
「こんにちは。元気ないわね」
「シスターのお医者さん!」
「また診察に来ました。痛みは大丈夫?」
「痛くて何も出来ない。手も痛いし、足も痛いし、夜も痛くてあまり眠れなかった……」
「それは大変ね。診てみましょう」
クヌフウタはトビーの手の包帯を解いて、その固定を解いた。
その間にローラが言った。
「あの時は窓を急に開けてご免なさい。どうか不用意な私を許してね」
「僕は窓を開けようとしてたんだ。だから助かったんだよ。落ちたのは半分わざとだし、思ったより高くて着地に失敗して怪我したのは手違いだ。だからいいんだ。もう許してるよ」
「ありがとう…‥許してくれて」
包帯を開くと、その手はやはり昨日より腫れ、青く内出血の跡があった。
「内出血があって痛いのね。お薬を塗りましょう」
クヌフウタはここでもカレンデュラの花を摺り子木で磨り潰し、その黄色い汁を布に浸し、それを手に当てて包帯で巻いた。打ち身、炎症にも効く万能薬で湿布をした形だ。
「この黄色い花がお薬なの?」
妹のエルズは近くに来てそれを興味深く見ていた。
「ええ、そうよ。そして、今日はこれね。第二号よ」
クヌフウタはエルハルトの彫った添え木をペルシタから受け取り、それを掲げて見せた。
「木?」
「おもちゃ?」
「あなたのためにこれを作ってくれた人がいるの。大きさは合うかしら?」
添え木をトビーの手に当ててみると、ほぼ手の形と合った。
「あ、これぴったりだ」
「素晴らしい! 手の大きさはアフラに合わせたのだけど、合って良かったわ」
「アフラって、あの子?」
「ハイ! トビー! エルズー!」
扉から見える玄関にアフラが顔を覗かせていた。
エルズは思わずアフラを迎えに出た。
後にはエックハルトも来ていた。
リリアはその姿を仰ぎ、感涙を浮かべていた。
「まあ! エックハルト先生がここにいらっしゃるなんて……なんと有難いことでしょう……」
「私の講義の最中に怪我をしたようですから、少しの責任はあります。是非お見舞いをと……」
「今手当をしてもらっています。どうぞお入り下さい」
エックハルトとアフラは子供部屋に入って来た。
「トビー元気? 痛くない? あ、どうよその木型?」
入るなりアフラはトビーに質問を浴びせた。
「まあそれなりだね。この木型作ったのは知り合い?」
「私の兄さんよ。そうだ。そこに名前書いておいていい?」
「名前?」
「作った人の名前は大事でしょう? エルハルトっていうの」
そう言ってアフラはクヌフウタから木型を受け取り、ナイフで名前を彫った。
「ついでにお前も名前を書いておいてくれよ。シスター先生の名前も」
「え? そんなに?」
「忘れちゃうかもしれないから、それを記念に取っておくよ。いつか大きくなったらお礼をするよ」
「いいわ」
アフラは、自分の名前と、クヌフウタの名前を書いた。
「シスターのお医者様はクヌフウタさん。そして、こちらにいらっしゃるのが、エックハルト先生。私達の先生なの。書いておく?」
「うん!」
「お見舞いの記念に、それは私が書いてもいいかな?」
エックハルトがそう言うと、母のリリアの方が喜んだ。
「まあ! エックハルト先生のサインだなんて! 後で価値が付いてしまったらどうしましょう!」
エックハルトは木型とナイフを受け取って、そこに自身の名前を刻んだ。そしてそれを胸に抱くようにして祈りを込めた。
「天に坐します我らが父よ。早く怪我が治りますよう、神が助けて下さいますように。アーメン」
「ありがとう。なんだか早く治りそうな気がする」
トビーはそれを受け取り、礼を言った。
そこに刻まれた名前を手でなぞるが、トビーにはまだ少ししか字が読めなかった。
「字を覚えなきゃ……」
アフラは思わず笑って言った。
「そこから? 怪我を治す間に勉強すればいいわ」
「そうだね」
そしてクヌフウタはその木型をトビーの手に当てて、それをしっかりペルシタに持って貰いつつ、包帯で何重にも巻いて固定をした。
「さっきよりキツくて指も動かない……」
トビーの手はもう親指しか動かせなかった。クヌフウタは微笑を浮かべて言った。
「そうね。二ヶ月間、動かさないって約束したでしょう? 絶対動かさないなら固定がきつくてもあまり関係ないはずよ? こうして固定しても、思い切り動かせば骨がずれて一生変な形になるかもしれないわ」
「わ、わかった!」
少し脅しを入れたクヌフウタは、次にトビーの足も手当をした。
「膝を打って擦りむいたのね。立って歩けたのよね?」
「うん。立ち上がるのは痛いけど、立ってるだけなら大丈夫だった」
「これは痛い?」
クヌフウタは足を少し捻ってみた。
「うん? 少しだけだ。イタッ」
膝を曲げ伸ばしすると痛いようだ。
「こっちの足も傷みが酷くなるようなら病院へ行って診て貰ってね。関節は判りにくい場所なの」
そう言ってクヌフウタは足にも黄色い花の湿布をし、包帯できつく巻いた。
「よし出来上がり。じゃあトビー。このまま動かさないように頑張ってね」
「動かせないと、頑張れないかも」
「最良のことをするの。今それは動かさないこと。痛くても、かゆくても、これから暑くなって来てもそのままよ。それをこらえて頑張れるのはあなただけなの。出来るかしら?」
「わかった」
トビーは覚悟を決めたように頷いた。
「二ヶ月したら骨がくっつくから、外していいわ」
「長いなあ」
トビーは溜め息を吐いて嘆いた。
エックハルトがそれを見て言った。
「君のおかげでこの子が私の話を聞けたそうだね。それが聞けたことは大きな前進にもなろうし、私の真実を一人分広げてくれたことにもなる。君の功績だ」
「功績?」
「ああ、何よりこの子が勉強になって喜んでいた。そうだね?」
アフラも身を乗り出して言った。
「そーです! 私、お話を聞くためにウーリから来たの。トビーが窓を開けてくれたおかげで先生のお話が聞けて、後で先生にそれを聞き直せて、聞いてなかったクヌフウタさんにも話が伝わって、その後ですごい感動があったの。みんなトビーが窓を開けてくれたおかげ」
「そうだったんだ。いい先生みたいだね」
「それはもう!」
クヌフウタは思い出したのか、少し涙を滲ませている。
「あなたのおかげでもあったんですね……ありがとう」
「ありがとうね、トビー」
思う以上に深く二人から感謝され、トビーは慌てた。
「開けたかいがあって良かったよ。でも実際開けたのは、シスターだった」
ローラが首を振って言った。
「私は、あなたが窓を開けようとしていたから開けたの。それによって怪我をさせてしまった事では、悔やんでも悔やみきれません。もう二度とは開けないと、そう懺悔したんです。でも、怪我したあなたには、何にもならない……本当にごめんなさい……このお詫びを……何かさせて下さい……」
ローラからもまた涙ながらの謝罪が待っていた。
トビーはそんな逃げ場の無い周囲を見回して言った。
「二人で窓を開けたんだ。そういうことにしよう? シスター、僕、この間に字を勉強したいんだ。でもこの通り動けないし、時々教えに来てくれると嬉しいな」
「お安い御用です」
ローラは涙を拭いつつ頷いた。
母のリリアは「無理をいいまして、すいません」と礼を言った。
「私も勉強するー」
エルズもそう言うと、ローラは頷いた。
「じゃあ、みんな一緒に勉強しましょうか」
「やったー。よかったねトビー」
エルズは兄にハイタッチをしたが、その手は怪我した方の手だった。
「いって!」
そんなトビーにリリアが言った。
「バカね。どうしてそっちの手出すの?」
「利き手って思わず動いちゃう……」
クヌフウタは厳しめに言った。
「ハイタッチは禁止! 字を書くのも左手でね」
「はい……」
トビーは頭を掻いた。が、それも固定した手だった。
「頭を掻くのも左手でね。先が思いやられるわね……」
クヌフウタはそう言って、腕にさらに布を巻き、包帯を巻き付け、手のあたりを膨らませた。
「これでよしと。クッションになるでしょう。汚れればカバーした上だけ洗ってあげて下さい」
母親のリリアが言った。
「それは助かります。これで、医者へは行かなくても?」
「痛みが引かないようでしたら骨がくっついていないので、改めて医者へ行く必要が出て来ますけど、このまま痛みが引いてくれば大丈夫でしょう」
「本当に助かりました。大変ありがとうございます。では、こちらはお返ししないと」
リリアはそう言って、袋を取り出した。寄付で貰ったお金の半分だ。クヌフウタは慌てて首を振った。
「私は戒律もあって金銭は受け取れません。それは既にあなたにお預けしたものですから、今後の経過もありますし、良いことにお使いになって下さい」
「私もこの様な浄財を私的に使うのは畏れ多いです。では、これもベギン会にお預けします」
「それで結構です」
エックハルトがリリアに訊いた。
「あなたはベギン会の方なんですか?」
「ええ。このあたりの人は教会周辺の紡績小屋で働くので、みんな入ってます。生活の上での協同組合になっていますね」
「ベギン会の方が多く講義に来られるようなので、ちょうどどういう会なのかを知っておきたかったのです。是非一度、会の責任者に会わせては貰えませんか?」
「それはもう大歓迎です! エックハルト先生でしたら、大喜びで会ってくれると思います。昨日の講演の会誌を書いている所だと思いますから」
「では、これからでも?」
「ええ、もちろん!」
そうしてリリアとエックハルトは会の責任者の家へと向かう事になるが、クヌフウタ達修道女とアフラはエリーザベトを待たせているので、一度修道院へ戻ることにした。
「ただいま帰りました」
クヌフウタは客間で待っていたエリーザベトとエルハルトに声を掛けた。
「お帰りなさい。治療の方はいかがでしたか?」
「ええ。すべて上手くいきました。添え木もぴったりで、エルハルトさんのお陰です」
エルハルトは嬉しそうに言った。
「良かった。お役に立てて何よりですよ」
後から続いてやって来たアフラが言った。
「名前をしっかり書いておいたからね」
「そうか。作者の特権だな」
「ついでに私も名前書いた。クヌフウタさんとエックハルト先生も」
「ん? 寄せ書きか?」
「記念に取っておいて、大きくなったらお礼してくれるんですって。どういうお礼か楽しみ」
「気の長い話だな」
エリーザベトがあちこちを見て言った。
「エックハルト先生が見えられませんね?」
ローラが答えた。
「先生はベギン会の方にお会いになるそうで、残られました」
「そうでしたか。お別れのご挨拶が出来ないのは残念ですが、向こうの方々をお待たせするといけません。そろそろ出発しましょうか」
馬車の用意は既に調っていた。一行はすぐにエルハルトの幌馬車に乗り込んだ。
馬車の中は、布団を丁寧に折り畳んで白い布を掛けたベンチが出来ていて、横向きに四人が向かい合ってゆったり座れた。
ローラはクヌフウタに随いて行く予定だったが、しばらくはトビーの家に通うとのことで残る事になり、広場に見送りに立った。
「もっと色々お話を伺いたかったです。お元気で」
「あなたもお元気で。怪我と風邪の処置については、後でここにお手紙しますわ」
「ありがとうございます!」
エルハルトは御者台に乗って馬車を発した。一頭立ての馬車なので、登り坂は重量が厳しく、かなりゆっくりな運転だ。
「思う以上に乗り心地がいいですね」
エリーザベトが感心して言った。
それにクヌフウタも頷いた。
「そうなんです。木の根のガタガタ道も、心地良いくらいでした」
エックハルトが振り返った。前方の幌は全開に大きく開けてある。
「馬一頭なのでゆっくり走らせてますからね。正直四頭立ての豪華馬車とはかなりの差があるとは思いますが、寛大にご容赦を」
エリーザベトは首を振って言った。
「いいえ、乗り心地の面ではこの馬車の方が勝りますわ。速さもこれくらいの方が心安らかに行けていいですね」
「そう言って頂けると助かります」
クヌフウタはベンチを押して言った。
「この椅子はお布団なんだそうで、ここで宿泊が出来るんだそうですよ。この馬車なら何処までも遠くまで行けそうで、男の人はいいですね。ずっと乗っていても苦ではありませんし」
アフラも大いに同意して、お尻でベンチを跳ねてみせた。
「おしりが全然痛くないですもんね」
淑女達はそれにはノーコメントで首を傾げた。しかし目では肯定している。
ふと、最後方で一人離れて座っていたペルシタが言った。
「私にとっては、風が入るのがいいようです」
ペルシタは川で水浴びをし、今日は小綺麗にさっぱりとしていたが、服はまだ相変わらずだ。周囲にいる人もそれはありがたい事だった。
馬車は山道へ入って行き、エルハルトは先の道を指して言った。
「キーブルク城はこの川の上流だと聞きましたが、だんだん細く、悪路になってますね」
エリーザベトは答えて言った。
「ここは谷川になってますから。でも馬車道はしっかりあるはずです」
「それは良かったです」
その言葉通り、山谷が深くなっても道は整備されていた。ある分かれ道でエリーザベトに言われて山を登る道を取った。
エルハルトは御者台を降りて馬車を押しつつ急坂を登ると、丘の上は平らな台地となり、そこから遠くキーブルク城が見えた。
「見えましたね」
台地の上には森と田園が斑に有り、さらに一つ高い丘に、城壁が巡り、城塔が聳えていた。
「綺麗なお城……」
幌から顔を出したアフラは、その姿に見とれた。
エルハルトは御者台に戻って馬を発し、指差して言った。
「丘の上の城は、絵になりますね」
「キーブルク家は旧くは周辺一帯を大きく領にしていた名家ですからね。歴史があります」
「でも、ラッペルスヴィル城の方が大きいようですが?」
「そうなんですか?」
アフラは興味津々でエリーザベトに訊いた。
「ラッペルスヴィル城は比較的新しいですし、城壁内に町や修道院を入れていますからね」
「そうなんですね! これからそこにも行けるんですね!」
「ええ。我が城にも歓迎しますよ。ここで皆さん揃いますから賑やかになるでしょうね」
「それはもしかして、魂のお城のお話のようですね。ここのお城の風景も、エックハルト先生のお話から出て来たよう……」
アフラは夢見心地で言った。
この言葉はエリーザベトに、そしてクヌフウタにも、エックハルトの教説を思い起こさせた。そしてこの風景を見れば、魂の城と表現したそのイメージそのままで、見渡す限りの森と田園はその庭のようにも見え、心の窓が開くような気がした。
エリーザベトはアフラを羨望の目で見て言った。
「あなたという世界の窓を通してこの風景を見てみたいわ。私達をここへ連れて来てくれたのは、アフラ、あなたかもしれないわね」
「私は、何もしてませんよ?」
「講義があることを私達に教えてくれましたし、何もしないようでも進むこともあります。あなたの感性と強い意志が周囲を引き寄せているのですよ」
クヌフウタは首を大きく縦に振った。
「私もそう思いますわ。アフラが先生を強く思ったから、私達にも道が開いたと。でなければ、こんな遠いヴィンテルトゥールまではとても来られなかったでしょう」
「驚くべきは、ユッテ王女やイサベラ公女殿下をも巻き込んで連れて来たという事です。クヌフウタさんを含めると、三方の王家に先生の支持者が出来た事になります。ヴィンテルトゥールのベギン会も今やそうですし、私やルーディックを含めればもう一つ加わることになるわ」
「ここから世界が動いていく……そんな予感がしますね」
アフラは目を丸くして言った。
「えーっ。そんな大それた事になるんですか?」
「それは大きな出来事です。エックハルト先生の教説は、高邁さ、深遠さの上で聖書世界を上下に押し広げています。その影響力は世界の明暗に関わるものです。知られなければ一介の説教師ですが、広く知られれば世界は一つ上の段階へと進むのです。短い間にエックハルト先生はその手掛かりを得たのです」
クヌフウタが思い返すように言った。
「そうですね。それだけの方に直接ご指導頂けたのは、とても幸運なことでした」
「そしてそれは、クヌフウタさん、あなたもですよ」
「私も?」
「ええ。あなたも本国では精神的支柱となる方です。聖霊の来訪でそれは証明されたと言うべきでしょう。そしてそれは同時に義務でもあります」
「そうですね。そろそろ本国ボヘミアへ戻らなければと思います。それにはローマのアッシジで承認を貰って来なければなりません。アルプスを越えれば言葉も通じませんし、少し躊躇ってしまうのです。薬草園を造ることがここでしか出来ないせいもありますが、ずっとここから離れ難いような想いがしているのです」
「それはきっと、先生に出会うためだったのかも知れませんわ」
「そうですね。それに、皆様にもです。ウーリの方々もですよ。とても良くして頂いて、私はここへ来て、初めて心からの幸せに出会う事が出来ました」
そう言って、クヌフウタはアフラの髪を撫でた。アフラはクヌフウタを見上げて言った。
「お役に立てて良かったです」
エルハルトは背中でそれを聞いて、何か少しは役に立てただろうかと思った。
「アルプスの山を目の前に、なかなか越えられない人は、ウーリではよくいるんですよ」
エルハルトは振り向き、笑ってそう言った。
「そうなんですか?」
「ええ。越えるにはお金や人手、何より旅の食料と宿泊の計画がいりますから。言葉も違うし、他にも危険はいろいろ多いので、躊躇うのは当然です。だから気にすることはありません。お金を持てない分、計画を整えて、薬草をしっかり溜めて、それからでも遅くはありませんし、そうしないと越えられずに行き倒れます」
「いい事を言って貰えて、少し安心しました。最近はペルシタさんにもせっつかれるもので」
「私は、早く帰りたいと言っただけです」
ペルシタはさも当然というように言った。
エルハルトは言葉をさらに続けた。
「行くなら道に詳しい人に付いて行くのが一番いい。兵団や商団に加わるという手もあります。兵団は厳つい男ばかりだから少し問題がありそうですが……」
「そうですね。誰か信頼できるいい方がいればいいのですが……」
「俺はまだ詳しくないんですが、ウーリにはいくらでもいますよ? 知人に聞いておきましょうか? 近々行けそうな人を」
「それは大変助かります。お願いしてもいいですか?」
「任せておいて下さい」
エルハルトは小さく胸を叩いて言った。
エリーザベトは晴れやかな微笑をクヌフウタに向けて言った。
「こう言う時ウーリの人は頼りになりますわね」
「ええ。エルハルトさんにはもう頼りっぱなしです」
「兄さん、頼れるわあ!」
エルハルトは帽子を深くかぶり直して照れて赤くなる顔を隠した。




